闇。
深い闇。
全てを覆うもの。

光。
淡い光。
それに抗うもの。

窓の外。
流れる光。
見えない景色。

街の灯。
存在の証。
白いものが一杯。

感じるのは温もり。

肩に触れる温もり。
制服越しの温もり。

穏やかな息遣い。
静かに流れる時。

やってくる人。
去っていく人。

規則正しいレールの音。

「……ぅん……あや…なみぃ」

呟き。
身じろぎ。
微かな吐息。

それは、夢。

夢、見ているの?
私、そこにいるの?
あなたの中に、私がいるの?

私。

私は私。
ここにいる私。

私の中の私。
私の知っている私。

私。

私は私。
ここにいない私。

他人の中の私。
私の知らない私。

私。

私は私。
消えゆく私。

夢の中の私。
たくさんいる私。



ねえ、碇君。

あなたの私、どんな私?



I wish 5 -The first day (part 3)-



「んじゃあさレイ、あんたもちょっと付き合いなさいよ」

 そんなことを言われたのは、ミサトの部屋に戻り昼食を取っていた時のことだった。引
越しの際にはそうするのが伝統だからというミサトの主張の元、シンジ、レイ、ミサトの
三人は店屋物のそばを啜っていたのだが、シンジに拠ればそんな伝統はないらしい。ただ
単にミサトさんがそばを食べたかっただけでしょう、というのがその意見だが、どちらが
正しいのかレイにはよく分からなかったし、特に関心を引かれる事柄でもなかった。

 その時までにはレイの私物は全て部屋に運び込まれ、ミサトの提唱した小作戦は全て終
了していた。布団は押入れに、持ってきた本は隅の棚に、下着はクローゼットの中にあっ
た小さなチェストに。そしてほんの少し考えた後で、レイはメガネケースを机の引出しの
奥にそっとしまっていた。

 シンジとミサトに手伝ってもらい一通りの仕事を済ませてしまった頃、タイミングよく
部屋のチャイムが鳴る。来た来たと呟きながら、足取りも軽やかに玄関に向かうミサトの
様子を見て、こういうことは本当に段取りがいいんだよね、とシンジが笑った。

 昼食中の話題は、主に新しい生活についてのことだった。

 本部のセキュリティカードの変更というような業務連絡的な事柄から、部屋のカードキ
ーの受け渡し、ペンペンの紹介といったことまで。食事当番やゴミ出しの係といったこと
にまで話題が及ばなかったのは、最早形ばかりの生活当番表に触れるのをミサトが嫌った
ためか、或いは本当に忘れていたかのどちらかだろう。

 何れにせよ、会話が進む中でミサトはまずシンジに、次いでレイにある同じ質問をし、
二人は全く同じ返答を返していたのだ。

 付き合いなさい、というセリフがミサトの口から発せられたのはその時のことだった。

「…どこにですか?」

「お・か・い・も・の」

 それが何かひどく特別なものであるかのように、ミサトは一語一語区切りを入れ、レイ
に微笑みかけた。

(買い物……)

 どうして自分が葛城一尉の買い物に付き合うのだろう。何か特別な目的でもあるのだろ
うか。レイはそんなことを思った。ミサトと一緒に行きたくないわけではないが、共に行
くべき積極的な理由も見当たらない。

「…それは、命令ですか?」

「ぶっ!」

 途端にミサトがそばつゆを軽く吹き出す。

「命令って……。あんたね、プライベートでは別にそんなことしないわよ」

 慌ててシンジが差し出した台拭きを受け取ると、少し呆れたようにミサトが言った。

「さっき、午後は別に予定はないって言ってたでしょ。それなら、いろいろと身の回りの
ものとか買い揃えにいかないっていう提案」

「…必要なものは揃っていますが」

「でも例えばさ、あんた制服以外に私服持ってないんでしょ? だったらさ、洋服とかも
いろいろと買っておいたほうがいいわよ」

「…特に必要を感じません」

「必要って……。あんたねえ、仮にも女の子なんだから……」

 続けて何かを言いかけて、不意にミサトの言葉が止まる。左手で頬杖をつき、右手で箸
を握るという姿勢のまま、まず視線をレイに、そしてシンジに向けた後、再びその焦点が
無言でそばを啜るレイへと合わせられる。

