夕食時にも関わらず人の往来が少ない食堂の前では、リツコの言葉通り、黒髪の少年が
レイのことを待っていた。小さな踊り場に設置されたいくつかの自動販売機の前で、やや
緊張した面持ちで長椅子に腰掛けているシンジ。その手の中では、ずいぶん前に空になっ
た清涼飲料水の缶が意味もなく弄ばれていた。

 一対一で互いに顔を合わせるのは、レイにとってもシンジにとっても久しぶりのことだ
った。学校でも本部でもお互いの姿が視界に入らないわけではない。だが、何か目的があ
ってお互いに向き合うというのは、ヤシマ作戦の後、シンジが入院中のレイを見舞いに訪
れて以来のことである。

 その時の出来事は、蒼銀の髪の少女の中に、不思議な程強い印象を残していた。

『ありがとう……綾波……』

 ベッドの脇に置いてあった椅子。それに腰掛けたシンジは、ほんの少し頬を紅潮させ、
照れたように顔をやや俯き加減にしながら、レイに対し、そんな何の飾り気もない、素朴
で心のこもった感謝の言葉を述べたのだった。

 だがレイにしてみれば、何故そんなことを言われるのか不思議で仕方がなかった。別に
感謝されるようなことをした覚えはない。単に自分は初号機を守るという与えられた任務
をこなしただけだし、むしろシンジが素早く第二射を放ったからこそ負傷の度合いもあの
程度で済んだ。そんな思いがある。それ故、はにかむようにして黙り込んでしまった少年
に対し、そのままそれを言葉にした。

『それでも……ありがとう……』

 すると、その言葉と共に今度はしっかりとレイの瞳を見つめるシンジ。そして、未だや
や戸惑い気味の少女に対し、少年は春の木漏れ日のような温かな微笑みを向けたのだった。

 プラグの中で見たものとは少し異質のその微笑みに、あの時とは違った意味でレイはど
うしたらいいのか分からなかった。ただ感じたのは、シンジの表情から発せられ、自らの
内へと伝わってくる不思議な波動や、それを見つめる自分の中でほんの少し体温が上昇し、
心臓の鼓動が高鳴っていったこと。

 自分は何を動揺していたのだろうか。シンジが去った後の病室で、そのときを思い返し
レイは一人自問を繰り返したが、結局その疑問に自答することは出来ずじまいだった。一
つだけ分かったことといえば、自分はきっとあの笑顔が嫌いではないということ。

 多分、それは悪いことではないだろう。ジオフロント内に作り出された人工の夕日を病
室の窓越しに眺めながら、レイはそんなことを思ったのだった。

「あ……。綾波……」

 ふと、意識が現実へと引き戻される。現在進行形の世界では、レイの姿に気付いたシン
ジが、そんな言葉と共に、少し慌てた様子で立ちあがるところだった。

「あ、あの……」

 他人の様子にあまり関心を払わないレイといえども、一見するだけで、シンジが普通の
様子ではないことはすぐに分かっただろう。立ちすくむシンジの視線は一つのところに落
ち着かず、右手は何かを握るかのような動きを繰り返す。垂れ下がった前髪に隠れてそれ
を確認することは出来ないが、ひょっとしたら額の辺りには、爽快感のかけらもない汗が
ジットリと浮かんでいるのかもしれない。

「綾波、その、リツコさんから……話は……聞いてると思うんだけど……」

「…ええ」

「……それで、その、どう……なのかな?」

「…何が?」

「いや、あの、ミサトさんのところに……来るっていう話……」

「…問題ないわ」

 それだけを告げると、視線を合わすこともなくシンジの脇を通りすぎるレイ。既にその
心は、自分がこれから為すべき事柄に向けられていた。もう新しい部屋に移れるというな
ら、まず何をするべきか。一度部屋に戻って、衣類や生活用品を取ってくるべきだろうか。
先にミサトの部屋に行って、学校の鞄を置いていくのがいいだろうか。それともそうした
ことは明日でもいいだろうか。

(…どれでもいい)

 例えどれを選択したとしても、労力の点でも時間の点でも大した違いがあるわけではな
い。それならば、とりあえずシンジの後についていくのがいいだろう。それに、もしかし
たらこれからの行動について、ミサトから何か命令が出ているかもしれない。レイはそう
判断した。

 それ故、振りかえってこれからの予定を聞こうとしたとき、まだ椅子の前で立ちすくん
でいる少年の姿を見つけ、レイは多少の戸惑いを感じた。自分を迎えに来たはずのシンジ
には、先導役を務めるどころか、後についてくる気配すら全く見られなかったのである。

「…どうしたの?」

「あ、いや、あの……」

「…行かないの?」

「え?」

「…葛城一尉の部屋に」

 途端にパッと明るくなるシンジの表情。やや頬を紅潮させ、視線をキョトキョトと彷徨
わせながらゴメンと謝る。一人で勝手に勘違いをしたことが恥ずかしかったのか、少し顔
を俯かせ気味にしながら、シンジはレイの横に並び歩き始めた。

 何の飾り気もない無機質な廊下を無言のまま少し歩いた後、二人はリニアの駅へ出るた
めのエレべーターに乗りこんだ。さして広くもない密閉された箱の中で、シンジは入り口
近くに位置を取り、レイは少し離れたところからその後姿を眺める格好になる。何の会話
もない静寂の中では、微かに聞こえる機械音と、フロア表示の変わっていく音が妙に大き
く響き渡った。

「……」

「……」

 同じ空間を共有する二人にとって、その場に漂う沈黙の質に違いがあるわけではない。
だが、レイにとっては何の感慨も抱かせないその雰囲気は、そのすぐ前に佇む少年にとっ
ては、緊張、不安、怖れなどの負の感情をかきたてるものだった。

