(何度入っても、この部屋の雰囲気には慣れないわね)

 右から左へ、そして左から右へと視線だけを動かすと、赤木リツコは周りに気づかれな
い程度の軽い溜息をついた。

 小さな野球場ならばすっぽりと入ってしまうであろうその部屋。窓から差し込む光以外
には最低限の照明しか使用されていないため、ひどく薄暗いその空間は、ネルフのトップ
に君臨する男の執務室として使われていた。

 非公開組織であるとはいえ、ネルフほどの力を持った組織の司令官がこんな執務室を使
っているのを見たら、所謂政府高官や企業トップといった人々は何を思うだろうか。リツ
コはそんなことを思った。たった一つぽつんと置かれたデスク、三百六十度四方に設置さ
れた窓、天井と床に描かれた奇妙な紋様。この部屋にあるものを全て数えるには、片手だ
けで十分足りるだろう。古来より、意図的に作られた無駄なスペースは権力者の特権とも
言うべきものであったが、この場所は些かその度が過ぎるように思えた。

(部屋というものは、その持ち主の性格をよく反映するものだけど……)

 もしその線でいくのなら、この何の匂いもしない無機質な部屋は、目の前の男をよく象
徴するものであるかもしれない。そんなことを思いつつ、リツコは眼前で指を組んでいる
直属の上司を見つめた。

「……用件を聞こうか」

「はい。先日司令の認可を頂いた件ですが、昨日レイが葛城一尉の部屋に入りました」

「……そうか」

「それに伴い、書類上のことではありますが、レイの保護者についてどのような処置を取
ったものかと。このまま私がその役割を務めても問題はないのですが、あるいはこれを機
に、葛城一尉をその後任としてもよろしいかと思います。その件について司令のご指示を
頂きたいのですが」

「君の意見は?」

「客観的に見れば、葛城一尉がその任に当たるのが自然かと」

「では、それで問題なかろう」

「分かりました。ではこちらにサインを頂けますか」

 差し出した書類に手早くペンを走らせるゲンドウを見下ろすと、数瞬の逡巡の後、リツ
コは口を開いた。

「それにしても、正直、驚きましたわ。今回の件に関してはきっと反対されるものだとば
かり思っていましたから」

「……まるで反対して欲しかったような言い方だな」

「そんなことはありませんが……。ただ、司令はレイに関してはいろいろと心を砕いてお
いでのようでしたから」

 表面上は平静を装いつつも、リツコは内心で自嘲気味の笑みを浮かべた。自分が今述べ
ているのは、目の前の男に対する皮肉以外の何ものでもないこと。そしてそれを口にした
自分の心が何を期待しているのかということ。その二つの事柄に気がついたから。

「……レイも、そしてシンジも手中の駒の一つに過ぎん。働くべき時に働けば、それ以外
のことは些細なことだ」

「……」

 手中の駒、という言葉に、リツコはほんの僅か背筋が震え、何かカッと熱いものが自ら
の内から沸々と沸きあがるのを感じた。この男は、わざとそんなことを私の目の前で言っ
ているのだろうか? それまで極力自らの感情を隠していたリツコだが、この時ばかりは、
抑えきれずに溢れる思いが氷のように冷たい視線となってほんの一瞬具現化する。

「それにしても、シンジ君とレイですか……。もし仮に、あの二人が将来同じ道を歩んで
いけるとしたら、二人の子供は碇ユイ博士に似るのでしょうか……」

 下らないことを言っている。自分でもその自覚はある。そんな可能性などありえないの
はよく承知の上であるし、何より“あれ”が自らの内に新しい命を宿すなど、これ以上の
ファルスはないではないか。

「……下らんな」

 そうした思いがゲンドウに伝わったわけでもないだろうが、返ってきたのはひどく素っ
気無い反応だった。

 この人は自分のあからさまな皮肉にも、自らの心を開こうとはしない。眉一つ動かさず、
無関心な様子で自分に書類をつき返すゲンドウ。薄暗い部屋と色のついたメガネに遮られ、
その表情はよく伺えない。男のそんな応対にすら些かの寂寥感を感じている自分に気づく
と、リツコは内心で、今度はハッキリとした自嘲の笑みを浮かべた。