「ふ〜む……」

 ニタリ。少し考え込んだ後、そんな擬音が似つかわしい笑みをミサトが浮かべる。つい
先ほどのそれとは違う種類の微笑みに、レイはふと、軽い緊張感のようなものを感じた。
それはまるで使徒と対峙しているかのような、といったら大げさだが、レイはミサトの笑
みの中に、何か危険なもの、どこか禍禍しさが見え隠れするような印象を本能的に覚えた
のである。

「シンジ君」

「はい?」

「あなたも来るのよ」

「え、ボクがですか?!」

「そうよ。レイ、それならあんたも来るでしょ?」

 突然の話の飛躍にレイは少し戸惑った。別に自分はシンジが来るなら行くなどとは一言
も言っていないし、外出するべき理由がないのは今も同じだ。

 それなのに、少しの間が空いた後、何故だかレイはポツリと呟いていた。

「…断る理由はありません」

「オッケー、じゃあ決定。シンジ君、あなたも来るのよ」

「あ、いや、でも、そんな急に……」

「あら、でもシンちゃんも別に午後は何も予定ないんでしょう? だったらさ〜ぁ、シン
ちゃんもレイの私服姿とか見てみたいな〜とか思わない〜?」

「で、でもボク……」

 満面の笑みを浮かべ、わざとらしく語尾を伸ばし猫なで声をあげるミサトに、シンジは
明らかに引いている様子だった。するとミサトは、弱った獲物を駆りたてるハンターのよ
うに、更に追い討ちをかける。

「あらやだ。それともシンちゃん、午後はレイとデートの約束でもあったの?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

「じゃ、いいでしょ。シンちゃんが来るならレイも来るって言ってんだからさ。それとも
レイと一緒にお出かけするのは嫌?」

「べ、別に、嫌だなんて言ってないですよ……」

「おし、んじゃ問題ないわね。そうと決まったら、お昼を食べて早速行きましょう」

 そんな経緯を経て三人は共に出かけることとなったのだが、レイの心の中には微かなひ
っかかりが残っていた。それが一体何なのかと問われても、おそらくレイにうまく説明す
ることは出来なかっただろう。だが一つ確かなのは、それが自分の隣に腰掛けている少年
に関係するのだろうということだった。

 ミサトのペースに何となく乗せられて共に来ることになったシンジだが、初めにミサト
に話の矛先を向けられた時は、明らかに戸惑い困惑した様子だった。

 シンジのそんな反応を目にするのは初めてではない。ネルフ本部でのテストの際、何か
のはずみでミサトにからかわれて、あるいは学校でクラスメートとの会話の中で。それま
では、そうした光景を見ても特に何かの感慨が沸きあがることもなかったのに、何故だか
その時は、シンジの表情と狼狽した口調が心の中に留まったまま、容易に消えようとしな
かったのだ。

『それとも、レイと一緒にお出かけするのは嫌?』

 そしてミサトがシンジにそう問いかけたとき、レイは、ほんの僅か心臓の鼓動が跳ねあ
がるのを感じた。シンジの笑顔を見た時とはまた少し違った意味での緊張。何かキュッと
絞めつけられるような感覚。不思議なことに、別に嫌なわけではないとシンジが口にする
と、それは、何かつかえていたものが取れたような、ふっと何かの重石が取れたような感
覚と共に消えてしまっていた。

 あれは何だったのだろう?

 軽く首を傾けシンジの様子を伺おうすると、視線が合い、軽い微笑みを向けられた。だ
が、それはどこか昨日の微笑みとは違うとレイは感じた。少し困ったような印象。どこか
不自然な感じ。

 碇君は、昨日のように微笑んだ方がいいと思う。

 何故かそんなことを思う自分に気がつくと、レイは軽い戸惑いと共に、再び視線を俯か
せてしまうのだった。







「それにしてもいい天気よね〜」

 窓の外の光景を眺めながら、ミサトがそんなことを呟いた。

 その視線の先には、雲一つない青空と強く照りつける太陽。これから一日で最も気温が
上がる時間帯に入る。街の中心部に向かうリニアの中はよく冷房が効いているが、それ故
に、外に出た瞬間何ともいえないあの熱気が不快感と共に人々を襲うことだろう。

 それが休日の午後だったせいか車内はやや混み合っていたが、幸運なことに三人とも空
いた席を見つけ腰を下ろすことが出来た。レイが座席の一番端に、シンジがその左隣に、
そしてその隣がミサトという位置関係だった。