 そのせいか、一分ほどの時間が経過した後、二人の間の沈黙を破ろうという意志がシン
ジの方に見られるようになる。右手はまた何かを握るような動作を始め、視線も右に左に
落ち着かない。開きかけた口からは何か言葉が具体的な形をとりかけては、それを抑えつ
ける意志の力と共に、喉の奥へと押し戻されていくようだった。

 そんなことを何度も繰り返した後でようやく決心がついたのだろうか。シンジはついに
首だけを後方に回しレイにチラリと視線を向けると、少しどもりながらも内心の思いを言
葉にするのに成功した。

「……あ、あの、これから、どうしようか」

「…何が?」

「このまま、真っ直ぐミサトさんの部屋に行く? それとも、一旦綾波の部屋に寄って身
の回りのものとかを取ってくる?」

「…どちらでも構わないわ」

「あ、ボクも別にどっちでもいいんだ。だから、ボクは綾波に合わせるんだけど……」

 おずおずとそんな言葉を返し、返事を期待するかのようにレイの様子を伺うシンジ。そ
の視線を受けるレイは、何か考えこむように少し俯くと、再び口を開いた。

「…葛城一尉から、命令は受けていないの?」

「命令? 命令……っていうか……。ミサトさんにはさ、本格的な引越しは明日にしたら
どうかって言われてるくらいで……。それ以上のことは特に何も……」

「…そう」

「うん……。それで、あの、どうする?」

「…どちらでも構わない」

 堂々巡りする会話に、隠しきれない戸惑いの色がシンジの表情に浮かぶ。どうあっても、
レイの方からの自発的な意志を期待するのは難しそうだということを感じ取ったのだろう。
それは言いかえれば、シンジ自身が何かの決断を下さなければならないことを意味する。
だがそうした類のことは、少年が最も苦手とすることの一つだったのだ。

「あ……えと……」

 かといってこれは、このままうやむやにして忘れてしまえる類の問題ではない。何より
目の前では、ルビーのような鮮やかさと深みを持った紅い瞳が、何か具体的な方向性が打
ち出されるのを待っているかのように自分のことをジッと見つめているのだ。シンジがそ
こに目に見えない無言の圧力を感じてしまったのも当然だった。

「……あの、それじゃ……」

 エレベーターのフロア表示が五階分ほど動いた後、シンジがようやく口を開く。

「今日は、このままミサトさんの部屋に行っちゃわない? 今から綾波の部屋に行くと時
間も遅くなっちゃうし……。それに、今日はミサトさんも仕事がそんなに遅くならないは
ずなんだ。だから、早めに夕食を準備して、それで三人で一緒にテーブルを囲んだりとか
さ……。あの、どうかな?」

「…それでいいわ」

「あ、ホント?」

「…ええ」

 レイのその言葉に、シンジの顔に浮かぶ緊張がほんの僅か和らぐ。自分の言ったことが
相手にどう思われるのかという不安が、それを受け入れてもらえたという、ささやかな安
堵に取って代わられたのだろう。

 そんな心境の変化に後押しされてだろうか。少し間が空いてから再び発せられた言葉の
中には、シンジの少しだけ前向きな姿勢が伺えた。

「……あの、ところで、明日はさ。ボクでよければ、綾波の引越し手伝うから」

「…手伝う?」

「うん。ほら、明日は土曜で学校も休みだけど、ボク何にも予定ないからさ。だから、も
しできることがあれば、少しは力になれると思うんだよね。例えば、何か荷物を運んだり
とかさ。もちろん、綾波が迷惑じゃなければだけど……」

「…別に、迷惑ではないわ」

「あ……。そ、そうなんだ。じゃあ、うん、手伝うから……」

 少し照れくさそうにそんなことを言うシンジの口元は、微かにほころんでいた。意外な
ほどにスムーズに進んだ会話。誰かの役に立てるという思い。沸き上がってくるささやか
な高揚感。若干の間が空いた後で、普段のシンジならまず言わなかったであろうことを口
にしたのは、そうした要素が交じり合い、少しばかり浮かれていたせいだろうか?

「……あ、あの、よかったら、鞄、持とうか?」

「…?」

 予想もしていなかった申し出に、レイは微かな笑みを浮かべているシンジを不思議そう
に見つめた。いつも学校に行くときに持参する学生鞄。これは自分の荷物なのだし、特に
助けを求めているわけでもない。だから、彼がそれを持つべき理由は何もない。それなの
に、どうしてそんなことをしようとするのだろう?

 それが理解できなかった故に、レイはしばしの間視線を目の前の少年に固定する。レイ
に取っては他意のない視線だったが、それをまるで睨まれているかのように感じたのかも
しれない。シンジの顔からは一瞬にして笑顔が消え去り、慌てたようにレイから視線を外
すと、ゴメン、とかそういった類のことをモゴモゴと呟きだした。

 自分は少し調子に乗りすぎたのかもしれないと、シンジが内心で後悔する一方、レイの
中では、リツコの部屋で感じた疑問が再びその存在を声高に主張し始めていた。

(…どうして?)

 どうして彼は自分の鞄を持とうとするのだろう?
 どうして彼は自分の引越しを手伝うのだろう?
 どうして彼は自分との同居を申し出たのだろう?
 どうして彼は自分のことを気にかけるのだろう? 