「失礼致しました。出すぎました」

「……報告はそれだけか?」

「……私からは以上です。ですがセキュリティの件に関して葛城一尉から追って報告があ
ると思いますので、その件に関しても司令の認可を頂くことになるかと」

「分かった。では下がりたまえ」

「はい」

 美貌の技術部長がクルリと身を翻すと、その白衣の裾がふわりと宙に舞った。やや足早
にその場を立ち去る後姿がドアの向こうに消えるのを確認すると、次にゲンドウに問いを
投げかけたのは、その脇に立つ初老の男だった。

「赤木君に同調するわけではないが……。だが碇、いいのか? レイとシンジ君の距離が
近くなりすぎるのは、我々の計画に決してプラスにはならんだろうに」

「かまわんさ。考えがあってのことだ」

「考え……か。これもまた、シナリオの内ということか?」

 冬月のその問いに答えが返ってくることはなく、会話の途切れたその空間には、死んだ
ような沈黙が横たわるのみだった。


I wish 4 -The first day (part 2)-


 Tシャツとジーンズという動きやすい服装に着替えたボクが、制服姿の綾波と一緒に部
屋を出たのは、時計の針が10時を少し回ったくらいのことだった。綾波のアパートの近
くまではバスで行き、そこからは数分歩いて部屋の中へ。それは約30分の小旅行。

 と言っても、特別楽しいことがあったわけじゃない。それどころか、周りから見ればボ
クたちはまるで喧嘩でもしているカップルのように見えたんじゃないかと思う。ガラガラ
のバスの中で隣同士に座っているのに、ボクたちの間には何の会話もなかったのだ。

(まいったな……)

 その沈黙はどうにも重かった。特に何か喋りたいことがあったわけじゃないし、ボクの
方から何か話を始めなきゃいけないという訳でもない。でもボクは、その場に漂う沈黙が
無言の圧力となって、キリキリと自分を責めたてているような気がして落ち着かなかった。

(どうしよう、何か話さないと……)

 必死になって共通の話題を探し、そこから話を膨らませられないかと考えてみる。

 学校のこと、エヴァのこと、父さんのこと。

 ねえ、中間テストが近いけどさ、綾波は勉強している? 綾波はいつも本を読んでいる
けれど、最近はどんな本を読んでいるの? 零号機とのシンクロにはもう慣れた? 父さ
んとは……、綾波は、父さんとはどんな話をするの? 

 きっと綾波は答えを返してくれるだろう。要点だけを、簡潔に。そして興味なさげに、
素っ気無く。その様子がハッキリと想像できてしまうから、ボクは結局最後の一歩が踏み
出せず、頭の中に浮かんでくる事柄も言葉となることなく消えていく。

 自分の意志の弱さと勇気のなさ。それをひどく思い知らされる一方で、ボクはSDAT
を持ってこなかったことを後悔し始めていた。

(こういうの、綾波は気にならないのかな……)

 外に向けた視線はそのままに、意識だけをすぐ横に腰掛けている綾波に向ける。

 さっきから身じろぎ一つしない綾波は、多分鞄の中から取り出した文庫本に目を走ら
せているのだろう。その様子は、よく言えば普段通りの振舞い、少し僻みっぽく言えば、
ボクのことなんかどうでもいいと思っているようにも取れる。

(そういえば、二子山の時も最初はこんな感じだったよな……)

 バスの窓越しに差し込む目も眩むような太陽の光が、あの時ボクたちを照らしていた照
明の光を思い出させる。

 ヤシマ作戦の開始前、綾波と二人で過ごしたあの時間。痛いくらいに張り詰めた緊張感
と静けさの中、通電施設や冷却システムの機械音が低く鳴り響き、その時が近いことを告
げるかのように街からは明かりが消えていく。遠くにそびえ立つ使徒は青白い光を放ち、
頭上からは満天の月が柔かな光を降り注いでいた。

 そんな中ボクたちは、野戦用の搭乗タラップに二人で腰掛け、作戦開始の号令を待って
いた。

 あの時も、最初は二人の間に何の会話もなかった。

 でも少し違うのは、二人、ただその場所に腰を下ろして、作戦開始の直前までずっとそ
んな静かな時間が流れていると、迷いとか恐れとか、そういう気持ちが少しずつ心の奥の
方に沈んでいって。