 マンションにいた時と同じように、電車に乗ってからも会話の切り出し役はミサトだっ
た。何の取り止めもない話題。これから行く場所、今日の夕食の献立、そんなことに関し
てだった。レイにとって、そうした事柄は特に興味もない話題だし、自分がその会話に進
んで入っていく必要性もない。時折ミサトが話の矛先を向けて来ることがあったが、必要
最小限の答えを返すだけで事は足りた。

 こうした無駄な会話を交わすのにどれほどの意味があるのか分からないし、できること
ならば静かな時間を過ごしていたい。そんな思いと共に、ふと外の光景を見ようと視線を
窓に向けたとき、ある会話が耳の中に入ってきた。

「久しぶりの完全オフ、おまけに天気は最高。それなのに何の予定もないなんて、お互い
寂しいわよね〜」

 シンジに対しミサトが漏らした苦笑交じりのその言葉が、不思議とレイの琴線に触れる。
脳裏に蘇るのは午前中の出来事。シンジはレイに尋ねた。あの部屋で寂しいと感じなかっ
たのか、と。

(寂しい……)

 活気がないこと。
 物量に乏しいこと。
 人の姿が見えず、心細いと思うこと。

 そんな、辞書に載っていそうな言葉の定義を思い浮かべてみる。

 それらは今までに感じたことのない感覚だったし、誰かにそれについて聞かれたことも
なかった。レイ自身、そうした感情が自分の中にあるのかすらよく分からないし、そうし
たものが特に必要なものだとも思えない。だから、今までそうしたことについて考えたこ
ともなかった。

 何故、碇君は自分が寂しがっていると思ったのだろう。自分は寂しがっているように見
えたのだろうか。自分は他人の存在を欲しているように見えたのだろうか。どこからか沸
いてきたそんな疑問が、レイの思考の中で徐々に大きな位置を占めていく。

『綾波はここに一人でいて、寂しくなかったのかなって』

 人気がなくて殺風景。あの部屋について、シンジはそんな描写をした。

(分からない……)

 人気のない場所に一人でいるのは寂しいことなのだろうか。

 シンジにとっては殺風景なあの部屋で、たった一人で暮らしている。だから自分は寂し
いと感じている。もしシンジがそう思ったのなら、その心配は杞憂だとレイは思った。あ
の部屋で過ごした時間は決して短いものではないが、今までそうした感情を覚えたことな
どないのだし、何より、この世に造り出されて以来、自分はずっとああした雰囲気を持っ
た場所にいたのだから。

 自分は今までずっと一人だった。

 それが当たり前だったし、それでいいと思っていた。

『綾波はこういう部屋で暮らしているのに、どうして誰も綾波のことを気にかけないんだ
ろう、どうして綾波のことを放っておくんだろう、って思って……』

 その答えはハッキリしている。実際に口に出すことはなかったが、レイはそう感じてい
た。誰にもそんなことをする理由はない。ただそれだけのこと。

 エヴァに乗り、使徒と戦い、それを殲滅する。そして、静かにその時を待つ。それが自
分の全てなのだから、それ以外のことにどれほどの重要性があるというのだろう。自分が
造り出されたある目的に比べれば、自分がどんな部屋で暮らしているのかなどということ
は些細なことに過ぎない。加えて、使徒という脅威に対抗するためには、そうした事柄よ
りも気にかけるべき点はたくさんあるはずだった。

(…だから、私、ただエヴァに乗ればいいの)

 そして、ただ与えられた時を生きればいい。その過程で、何かのはずみで命を落とした
としても構わないだろう。自分が死んでも、代わりなどいくらでもいるのだから。

 だから、迷わなかった。

 寂しいとは思わなかった。
 悲しみを感じることもなかった。

 下される命令。
 与えられた使命。
 エヴァへの搭乗。
 無への回帰。

 それでいいと思っていた。

 そう、思っていた。

『……でも、ミサトさんと暮らすようになって、なんか、何ていうか、今まで知らなかっ
たものを見つけたような気がするんだ。うまく説明できないんだけど、何か温かいもの、
大事に思えるものっていうかさ……』