 振り向かせていた首を元の位置に戻したために、今はその後姿しか伺うことしかできな
い目の前の少年。彼に関しては、いつも“何故?”という疑問が付いてまわるようにレイ
には思えた。

 その存在をハッキリと意識するようになったのは、エヴァンゲリオンのパイロットとし
て初めて実戦に参加した作戦の前後のこと。二子山でのシンジの涙と、その後に見せた、
泣くという行為と笑うという行為の入り混じった表情は、レイの心の中に決して小さくは
ない楔を打ちこんでいた。自分の身を案じ、プラグの中まで救助に来てくれた人。自分に
対してあんな形で感情を露にした人。

(…碇司令)

 涙こそ見せることはなかったが、そうした行動を取ったのはゲンドウが最初だった。直
接目にしたわけではないが、事故の直後には、普段の様子からは信じられないくらいに取
り乱していたという事実もリツコに教えられた。

 二人の取った行動はよく似ている。そして、それを受けて自分が感じたものにもどこか
共通するものがあった。だが、一つだけ決定的に違うことがある。

 レイはゲンドウのそうした行動に対して、何故なのか、という疑問を特に感じることは
なかったのだ。

 ゲンドウはそうした行動をとった。何故ならあの人は自分が必要だから。確かに自分が
死んでも代わりはいるけれど、衆目の下で疑問の余地なく死なれてしまっては、次の自分
への移行もやりにくいに違いない。だから、あの人は自分の身を案じたのだろう。だから、
あの人は確認に来たのだろう。ゲンドウの行動にどこか心温まる自らを感じる一方で、心
の片隅では、そうした要素も確かに意識していたのだ。

 それが真実かどうかはゲンドウ以外誰にも分からないことである。レイならずとも、あ
のサングラス越しの表情から男が何を考えているのか読み取るのは難しいに違いない。し
かし少女にとって、少なくともそうした形での仮説を立てることは可能だったのだ。

(…でも、彼は違う)

 ふと、俯かせていた視線を白いYシャツ姿に滑らせる。目の前の少年、碇シンジに関し
ては、レイはそうした最低限の理由すら見つけることができないでいた。彼には自分のこ
とを気にかけるべき理由など何一つない。それなのに一体どうして……。心の中に蒔かれ
た小さな疑問の種は、今でははっきりとその芽を生じさせ、そこで成長を止めてしまう気
配もなさそうだった。

(…分からない)

 先程の、レイにとっては奇妙な申し出以来、シンジの方から再び会話を切り出す気配は
特に見られない。それゆえ――リツコの言葉の影響か、あるいはこの少女にしては珍しく
理性を超えた何かに促されたせいか――レイはその疑問について直接シンジに聞いてみよ
うかと感じた。

(…でも、それも不思議なこと)

 そう、理由ということで言うならば、レイ自身にもそれを尋ねるべき理由など何もない
はずなのに、どうしてそんなことをする気になるのだろう。

(……)

 せめぎあう小さな矛盾に少し逡巡した末、結局、レイはそれを聞いてみようと決断した。
自分の中にひっかかるものが残るのは気持ちのいいものではないし、それを聞いてはいけ
ない理由も存在しない。そんな、あまり積極的とは言えない理由付けを内心で済ませ、自
分で自分を納得させた後でレイは口を開いた。

「…初号機パイロット」

 その呼びかけにシンジの肩がピクリと震えたが、振りかえる気配はない。

「…初号機パイロット」

 念のためにもう一度呼んでみると、今度は振り向いた。

「あの……ボクのこと?」

「…ええ」

 まるでそれが当たり前であるかのように何の邪気もなく答えるレイに、シンジは戸惑っ
ている様子だった。狭いエレベーターの中には二人の人間しかいないのだし、レイの言葉
が呼びかけの形を取っている以上、それが誰に向けられたものかは明白だ。だが、サード
チルドレンとしての自分ではなく碇シンジという個人に目を向けてほしい、そんな意識を
心のどこかに持っている少年にとって、レイが使った言葉はあまり受け入れたくないもの
だったのかもしれない。

「あの、ゴメン……。できれば、違う呼び方をしてくれれば嬉しいんだけど……」

「…そう」

「……う、うん」

「…では、何と呼んだらいいの?」

「え? ……あ、いや、あの、何か、綾波の好きな風に呼んでくれていいよ」

 その言葉はすぐ前に言ったセリフと矛盾するようにも思えたが、他人の揚げ足を取り無
駄な会話をすることもないし、他人が望まない呼称を無理に使い続けることもない。それ
ゆえレイは、何やらモジモジするシンジを尻目に、目の前の少年をどう呼ぶべきかについ
て考え始めた。

 初号機パイロット。

 言われてみれば、確かにその呼び方には少し違和感があるし、あまりいい響きではない。
自分でも定かではないひどく曖昧な理由から、レイはそんなことを感じた。

(…では、どう呼べばいいの?)

 少し考えてみる。

(…碇)

 目の前の少年は自分のことを苗字で呼ぶから、自分もそうすればいいだろうか。最初に
浮かんできたのはそんな考えだったが、すぐにそのアイデアは破棄することにした。その
音は、語感は、自分の中で違ったイメージを呼び起こす。だから、あまりいい呼称ではな
いと感じたからだ。

 心の中で様々な代案を考えてみる。

 サードチルドレン。
 シンジ君。
 シンジ。

 どれも悪くない呼び方だ。学校や本部で実際にそう呼ばれているのをレイは聞いたこと
があったし、そう呼んではいけない理由などない。だが、選択肢は多いに越したことはな
いのも事実。他にも何か候補となるべきものはあるだろうかと、記憶の糸を手繰り寄せ、
更に思考を進めていくと、ふと、ある呼称を思いだし、それに心のベルが静かな音を立て
て反応した。

(…そう呼ばれていた)

 レイがその言葉を聞いたのは、ヤシマ作戦のときのことだった。シンジのところに食事
を持っていってほしいと依頼されたとき、確かにミサトがシンジのことをそう呼んだのだ。

(…それが、いいかもしれない)

 二人は同居しているのだから、ミサトはいつもその呼称を使っているのだろうし、彼も
きっとそれには慣れているだろう。それならば、そう呼ぶのが一番自然なことなのかもし
れない。そう判断したレイは、素直にその言葉を口にした。