 そしていつしかボクは、あのことを尋ねていた。

 命を賭けた作戦前のあの時と、ただ二人でのんびりとバスに揺られているという今では
気持ちの張りとかが全然違うけれど、でもあの時ボクは、ボクたちの間に横たわる沈黙を
不思議と息苦しいと感じなかった。

(綾波はどうだったのかな。あの時、綾波はどんなことを考えていたのかな……)

 チラリと横目でその様子を盗み見る。隣に腰を下ろしていた綾波が突然席を立つのに気
がついたのは、その時だった。

「…………ましょう」

 軽く体が震えた。

「え? あ、ゴメン、何?」

 ボンヤリとしすぎていたせいか、咄嗟に綾波の言ったことが分からなくて、ボクは思わ
ずマヌケな言葉を返してしまう。慌てて声のした方に視線を向けると、綾波は無表情のま
まボクの方をジッと見つめていた。

「…降りましょう」

 もう一度ポツリとそう呟くと、バスの出口に向かって歩き始める綾波。

「あ……。う、うん、ゴメン……」

 どうやら、気づかない間に目的地のバス停についていたらしい。ボクは慌てて席を立つ
と、綾波の後姿を追った。

 考えごとをしていたせいで小銭の準備をすっかり忘れていたボクは、料金の支払いに少
し手間取ってしまった。おかげで先にバスを降りていた綾波を少し待たせる羽目になって
しまう。

「……あ、待たせちゃってゴメン」

「…別に」

 そんな言葉を交わして、ボクがバスのステップを降りきろうとしたその時のことだった。
突然強い風が吹いて、目の前の綾波の前髪がかきあげられた。

(あ……)

 特に注意していたわけでもないのに、どうしてそれを見つけることができたのかよく分
からない。それは照りつける太陽の光の気まぐれだったのかもしれないし、ただの偶然だ
ったのかもしれない。

 それがどんな理由かはともかく、ボクはハッキリとそれを見てしまったのだ。綾波の額
にうっすらと走る、一筋の薄桃色の線を。

 自分で言うのもなんだけど、ボクは決して勘がいいほうではないと思う。でもそんなボ
クでも、その時はそれがなんなのかすぐに分かった。

 それは、前にリツコさんが言っていた零号機の起動実験の失敗で、綾波が負った傷に違
いない。

(かわいそうに。女の子なのに、あんな痕が残っちゃうなんて……)

 風がやんで、その傷痕がプラチナブルーの髪に隠れてしまった後も、少しの間ボクはそ
の部分から目を離すことができなかった。

「…何?」

「あ、ゴ、ゴメン。なんでもないんだ……」

「…そう」

 歩き始める綾波に並び、その様子を横目で伺う。そこには、いつもと変わらない相変わ
らずの無表情があった。

 そういえば、ヤシマ作戦の時にも綾波は動揺の気配すら見せなかった。ボクはふとそん
なことを思い出した。自分がこれからやろうとしているのはひどく危険なことなのに、綾
波はただ淡々と、まるでそれが当たり前のことのように、何も感じていないかのように、
与えられた任務をこなすだけだった。

 綾波は、零号機の起動実験やあの作戦で与えられた役割を、危険なものだと思っていな
かったのだろうか?

 それは、少し違うのかもしれない。ボクはそんな気がしていた。

 みんなとの絆。

 綾波はそう言っていた。きっと綾波は、エヴァに関わっている人たちみんなのためにエ
ヴァに乗っているんだ。最初はそう思った。強い子だなと思った。ボクなんか自分のこと
で精一杯で、周りのことを考える余裕なんてまるでないのに……。

『私には、他に何もないもの』

 でも、その言葉を聞いて少し考えが変わった。二子山ではゆっくりと考える時間がなか
ったけれど、時間がたつにつれて、その言葉の持つ意味を深く考えるようになっていた。

 ボクがここに来て学んだこと、思い知らされたこと。それは、エヴァに乗らない自分は、
碇シンジという人間は、ここでは何の価値もないということ。必要とされているのはパイ
ロットとしての自分、サードチルドレンとしての自分であって、それ以外の誰でもない。
だから、少し危険なことがあってもボクはエヴァに乗り続けなくてはいけない。そうでな
ければボクは捨てられてしまうんだ。いらない子供になってしまうんだ。それはとても、
とても、怖いことなんだ。