 温かいもの。
 大事に思えるもの。
 
 思い浮かぶのはあのメガネケース。

『それで、その、おせっかいかもしれないけど、綾波もそういうことを感じられたらいい
んじゃないかな、エヴァ以外の何かを見つけられたらいいんじゃないかなって、そういう
風に思ってたんだ』

 エヴァ以外に大事に思えるもの。それとは無縁なところで心が安らぐもの。果たしてあ
のメガネケースがそれに当たるのか、レイには確信が持てなかった。エヴァに乗れなくな
った自分、ゲンドウの目的を遂行できない自分。あの人は、それでも自分を見てくれるだ
ろうか。

(……)

 シンジの言う温かで大事なもの。

 それを見つけることにどれほどの意義があるのか、それを見つけることが自分にとって
必要なことなのか、それは分からなかった。だが、その“温かいもの”について語るシン
ジの瞳はとても優しく、その表情の柔らかさは、自分の心に波紋を呼び起こすあの笑顔に
通じるものがあるとレイは感じていた。そしてそんなシンジの様子を思い起こすと、まる
で、この世界に存在するもの全てが等しく持っている、ひどく“大事なもの”が、自分だ
けには見えていないような、そんな気持ちになるのだった。

(……私の中には、きっとそれがない)

 それは、寂しいことだろうか。
 それは、悲しいことだろうか。

 碇君は、その気持ちを知っているのだろうか。
 知っているから、自分が寂しがっていると思ったのだろうか。

(……よく、分からない)

 一つの疑問が浮かんでは消えると、すぐにまた別の疑問が心の奥底から浮かび上がって
くる。以前のレイならばそんな事柄を気にするなどありえなかっただろうし、そうした疑
問が沸きあがってくること自体なかっただろう。だが、自分の存在の根幹すら揺るがしか
ねない碇シンジという少年に、いつも静寂に満ちたレイの心の海には静かな細波が巻き起
こっていた。

『あ、あの、お、おかえり、綾波』

(……碇君)

 不思議な人だと思う。

 何故、碇君は私に話しかけるのだろう?
 何故、碇君は私に微笑みかけるのだろう?

 そうする理由など、彼には少しもないはずなのに。

「……波、ねえ綾波、もう降りるよ?」

 突然かけられた声に我に帰る。気がつくと、既に席を立ったシンジとミサトが不思議そ
うに自分の方を覗きこんでいた。少し考え込みすぎたのかもしれない。レイは二人の気配
に全く気付かなかった。

「どうしたのよ〜、ボ〜っとしちゃってさ。シンちゃんのことでも考えてた?」

「ミ、ミサトさん!」

「……」

 ミサトが浮かべた禍禍しい笑みに、レイは再び戸惑いを感じた。

 何故、そのことが分かったのだろう、と。







 30分程環状線に揺られた後、ボクたち三人は、第三新東京市で一番大きな通りを歩い
ていた。北から南へ街を一直線に通っているためか、その通りは中央通りと呼ばれている。
ボクたちが行ったのは、街の中心部から少し南にいった所だった。

 ネルフ本部の真上にある街の中心には、兵装ビルとかの重要機能が置かれているから、
生活関係のショッピング・ストリートなんかはそこから少し離れた場所、特に南から西に
集中している。ボクたちの、というよりミサトさんの目的地は、その辺りについ最近開店
したばかりだという大手外資系グループのデパートだった。

 少し洒落た感じの回転扉を抜けて店内に入ると、当然のごとくというか、一階は女性用
の店で埋め尽くされていた。華やかで、活気と笑顔と色に満ち溢れた場所。だけど、正直
ボクはこの雰囲気があまり好きではない。当たり前といえば当たり前なのだけど、何だか
自分が場違いなところに放りこまれたような感覚になってしまうのだ。自分がここにいて
はいけないような感覚。自分がここにいることが申し訳なくなるような気持ち。そういう
のって好きじゃない。

(でも、今日はまだマシだよね……)

 ボクは綾波とミサトさんに付いて来ているんだから、ここにいる理由はある。それに女
の人二人と一緒なんだから、きっとボクはその連れみたいな感じで周りからも見られてい
るだろうし。

 そんな心の余裕が出来たせいか、特に興味があるわけではないけれど、歩きながら周り
の様子を伺ってみる。アクセサリー、ハンカチ、スカーフ、化粧品、ネイル・ハンドケア。
そういうのには何の縁もないボクでも知っているようなブランド名もちらほら目に入る。