「…シンちゃん」

「……っ!!!」

 途端に、少年漫画に出てくるような大げさな効果音が発されそうな勢いで、シンジの体
が激しく痙攣した。無表情で、しかもボソっと呟くようなレイの声。しかしそれは独り言
でもなんでもなく、自分に対して向けられているのだということは、シンジにもハッキリ
と分かったのである。

 レイを見つめるその表情、そして軽くひきつるその口元からは、この世のものではない
ものを見てしまったかのような驚愕と、その感情の数歩後を追いかけてくる微かな怯えの
影が見て取れる。加えてその頬はひどく紅潮しており、他人の感情の動きに鋭敏でないレ
イの目にも明らかに動揺の痕が見て取れた。

「あ、あ、あの、それも、ちょっと、あの、できれば違う呼び方を……」

「…ダメなの?」

「あ、いや、ダメっていうか。その、何ていうのかな、えと、ボ、ボクたち、もっとお互
いを知り合うべきだと思うんだよね……」

 レイならずとも訳の分からないセリフを吐くシンジ。おそらくは動揺のあまり言ってい
ることの意味がよく分かっていないのであろう。

 それを口にする本人すらよく分かっていない言葉を、レイが理解できるはずもない。好
きなように呼べというからそうしたのに、やはりそれはダメだというシンジ。結局のとこ
ろ、目の前の少年の中ではいろいろな条件があるようだ。ならば、やはり彼自身が、どう
呼んでほしいか言うべきではないだろうか。

「…では、あなたが決めて」

「へ?」

「…何て呼べばいいのか、決めて」

「……あ、じゃ、じゃあ……えと……あの……碇君……とか、そういうので……」

 戸惑いと照れが入り混じった少年の言葉を受けて、レイは今まで思いつかなかったその
呼称を心の中で使ってみる。

(…いかりくん)

 違和感は、ない。

(…碇くん)

 むしろ、不思議なくらいしっくりとくるような気がする。

(…碇君。…そう、彼は、碇君)

 心の中で何度かその言葉を使っているうちに、レイは奇妙な感覚が自らの内から沸き上
がってくるのを感じていた。目の前の少年、サードチルドレン、碇シンジ。それ以上でも
それ以下でもなかったはずのモノトーンの存在。それが今では、自分の中の少年のイメー
ジが途端に色を持ち始め、命の息吹を吹き込まれたかのように、いきいきとし始めたよう
に思えたのだ。

「…分かったわ。……碇君」

「……あ、う、うん」

 それだけをどうにか言うと、シンジは益々頬を赤らめ、くるりと身を翻しリフトのドア
の方を向いてしまった。それゆえ、自分の中で生まれた未知の存在に戸惑い、そして俯い
てしまったレイの様子に、ついにシンジは気付くことはなかったのである。

 それっきり会話は途切れ、再びその空間が静寂で満たされる。エレベーターに乗りこん
だ直後は何の感慨も抱くことのなかった沈黙。だが、シンジと自分の間に横たわる空気に
対し、レイは先程とは違う、何かむずむずするようなものを確かに感じ始めていた。

(……)

 自らの置かれている状況が劇的に変化したわけではない。同僚であり、クラスメートで
あり、今日からは新たに同居人となるという少年と、二人でエレベーターに乗っている。
言葉にすればただそれだけのことである。そこには何ら動揺する理由はないし、心が揺れ
るような要素もあるはずがない。少し前までは、実際そうだったのだ。

 では、何が変わったというのか? 

 再び考え込むレイだったが、長い時間を掛けて考えるまでもなく、自然とその思考はあ
る一つの仮説へと辿り着く。

(…何かが、私の中で変化した)

 そして、おそらくその変化を呼び起こしたのは……。

 目的地へ到着したことを知らせる無機質な電子音がその場に響き渡ったのは、レイがそ
んなことを考え始めた矢先のことだった。


I wish 2 -Prayer-


「……あの、いっぱい歩かせちゃってゴメン」

 エレベーターの中で、そんな言葉と共にシンジが口を開いた。

「…どうして、謝るの?」

「いや、あのさ、後から考えて思ったんだけど、別に綾波に一緒に来てもらうことはなか
ったんだよね。最初にミサトさんの部屋に行って、それからボクが一人で出てくればよか
ったなって思って……。だから、何だか綾波のこと無駄に連れまわしちゃったみたいで申
し訳ないなって……」

「…別に、謝る必要はないわ」

「あ、そ、そう……」

 本部を出た後、二人は夕食の買い物をするために、ミサトのマンションの近所にあるス
ーパーへと立ち寄った。新たな同居人を迎えるということもあり、普段の予算の1.5倍
近くの金額を消費したシンジ。その増加分の大半を占めるものが、レイの嫌いなものであ
ると聞かされたのは少し残念なことだったが、その分、普段は使わない他の食材も買いこ
むことにより、その埋め合わせとしていたのである。

 当然ながら買い物の主導権を握ったのはシンジだった。レイはといえば、慣れた手つき
で買い物篭に品物を入れていくシンジの後ろを、無言でただついて行くばかり。代金を支
払い、品物を詰め込んだ買い物袋を二つぶら下げて、マンションまでの15分ほどの距離
をずっと歩いてきたのも、言うまでもなくシンジである。

 どう贔屓目に見ても、レイは何一つ生産的なことはしていないといっていい。レイ自身
もそれは自覚している。確かにシンジの後についてそれなりの距離を歩いたのは事実だっ
たが、わざわざ謝罪の言葉を向けるほどのことでもないだろう。それなのに、この少年は
自分に対して謝罪の言葉を投げかける。それが不思議だった。