 ひょっとしたら、それは綾波にとっても同じなのかもしれない。綾波は学校でもネルフ
でもいつも一人で、外から見ればそれをあまり気にしていないようにも見えるけれど、で
も、本当はとても寂しい子なのかもしれない。そしてそんな綾波と他人を結びつけるたっ
た一つのもの、自分がここにいていい理由、それが綾波にとってのエヴァなのかもしれな
い。

 そう思い始めてからは、使徒の攻撃で綾波が感じたはずの肉体的な痛みを思うよりも、
その心を思うほうが、ズキズキと胸が痛んだ。

 もちろん、それが正しいのかは分からない。本人に聞いて確かめたわけでもない。だか
らそれは単なる思い込みなのかもしれないし、ボクは自分自身の境遇を勝手に綾波に重ね
合わせているだけなのかもしれない。

 でも、もし、もしボクの感じたことが正しいのなら、そういうところが綾波の強さの源
なのかもしれないし、そして、とても切ないところでもあると思う。

(でも、どうして綾波はそこまで割りきれるんだろう。なんで綾波はエヴァに全てを、自
分の命まで投げ出すことができるんだろう……)

 ここにいる限りはエヴァに乗らなくてはいけないというのはよく分かっている。でも、
それを分かっているということと、実際に行動に移すことは全く違うわけで。あのときボ
クの中では、エヴァに乗って危険な思いをするのは嫌だという思いが完全に消えることは
なかった。正直、怖かった。逃げられるものなら逃げたいと思った。だから綾波の前で愚
痴ったりもした。

(綾波は、そういう風に思ったりしないのかな? 綾波の絆は、もし自分の命が危険にな
ったとしても守らなきゃいけないくらい、大事なものなのかな?)

 絆。その言葉の意味を完全に理解したとは思わない。でも、ボクはハッキリと思い出す
ことができた。あのとき、二子山で零号機に乗りこむ綾波の背中は、どこか儚げで、そし
て、とても綺麗だった。それに比べて、これで死ぬかもしれないね、なんて言った自分の
小ささはなんて恥ずかしいんだろう。

 ヤシマ作戦の後で何度か見た夢の中、ボクは朧げながらに思った。自分の全てを捧げら
れるものと、それができる理由がある綾波が少し羨ましい、と。自分にもそう思えるもの
があったなら、自分にも綾波のような強さが持てたなら、と。

 その時のボクは、何も知らなかったのだ。綾波が持つそうした一面は、ボクが考えてい
たような強さとは少し質を異にしたものであること。そして、そうした“強さ”の本当の
源が何であるかということを。





 カーン

 カーン

 カーン

 相変わらずどこかから掘削機の音がしていた。

 体の芯に響き渡るその音のせいか、綾波と一緒に四階に上がっていく階段の途中で、前
回ここに来た時のことが生々しい感触と共に蘇ってくる。そういえば、あのときもあの音
がどこかで鳴り響いていた。チラリと前をいく綾波の背中に視線を送り、少し自己嫌悪に
なる。

「あの、おじゃまします……」

 久しぶりの402号室。蘇る記憶。綾波は靴を脱ぐこともなく、ずんずんと部屋に入っ
ていく。どうしよう、ボクは一瞬迷った。どうせこの部屋にはもう来ないんだから、自分
もこのままお邪魔してもいいだろうか。そうも思ったけれど、やはり靴は脱ぐことにした。
やっぱり他人の部屋に土足で入るのは、なんとなく憚られたから。

 少し遅れて部屋に入ると、綾波がこちらに背を向け、チェストの前で何かモゾモゾとや
っているのに気が付いた。

(何してんだろ?)

 声をかけようとしたちょうどそのとき、何かがパサリと床に落ちる。学校の制服の赤い
リボンのようだ。でも、なんで? 床に落とした視線を上げると、ボクは目の前で何が起
こっているのか一瞬にして理解し、そして固まった。

(脱いでいるんだ……制服を!)