(女の人って、いろいろ大変だよな……)

 毎朝鏡の前に立ち、念入りに髪を梳かして、ジックリと時間をかけて化粧をして。家に
帰ったら帰ったで、しっかり化粧を落とし、きちんと肌の手入れをする。私生活ではあん
なにズボラなミサトさんでもそういう事にはとても気を使っているのを見ると、女の人に
とってはそれがとても大事なことなんだろうなというのが何となく分かる。

(そういえば……)

 ふとボクは、すぐ後ろを歩く綾波の顔を思い浮かべた。

(綾波も、こういうところに来たりするのかな。あんまりそういうことに気を使うように
は見えないけど、綾波もやっぱり女の子なんだから、化粧とか、そういうことにちょっと
は興味があったりするのかな……)

 太陽の光に眩しかったプラチナブルーの髪、見つめられるといろんな意味でドキっとす
るあの紅い瞳、そしてどこか白磁を思わせる白い肌。正直、あんまり化粧をした綾波って
ピンとこない。口紅をした綾波、まゆげを書いた綾波、マスカラをした綾波……。

(……なんか、違う。それって違う。別に綾波に化粧が似合わないなんて言うつもりはな
いけど、やっぱり、綾波は自然なままが一番いいと思うな、ボクは……)

 なんてことを考えて、ボクは軽く首を振った。

(……って、ボクは何を考えてるんだよ。べ、別に、綾波に化粧が似合うかどうかなんて、
ボクが考えることじゃないじゃないか。それに、失礼だよ。そういう風に他人の品定めみ
たいなことしたり、勝手に想像したりするのは……)

 内心で後ろを歩く綾波に謝りつつ、頭の中のイメージを切り換えようと視線を前に向け
る。そこには、ボクの前を行くミサトさんの、迷いもせずにずんずんと店内を進んでいく
背中があった。そのどこか慣れた様子を見ると、ひょっとしたらミサトさんは前にもここ
に来たことがあるのかもしれない。

「あの、ミサトさん」

「ん〜? なに〜?」

「これからどこに行くんですか?」

「三階。レイの服を見にいくの」

 首だけ後ろに回して、ミサトさんがそんなことを言う。

(綾波の服、か……)

 前を行くその背中に続きながら、制服以外に服を持っていない、という昼のミサトさん
の言葉をボクは思い出した。

(綾波は、自分で私服を買ったこととかないのかな?)

 多分綾波は、ファッションなんかには全く興味がないんだろう。普段の様子を見ている
と、何となくそれが分かる。でもそれにしたって、私服を一着を持っていないっていうの
は少し変だ。そんなことをボクは思った。ボクだって特別洋服に興味があるわけじゃない
けれど、前にいたところで、自分で洋服を選んだり買ってもらったりしたことはあるのに。

(綾波は、今までそういうこともなかったのかな? 誰か服を買ってくれる人もいなかっ
たのかな?)

 ミサトさんの話だと、綾波には両親がいないから、書類上の保護者はリツコさんがやっ
ているらしい。でも、今思うと「書類上」という言葉が引っかかる。

(リツコさんって綾波のことをどう思ってるのかな……)

 書類上とはいえ一応は保護者なのに、あんな部屋に綾波を住まわせて何も感じなかった
のだろうか。何か洋服を買ってあげようとか、そういうことは考えなかったのだろうか。
悪口を言うわけではないけれど、リツコさんってどこか冷めたところがあるから、特に問
題はないと思ってたのだろうか。

(そういえば父さんはどうだろう……)

 綾波は父さんと話しているとき、どこか柔らかい表情を浮かべていた。そして父さんも、
ボクには決して見せないような表情をしていた。あの二人は、どこか一緒に出かけたり、
その時に父さんが綾波に何かを買ってあげたりとか、そういうことはなかったのだろうか。

 微笑みと共に洋服を手に取る父さん。嬉しそうにそれを見つめる綾波。

 自分で考え始めたことだけど、そのイメージのバカバカしさに内心で首を振る。

(父さんに限ってそんなことあるわけないよ……。あの人がそんなことをするなんて……)

 でも、本当はどうなんだろう。

 そんな思いを振り払うことがボクにはできなかった。そうしたイメージは、あくまでボ
クの持っている父さんのイメージなわけで。ボクの知らない父さんは、それとは少し違う
のかもしれない。そんな父さんを、綾波は知っているのかもしれない。