 だが目の前の少年は、そんなレイの、戸惑いとも言えないような微弱な心の揺れには気
づくこともなく、話を続けた。

「ねえ、綾波は今までミサトさんの部屋には来たことがあるの?」

「…いいえ」

「あ、そうなんだ。綾波は、前のアパートでは4階に住んでたよね。ミサトさんの部屋は
11階だからさ、きっと前のところよりもベランダからの眺めはいいはずだよ。それに南
向きだから日当たりもいいし、海のほうから吹いてくる風も気持ちいいんだ。だから、住
むには良いところだと思うよ。綾波も気に入ってくれるといいんだけどね……」

 そんな他愛もない雑談をしている内に、多少の減速感と共にエレベーターがその動きを
止める。目的の階に到達しドアがスライドすると二人はエレヴェーターを降り、先導する
かのようにシンジがレイの先に立つ。角を一つ曲がって、廊下の突き当たったところがミ
サトの部屋だった。

「……あ、ここだよ」

 振り向き、笑顔と共に、少女の新たな住まいとなるはずの部屋を紹介する。そしてシン
ジは持っていたカードキーを取り出すと、手馴れた仕草でそれをスリットに滑らせた。

 プシュ

 そんな軽い空気音と共にカードが認証されドアが開くと、シンジが先に中に入る。少年
は両手に下げていた買い物袋を玄関先に置くと、まだ背後に佇んだままのレイの方を振り
向いた。

「……あの、入らないの?」

「…お邪魔します」

 やや俯き加減だったレイは、シンジの声に軽く視線を上げ、そんな言葉と共に部屋に入
った。鞄を玄関先に置き、靴を脱ごうと軽く身を屈め、片足を上げようとする。レイがシ
ンジの何か言いたげな表情に気がついたのはそのときのことだった。

「…どうしたの?」

「あ、いや、あの、綾波……」

「…何?」

「あの、ゴメン、こんなこと言って。でも……さ、今日からここは綾波の家なんだよ?」

「……?」

「だから、あの……お邪魔しますっていうのは、少し、変じゃないかなって思うんだけど」

 上げかけた足を元の位置に戻すと、怪訝そうな表情でシンジを見つめるレイ。自分の言
わんとするところが相手にうまく伝わっていないことに気づいたシンジは、更に説明の言
葉を加えた。

「あの、綾波は今日からここで暮らすんだからさ。ここが綾波の帰ってくる場所なんだか
らさ。だから、あの、ただいまって言ったほうが、いいんじゃないかなって思うんだけど」

「…そう?」

「う、うん、あの、ゴメン。来たばっかりで、こんなこと急に言われても戸惑っちゃうか
もしれないけど。でもさ、実は、ボクも初めてここに来たとき綾波と同じことを言ったん
だ。そしたら、ミサトさんにただいまって言わなきゃダメだって言われてさ……」

「……」

「きっとミサトさんはさ、ボクはもう家族の一員だって言いたかったんだと思うんだ。だ
から、それと同じで、その、ボクが言いたいのは……。綾波もさ、ボクたちの、家族にな
るんだ。だから……ただいま……って言えば、いいと思うんだ……」

 そういうものだろうか。やや頬を赤く染めながらも、一生懸命言葉を紡いでいくシンジ
の様子に、レイはそんなことを感じた。家族。もちろんその言葉の持つ意味は知っている。
だがその意味を知っていたからこそ、その概念は、今までも、そしてこれからも、自分に
は縁のないものだし特に必要なものだとも思っていなかったのだ。

 だが何の縁故か、自分は今日から「家族」という共同体に属することになったらしい。
もしそうだというのなら、その枠組みの中における行動は、シンジの言うことを参考にす
べきなのかもしれない。きっと、その「家族」の中での経験は、目の前の少年の方がずっ
と豊富なのに違いないのだから。

 だから、言ってみた。

「…ただいま」

「あ……う、うん……」

 自らが発したその言葉自体には、特に何の感慨も沸き上がらなかった。帰宅したことを
宣言する言葉。初めて使った言葉だが、それ自体はどうということのない、大したもので
はないようにレイには感じられた。

 むしろ、少女の心の海に静かな波を巻き起こしたのは、その言葉を受けてシンジが見せ
た反応だった。そのはにかむような微笑みは、あの病室で見たそれと酷似しているように
思えたのだ。

「あ、あの、お、おかえり、綾波」

 照れたような、それでいてその内面から沸き出す喜びを隠し切れないシンジの表情とそ
の声色に、レイの心に一滴、不思議な色をした水滴が垂らされ小さな波紋を巻き起こす。
そしてその小さな輪が徐々に大きくなり、不思議な熱と共に体中に拡散していくに連れ、
それまであまり経験したことのない感覚が自らの内から沸き起こってくるのを少女は感
じた。

(……おかえり)

 その言葉。初めてかけられた言葉。そして目の前のシンジの微笑み。

 今自分が感じているこれは一体なんだというのだろう。どうして自分はこんな気持ちに
なるというのだろう。

「……た……ただいま」

 そして何故、自分はもう一度同じ言葉を繰り返しているのだろうか。数瞬前には何の感
動も呼び起こさなかったその言葉に対し、先程とは全く違ったものを感じるのはどうして
なのだろうか。

「……うん、おかえり」

 内心で戸惑うレイに、シンジがもう一度微笑みかける。あの時のように、しっかりと自
分を見据え、温かな波動と共に向けられる優しい笑顔に、レイは自らの体温――特に頬の
辺り――が上昇していくのをはっきりと感じた。

「それじゃあ入ろう?」

 そんな言葉と共に自分の先に立つ、シンジの後姿を視界に入れるのすら、何故だか憚ら
れる。心が、乱れている。それが、はっきりと分かる。

(でも、私、どうして、こんな……)