「ちょ、ちょっと何してるの、綾波!?」

「…着替えるの」

 振り向かずに答える綾波。そしてボクは自分の鈍感さにハッとする。

(そ、そうだよ。綾波は昨日から同じ制服を着ているんだから、新しい服に着替えたいと
思うのは当たり前じゃないか)

 前のようなことは絶対に起こしてはいけない。その思いと共にゴメンと一声かけると、
ボクはキッチンの陰に避難することにした。

「はぁ……」

 逃げ込んだ先で手を自分の胸に当てて、一気に上がった心拍数を下げようと必死で努力
する。

(危なかった、またやっちゃうところだったよ……。でも、綾波もいきなり脱ぎ出さなく
てもいいのに。これがボクだからいいものの、もし変な男だったりしたらどうするんだよ)

 そういえば、この部屋に入るときも綾波は鍵を開けなかった。今更ながらにそれに気づ
くと、ボクは少し俯き溜息をついた。

(綾波はもうちょっと危機感ってやつを持ったほうがいいよな。誰か知らない人が突然入
って来たらどうしようとか考えないのかな)

 と、そこまで考えて、ボクはふとあることに思い当たった。

 バスから降りてこの部屋にやってくるまで、ボクは綾波以外の誰の姿も見かけていない。
建物の下にあった郵便受けからは、いつ投函されたものなのか古びたダイレクトメールが
溢れかえり、車の音や子供の声、ベランダに干される洗濯物だとか、この場所に誰かが住
んでいるような様子もほとんど感じられなかった。

(そういえば、前に来たときもそうだったよな)

 幽霊団地。そんな言葉が頭の中に浮かび上がってくる。

 この場所がどういう場所なのかボクにはよく分からないし、団地の敷地の中を全部歩い
て回ったわけじゃないけれど、あれだけたくさんの建物が連なっているのに全く人の気配
がしないということは、もうここに残っている人はいないのかもしれない。

 たった一人を除いては。

(だから、なのかな。鍵をかける必要なんてないから、この場所に来る人なんて誰もいな
いから。だから、綾波はそういうことに気を使わないのかな)

 視線を上げると、剥き出しのコンクリートの壁が視界に入る。

(ずっと、一人だったのかな、綾波は……)

「…碇君」

「わっ!」

 穴があったら入ってしまいたい、ないなら自分で掘ってでもその中に隠れたい。そんな
思いになるような情けない声をあげてしまったボクを、綾波はその紅い瞳でじっと見つめ
ていた。

「あ、あの、何?」

「…引越し」

「あ、そ、そうだね、ゴメン。いや、綾波が着替えてたからここにいたんだけど、もう終
わったんなら始めないとね。は、はは……」

 少しわざとらしく言い訳がましい言葉を並べるボク。それを少しの間見つめると、綾波
は無言のままクルリとその身を翻した。その背中を追って部屋に戻ると、ベッドの上には
さっき脱いだと思しき制服と下着が放り出されていた。慌てて視線を外す。

「あ、あの、ゴメン。ベッドの上のもの、片付けてくれないかな……」

「…分かったわ」

 呟くと、綾波はそれらの物を部屋においてあったゴミ袋の中に無造作に入れていく。ど
うもその中に身の周りのものを入れていく気らしい。ベッドの上が片付くと、次にチェス
トの中のものを次々と放り込み始めた。

(そんなに乱暴に扱って、皺にならないのかな……)

 そう思ったし、実際そう言おうかとも思ったけれど、ボクには女の子の下着の扱い方なん
てよく分からなかったし、それにそういうのをジロジロ見るのもよくないような気がしたの
で、自分のやるべきことに集中することにした。

 取りあえず大物から片付けてしまったほうが楽だろうと、さっそく布団から取りかかる
ことにする。家から持ってきた布団袋を手に、部屋の隅に配置されたベッドに近づくと、
数分後にはボクは綾波の布団一式を袋に入れてしまった。