 エヴァのテストにおいても、学校生活においても、日常の事柄の何をするにしても、レ
イの心にはいつも迷いがなかった。自分の中には常に確信があり――それは、もっぱら他
者によって与えられたものだったが――それに従って行動する少女は自らと自らの行為に
疑いを持つことなどなかったのだ。

 だが、その時レイは確かに戸惑っていた。あの時病室で見たのと同じ笑顔、そして、お
そらくあの時感じたのと同じ気持ち。それらはどうしてこうも自分の心を揺さぶるのか。
それを教えてくれる人間は誰もおらず、そんな感情に翻弄される自分自身のことすら彼女
には理解することができなかったのである。





(気になる……)

(ものすごく気になる……)

 悪いなと思いつつも、食事中、ボクは向かいに腰を下ろす綾波の様子をチラチラと伺わ
ずにはいられなかった。別に綾波の様子に変なところがあったわけじゃない。それどころ
か見た目は普段と全く変わらないように思える。つまり無表情。ただ黙々とスプーンを口
に運ぶその様子から、綾波の思うことを読み取ることは難しい。……というか、ほとんど
不可能と言っていいと思う。さっきから視線が何度か交錯していたけれど、その度にボク
が慌てて目を逸らしてしまったこともあり、やっぱり綾波が何を考えているのかよく分か
らなかった。

 そんなに気になるのなら、直接本人に聞けばいいのにと自分でも思うけれど、でも、そ
う思うことと実際にそれをやることっていうのは全然違うわけで。そういうところは直さ
なければいけないと自分でも思う反面、やっぱりボクの口は、頭の中で思っていることを
口にはしてくれないのだ。

『ねえ、そのクリームシチュー、おいしい?』

 たった、それだけのこと。きっとミサトさんなら、何の苦労もなく聞いてしまえること
だと思う。でも、ボクにとっては、それはものすごく勇気のいることなんだ。

(ああ、でも実際のところどうなんだろう……)

 そんな思いがどうしても自分の中から消えてくれない。スーパーで何か好き嫌いがある
か聞いたとき、綾波は肉が嫌いだといっていた。だからその器の中には肉を入れないよう
に十分注意してある。だからそのことに関しては大丈夫なはずだ。味のことに関してはミ
サトさんも綾波も特に何も言っていないし、ボク自身ひどい味だとは思わない。けれど、
味の好みは人それぞれということもある。実際、ミサトさんみたいに何を食べても美味し
いって言う人もいるわけだし……。

(どうしよう、聞いてみようかな。でも、もし、あまり美味しくないって言われたらどう
しよう。ちょっと落ち込んじゃうよな……)

 視線を少し横にずらすと、ミサトさんの姿が目に入る。何かそれっぽいことを綾波に聞
いてくれないだろうかとボクは密かに期待しているのだけれど、その意識の矛先が目の前
の料理に向けられる気配はなさそうだった。

 ミサトさんは、持ち前の明るさでさっきからしきりに綾波に話しかけている。けれど、
それに対する綾波の反応は少し素っ気無い。はい、とか、そんな生返事しかしていない印
象だ。こう言ってはなんだけれど、話をちゃんと聞いているのかすら定かではない。綾波
らしいといえば綾波らしいけれど、もう少し興味がある素振りを見せてもいいんじゃない
か、などと感じてしまう。

(ちょっとミサトさんが可哀想かも……)

 そんなことを思っていると、それが何度目だったか思い出せないけれど、綾波と再び視
線が合ってしまい、その日何度もそうしていたようにボクは慌てて視線を外した。

(何やってるんだよ、ボクは。食事中に人のことチラチラ見るなんてよくないよ)

 こんなことはもうこれっきりにしよう。自分で自分を叱責した後そう決心したボクは、
テーブル中央に置かれたミネラルウォーターのボトルへと手を伸ばそうとする。綾波の
食事の手が止まっているのに気がついたのはその時のことだった。

「…碇君」

「へ?」

 綾波は、ジッとボクの方に視線を投げかけていた。綾波の言葉がハッキリとした呼びか
けの形を取っていたせいだろうか。それまでとは違って咄嗟に視線を外すことも出来ず、
ボトルに手を伸ばしかけたままでボクの動作も止まってしまう。そして綾波は数秒間その
ままボクを見つめた後で、ポツリと呟くようにして尋ねた。

「…どうして、私を見るの?」

「え?」

「…学校でも、私のことを見ていた。何か、聞きたいことがあるの?」

「おっ、そうなんだ? どうしたのかなぁ、シンちゃんったら」

 その瞳に吸いこまれそうな、とはよく使われる表現だ。けれど、実際そのときの僕は、
漏斗に注がれる水がただ一つの出口に向かっていくように、自分の意識の全てがその紅い
瞳一点に引き寄せられていくような感覚を覚えた。そんな中では、ミサトさんの横槍すら
もどこか遠い世界のただの音のように思えてしまう。

「あ……ゴメン……。いや、別に用があるわけじゃなくて。ただ、その、夕食が綾波の口
に合ったかなって、それが気になって。あの、それ以上の意味はなくて……」

「…そう」

「う、うん。気を悪くしちゃったらゴメン……」

 そこで再び言葉が途切れる。視線を下に落とす綾波の様子に僕は会話の終了を予期した
けれど、数瞬の間の後に綾波は更に続けた。

「…では、何故私のことを気にするの?」

「な、何故って……」

「…何故、私との同居を申し出たの?」

「……へ? ボ、ボク?」

 一瞬ポカンとしてしまった。普段は無口な綾波の、矢継ぎ早の質問に少し戸惑ったとい
うのもあるし、それに綾波の言っていることの内容もよく分からない。ボクが綾波と同居
したいと申し出た? 自分はそんなことを言っただろうか? 確かに、綾波が家に来るの
は賛成だと言ったけれど……。

 問われた側のボクが、咄嗟にその疑問に答えられなかったせいで、リビングには少しの
間静寂が漂う。

 自分の言ったことを全て覚えているほどに記憶力が良いわけではないけれど、覚え出せ
る限りではボクはそんなことを言っていない。100パーセントの確信があったわけじゃ
ないけれど、相変わらずジッとこちらを見つめる視線の前では、ずっと黙っているわけに
もいかないわけで。

「いや、別に、ボクは……」

 そんな言葉で会話の空白を終わらせようとしたとき、ミサトさんが少し慌てた様子でそ
れに割りこんだ。

「そ、それがさあ、シンジ君ったら妙にレイのこと気にしててさあ。ボクにはそうしたの
に、どうして綾波のことは引き取ろうと思わなかったんですか? なんて聞いてくるのよ
ね〜。それであたしピンときちゃったのよ。ああ、そういうことかってさ」

「な! ……ち、違うよ。別にそういうんじゃなくって。あの、ミサトさんの言うこと信
じちゃダメだよ」

「な〜に言ってんのよ。ホントのことじゃな〜い」

「は、話の膨らませ過ぎですって!」

「なんてったって、レイのために自分が今までいた広い部屋を空けてあげたんだもんね〜。
そんくらいシンちゃんは気合入ってたんだから」

「い、いや、でも、ボクはそんなに荷物も多くないし、綾波は今まで一人暮しだったんだ
から、いきなり狭い部屋に移ったらいろいろやりにくいだろうし……それに、それに……」

「…別に、いいのに」

「まあそう言わないの、レイ。せっかくのシンちゃんからの熱い想いなんだからさ」

 ニヤニヤしながらそんなことを言って、グイっと缶ビールを呷るミサトさんが少し恨め
しい。

(あ、熱い想い?)

 またミサトさんの悪い癖が始まった。どうしてそういうこと本人の目の前で言うんだろ
う。何か変な誤解されたらどうするんだろう。それに、綾波だってそんなこと言われたら
きっと迷惑に違いないのに。

 ボクが内心であたふたしている一方で、当の綾波は少し俯き、食事の手も先程からずっ
と止まったままだ。何か考え込んでいるのだろうか。もしそうなら、何を考えているんだ
ろう。ミサトさんの冗談で気を悪くしていなければいいんだけど……。

 ボクも、会話の主導権を握っていたミサトさんも、少し息をひそめ、なんとなく綾波の
様子を伺う。そして数秒後、綾波が顔を上げ、その視線が再びボクの顔に固定された。

「…碇君は、私に一目ボレしたの?」
  
「……は?」

 静まり返る室内。
 ピンと張り詰める空気。
 固まるボク。
 それを見つめる紅い瞳。

 一瞬の間。

 そして動き出す時間。
 堰を切ったように笑い出すミサトさん。
 激しくうろたえるボク。
 それを見つめる紅い瞳。

「あ〜っはっはっは。そっかあ、そうだったのねえ、シンちゃ〜ん。な〜んだぁ、一目ボ
レかあ。そりゃあいいわね〜。ごめんね〜、気付いてあげられなくってさぁ」

(なななななななな、何を言ってるんだよ、あやなみぃ)

 よりにもよって、よりにもよって、ミサトさんの前でそんなこと言うなんて、言っちゃ
あ悪いけれど最悪だ。地雷地帯を何の装備もなしに呑気に走りまわるようなものだ。

「あ、あ、あ、ち、ち、ちちっ、違うよ。そんなんじゃなくて」

 裏返った声と、メチャクチャどもってしまった自分に気づいた時はもう遅い。頬の辺り
が一気に熱くなってくるのをはっきりと感じる。何を焦っているんだろう。何を動揺して
いるんだろう。違うなら、ただそう言えばいいんだ。そんなこと分かってる、分かってい
るんだ。でも、そう思うことと、それを実際にやることは……。

「…違うの?」

「あぅ……」

「あ〜レイ。気にしないで。シンちゃん照れてるだけだからさ〜」

「ミ、ミサトさん!」

「…そう」

「そ、そうって。綾波も納得しないでよ」

「…違うの?」

「い、いや、だから……」

 視線が一点に定まらない。うまく考えがまとまらない。何て言えばいいのか分からない。
それに何だか頭がクラクラする。そんなボクを、そしてこんな千載一遇のチャンスを逃す
はずもなく、そこからはミサトさんの独壇場だった。あることないこと脚色を加えて、ミ
サトさんがペラペラと喋り出す。

「レイ、あんたは覚えていないかもしれないけど、初号機に乗るって決めたときのシンち
ゃんは、そりゃあカッコ良かったのよ〜。やります、ボクが乗ります、な〜んて言っちゃ
ってさ。今思えば、それはきっとレイを守るためだったのねえ。あれはシンちゃんの決意
の表れだったのねえ。そっかあ、既にシンちゃんはあの時レイに惚れちゃってたのかあ」

「あ、ち、ち、ちが、ちが……」

「そういえばね、レイ。前にシンちゃんにあんたのIDカードを渡してくれって頼んだと
きも、シンちゃんったら、ジーっとあんたの写真みつめちゃってさあ。あの視線の熱さっ
たらなかったわねえ」

「いや、あの、綾波、違うんだ。ボクは、別に、そんな……」

「で、なんでそんなにレイの写真を見つめてるのか聞いたらさあ『ボクは綾波のことよく
知らないから』なんて言ったのよ。それって裏を返せば、レイのことをもっと知りたいっ
てことよね〜。ま〜ね〜、これからは一緒に暮らすわけだから、お互いのことをいろいろ
知り合えるわよねえ」

「た、確かに、そういうことは言ったけど、でも、ボクは、そんな意味じゃ……」

「でもね、レイ。シンちゃんのことだから、いきなりガバッとくることはないだろうけど、
一応男の子なんだからいろいろ気をつけるのよ。簡単に許しちゃうと、男なんて、す〜ぐ
に付けあがるんだからさ」