 その様子を横目で伺うと、綾波も持っていくべきものは全部鞄か袋に入れてしまったよ
うだった。あとはミサトさんがやってくるのを待つだけ。打ち合わせに寄れば、こっちに
着き次第ミサトさんがボクか綾波の携帯に連絡を入れ、ボクたちが下へ降りていくことに
なっていた。つまりミサトさんからの電話を待つ以外は、取りあえず何もすることがない
ということだった。

「ね、座ってミサトさんを待たない?」

 そう声をかけると、綾波は無言でこちらに歩みより、ボクの隣に腰を下ろした。

 こういうことに慣れた人なら、ここで何か気の利いた話でもするのかもしれない。けれ
どボクにそんなことができるはずもなくて、バスの中での時間と同じように、ボクたち二
人の間には何も会話はなかった。

 遠くから相変わらず掘削機の音が聞こえてくる中、ボクはバスの中とはまた少し違った
意味で落ち着かなかった。それは、つい先程のキッチンでの出来事に関係があるというの
は分かっていたけれど、それが分かったところで胸の中のチクチクとしたものが収まって
くれるわけでもない。

 時間が流れるに連れ次第にそれに耐えられなくなったボクは、そうすれば自分の中に溜
まっていくモヤモヤが吐き出せるかのように、ゆっくりと口を開いた。

「……あの、綾波はさ。この部屋からどこか別の場所に引っ越そうとか、そういうことは
考えなかったの?」

「…どうして?」

「あ、いや、なんか、ここってあんまり人気がないアパートだし。コンクリートも剥き出
しで、どこか、その、殺風景だし……。綾波はここに一人でいて、寂しくなかったのかな
って」

「…寂しい?」

「うん……」

「……」

「……」

「…別に」

「そうなんだ……」

「…何故、そんなことを聞くの?」

「……うん。さっき、思ったんだ。この部屋……、ゴメン、こんなこと言ったら綾波に悪
いんだけど、でも、もしボクがこの部屋で一人で暮らしていたら、何ていうか、とても寂
しくて、一人でいることに耐えられそうにないだろうなって。だから、勝手なんだけど、
綾波はこの部屋でたった一人で大丈夫だったのかなって」

「……」

「それに……。綾波はこういう部屋で一人で暮らしているのに、どうして誰も綾波のこと
を気にかけないんだろう、どうして綾波のことを放っておくんだろうって思って……」

「…別に、問題はないわ」

「……そうなんだ」

 そこでふと言葉が途切れ、会話のエアポケットが生まれる。それに続くのは微妙な間。

「綾波は……」
「碇君は……」

 そして重なる声。沸きあがる不思議な羞恥心。

「あ、あの、ゴメン。綾波、先にいいよ」

 チラリとボクの方に視線を向けると、綾波は再び床に視線を戻しポツリと言った。

「どうして、碇君は私のことを気にするの?」

「どうして?」

 思わず聞き返したボクに、綾波が軽く頷く。

「何故、碇君は私にかまうの?」

 それは、気にかけられるのが迷惑ということなのだろうか? 一瞬そんな考えがボクの
心をよぎったけれど、綾波の様子を見ていると、それは拒絶とは少し違う気がした。綾波
は、純粋に目の前にある疑問への答えを求めているような、そんな風に思えた。よく考え
てみれば、それは昨日の夕飯の時に綾波が尋ねたのと同じ疑問でもある。

「どうして、とか、理由って言われると困っちゃうけど……。でも、何て言えばいいのか
な、何となく、気になるっていうか……。あ、べ、別に変な意味じゃないんだよ。例えば、
えと、ミサトさんの部屋に来ることにしても同じなんだ。昨日ミサトさんは、あ、あの、
一目ボレ、とかそういう変なこと言ってたけど、そうじゃなくて……」

「……」

「そうじゃなくてさ……。ボク、ミサトさんに聞いたんだ。ボクのことは引き取ったのに、
綾波のことは引き取ろうと思わなかったんですかって」

 チラリと横目で伺うと、綾波は視線を落としたまま、ジッとボクの言うことを聞いてい
るように思えた。

「……あの、二子山で綾波は言っていたよね。私には他に何もないって……。作戦の後に、
それがさ、なんか、頭の中を離れなくて……」

「……」

「……ボクもね、ここに来るまでは少しそういうところがあったんだ。自分の家に帰って
も、ボクはいつも一人で。誰も、ボクのことを見てくれる人なんていなくって……。エヴ
ァにも乗っていなかったあの頃は、本当に何もなかった……」