「…はい」

 悪夢。それ以上に、その状況を表現するのに適した言葉をボクは見つけることが出来な
い。何で、どうして、こんな展開になってしまったというのだろう。こういうことは、綾
波とは最も縁遠いことだと思っていたのに。

 でも、そんなことを考えたって目の前の状況が変わるわけもないわけで。魂の抜け殻と
化したボクの目の前では、延々とミサトさんのからかいが続いた。そして、それを少し不
思議そうに見つめる綾波の姿。

 そんな、拷問以外の何物でもない時間が一体どの位経過したというのか。夕食が漸く終
了し、ボクがふらふらと三人分の食器をシンクに持っていっても、まだミサトさんの話は
続いていた。

「そんでさあ、技術部のマヤちゃんがいるでしょう? あの娘にいわせりゃさあ……」

 そんな状況で、ボクにできる唯一のことといえば、それは、逃げることくらいのもの。
 
 逃げちゃダメだ、という気にはならなかった。何故って、ああなったミサトさんを止め
られるのはリツコさんくらいのものなんだ。ボクにはとてもそんなことは無理だって分か
っているし、逆に、自分がここにいたら火に油を注ぐことにもなりかねない。だから、ほ
とぼりが冷めるのを待つのが一番いいことのように思えた。綾波にはミサトさんがいない
ときに誤解を解けばいい。 

 そう、これはこの間の戦術シミュレーションでミサトさんが言っていた、戦略的撤退、
ってやつなんだ。一旦引いてから態勢を立て直すのは、逃げるのとは違うってミサトさん
言ってた。だから、ここからいなくなるのも別に恥ずかしいことじゃないんだ……。 

「ミサトさん……。ボクお風呂に入りますからね」

「え〜、何でよ〜。シンちゃんもこっちに来て座んなさいよ〜」

「ボ、ボクはいいです!」

「あによ〜、照れることないじゃ〜ん。もっとゆっくりしていきなさいよ〜」

 背筋も凍りつくミサトさんの笑顔と猫なで声を背に部屋に戻り、着替えを引っつかむと
脱衣所に駆けこむ。

 服を脱いでいる間にも聞こえてくる、ミサトさんの、本当に、本当に、楽しそうな声に、
内心で大きな大きな溜息をつく。人の噂も七十五日というのなら、これがあと七十四日も
続くのだろうか。

 そのことに気分がズーンと重くなりながらも、ボクは服を脱ぎ浴室へと入った。何度も
溜息をつきつつ体を洗い、心の奥底から地下水のように沸き上がってくる恥ずかしさに、
かきむしるかのようにして髪を洗った後、湯船に入りようやく一心地つく。

 きっと今もミサトさんの独演会は続いているんだろう。そのことには少し……いや、か
なりゲンナリしてしまう。けれど温かいお湯に浸かって目を閉じていると、その渦中にい
た時とは違い、少し冷静な思いで先程の出来事を捉えることができた。

 あの会話。毎回ああいう風にからかわれるのは勘弁してほしいけれど、でも、ああいっ
た雰囲気になれたのは悪いことではない気がした。実際、あのやりとりは、どこかいい感
じではなかっただろうか? 口数は少ないけれど、綾波が会話の口火を切って、それにボ
クやミサトさんが絡んで……。今思えば、ミサトさんも場を盛り上げようとして、いつも
以上にはしゃいでいたようにも思える。

 果たしてうまく会話が弾むのか。雰囲気がどこかぎこちないものにならないだろうか。
実際に綾波がここに来るまではいろいろ心配なこともあったけれど、これは出だしとして
は上出来の部類に入るのではないだろうか。

『シンジ君が来る前は自信がなかったの。自分はあの子と二人だけでやっていけるのかな、
ってね……』

 ミサトさんは、綾波を引き取らなかった理由についてそう言っていた。その気持ちは分
かる気がする。実際、もし僕と綾波が二人だけだったなら、先程のような展開には絶対に
ならなかっただろうし、綾波とミサトさんが二人きりだったとしても、あんな会話は生ま
れなかったのかもしれない。

 けれど今は違う。もし一人が話すことがなくなったなら、もう一人が何かを話せばいい
のかもしれない。二人ではぎこちなくなってしまう雰囲気も、三人でなら全く違うものへ
と変えられるのかもしれない。ボクたちは、そんな風にして助けてあっていけばいいのか
もしれない。

(そう……だよね……。きっと、なれるよね、綾波とも。家族にさ……)

 それはひどく楽観的で何の根拠もない考え方かもしれないけれど、でもこれからもきっ
と、ボクたちはこんな風にやっていけるのではないだろうか。いろいろ大変なこともある
かもしれないけれど、でもきっとうまくいくのではないだろうか。

 そして、いろいろな話をして、いろいろなことを経験して、また綾波が笑顔を見せてく
れたなら、そしてみんなで微笑みあうことができたなら、それはとても素敵なことではな
いだろうか。

 自らの心の鏡に浮かび上がるそんなイメージに、浸かっているお湯の温かさから来るも
のとは別物の、どこか不思議な熱が身体の中に広がっていくの感じた。

(大丈夫だよね、ミサトさん、綾波……。ボクたちそんな風になれるよね……)
 
 湯船の淵に頭を乗せ、リビングの光景を想像する。

 今も何かを喋っているだろうミサトさん。
 そんなミサトさんの話を黙って聞いているだろう綾波。
 そんな二人のことを思いながら、ボクは心から願った。

 前とは違う生活が始まる。
 新しい生活が始まる。
 どうか、それが幸せなものになりますように……って。

 ボクたちがこれからどこへ向かうのか、
 その時は、まだ見当もつかなかったけれど……。


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