「……」

「……ひょっとしたら、今もそうなのかもしれない。みんなが必要としてるのは、ボクじ
ゃなくてエヴァのパイロットなんだろうなって感じるし……。でもさ、ミサトさんと暮ら
すようになって、なんか、何ていうか、今まで知らなかったものを見つけたような……見
つけられるような気がするんだ。うまく説明できないんだけど、何か、大事に思えるもの
っていうかさ……」

「……」

「それで、その、おせっかいかもしれないけど、綾波もそういうことを感じられたらいい
んじゃないかな、エヴァ以外の何かを見つけられたらいいんじゃないかなって、そういう
風に思ってたんだ。それでこの間、ちょっとしたはずみでミサトさんに綾波のことを聞い
たら、ミサトさんも綾波のことは前から気にしてたみたいでさ。何か、こんな風に一気に
話が進んじゃって……」

「…そう」

「うん、でも、あの、ゴメン……。迷惑……だったかな。そんな風に勝手に自分で思いこ
んだり。それで引越しまでさせちゃって……」

「…別に、迷惑ではないわ」

「……そ、そう?」

「…ええ」

「……」

「……」

 再び訪れた沈黙。感じるのは微かな喜びと戸惑い。

 それは、少しつっかえながらも自分の本当の気持ちを話すことができたこと、そして、
それを受け入れてもらえたことに対しての気持ち。

 ボクは他人と向き合うとき、いつもどこかで壁を作って、本当の自分とは違う自分、相
手に合わせた自分を作り出している。確かにそれは自分でやっていることなんだけど、正
直、それを疲れると感じることも少なくない。だから、こういう風に誰かに本当の自分を、
本当の自分の思いを面と向かって曝け出すというのには、何か不思議な開放感と喜びを感
じるのだ。

(でも、不思議だよな。綾波と何か話をする時って、自分の本音を話していることが多い
ような気がする)

 横目でチラリとその様子を伺うと、同じことをしていた綾波と視線が合った。

「…碇君は?」

「え?」

「…何か、聞きたいことがあるんでしょう?」

「あ、う、うん」

 綾波の質問はそこで終わり、どうやら自分の番が回ってきたらしい。だから、心の片隅
に引っかかっていたことを聞いてみようとボクは口を開いた。

「ねえ、綾波は……」

 プルルルル

 けれどボクの声は、突然鳴り出した携帯の着信音に遮られる。

「…綾波です。……はい。……いえ、今回は特に。……はい」

「……」

「…葛城一尉が到着したわ。行きましょう」

「……あ、うん」

 そう言った後、ゴミ袋を右手に、鞄を左手に、綾波は振り向きもせずに部屋を出ていっ
た。それはまるで何の変哲もない日常の一コマのようで、朝学校に行くために部屋を出る
かのような素っ気無さで、あまりに何の感慨も感じさせないものだったから、その光景に
ボクは複雑な気分になってしまった。

 本人がそう言うのだから、この部屋にいて綾波が寂しいと感じたことはなかったのかも
しれない。でも、逆にいいこともなかったのではないだろうか。この部屋は綾波にとって、
楽しいことも、辛いことも、悲しいことも、何もない場所だったのかもしれない。

 綾波の気持ちは、綾波がここで過ごした時間のことは、ボクにはよく分からない。でも、
もし自分の考えることが正しいのなら、それはとても悲しいことのように思えた。

 だからボクは思った。綾波が、新しい部屋で何か思い出になるものを作ってくれればい
いなと。いつか遠い将来にあの部屋を出るときに、振り返り微笑むことのできるような、
俯いて悲しくなってしまうことができるような、そんな時間を過ごしてほしいなと。

 吹きつける風がその蒼銀の髪を揺らす。

 前をゆく綾波の後ろ姿を、ボクは無言で追いかけた。今自分の目の前にあるその背中は、
二子山で見たそれとは少し違うように、ボクには思えてしかたがなかった。


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