(父さん、綾波に向かって微笑んでたもんな……)

 こんなことを父さんに関して言うのは変な気もするけど、あれは優しい微笑みだったと
思う。実験の時も綾波のことを助けたっていうし、きっと、父さんはボクなんかよりもず
っと綾波のことを大事にしているんだろう。ということは、綾波が何か頼めば、父さんは
それを買ってあげるのかもしれない。

(て、ことは、やっぱり綾波なのかな。女の子なのに洋服のこととか興味ないのかな……。
変だよな、下着はあんなに持ってるのにさ……)

 綾波の部屋でのあの事件の時、辺りに散らばっていた下着のことをふと思いだしてしま
い、またしてもボクは首を振った。

(……って、な、何を考えているんだよ。どうかしてるよ、今日のボクは。信じられない
よ。最低だよ)

 ボフッ!

「うわ!?」

「ちょ、ちょっとシンジ君、どうしたのよ?」

 考え事をしていたせいで全く前に注意していなかったボクは、突然立ち止まったミサト
さんの背中にモロに顔を打ちつけた。少し痛む鼻を押さえつつ辺りをうかがうと、驚いて
こちらを見やるミサトさんと、その後ろのエレヴェーターが視界に入ってくる。その光景
にようやく状況が飲みこめてきた。つまり、エレヴェーター待ちのためにミサトさんは立
ち止まったのだけど、それに気付かなかったボクはそのままミサトさんに体当たりをして
しまったのだろう。

「あ、す、すいません。ちょっと、ボーっとしてて……」

「も〜う、しょうがないわねえ。……レイのことでも考えてたの?」

「ミ、ミサトさん!」

「……」
 
 ミサトさんが、あの邪悪な笑みを浮かべる。
 少し戸惑うボク。
 何でそのことが分かったんだろう……?







「あ、あの、いいと思います……」

 そんな感じのことを言うのはもう何度目だろうと自分でも思う。さっきからずっと、ミ
サトさんが綾波の体に洋服をあてがいボクに感想を求めるのだけど、ボクにできるのは、
少し顔を俯かせ、チラチラと視線を送りながら似たようなセリフを繰り返すことくらいだ
った。

「も〜う、シンちゃんったら。さっきからそんなことばっかねえ」

「で、でも、ボクは女の子の服のこととかよく分からないから……」

「あら、女の子はね、似合ってるよ、とか、可愛いよ、とかそういうなんでもないことを
言ってもらえるだけでも、すごく嬉しいものなのよ」

「や、でも、ボク……」

「レイもそう思わない?」

「…よく分かりません」

「……」

 ミサトさんが少し肩を落とすのを見て、ボクは何だか二人に申し訳なくなってしまった。

 最初は良かったんだ。服選びはミサトさんと綾波だけでやっていて、ボクはそれについ
ていくだけっていう感じだったし、ミサトさんが綾波にいろんな服を勧める感じで、てき
ぱきと物事を進めていたから。でも、いくら服の好みを聞いても、よく分からない、とい
うようなことしか言わない綾波に業を煮やしたのか、ミサトさんはボクにも意見を求める
ようになってきて。風向きがおかしくなってきたのはその頃からだった。

「ねえシンちゃん、レイにはどんな色のパジャマが似合うと思う?」
「え、あの、よく分かりません」
「もう、ちょっとは考えてみなさいよ」
「えと……。じゃあ、白とか、オレンジとか……」
「それって、プラグスーツと零号機の色じゃない?」
「あ、そうかも……」
「……レイはどう思う?」
「…問題ありません」
「……」

「このジーンズなんだけどさあ。これとこれ、どっちがレイにはいいかなあ?」
「……あの、どっちも似合うかな、なんて……」
「なるほど〜。シンちゃんとしては、レイなら何を着ても似合うと、そういうことね?」
「え!? い、いや、ボ、ボクは別にそんなつもりじゃ!」
「……そんなに強く否定するのも、ある意味失礼だわね」
「あ……。ゴ、ゴメン、綾波。ボク、そんなつもりじゃなくて……」
「…何が?」
「「……」」

「シンちゃん、ちょっとこのワンピース見て。ほら、この色ってレイに合うと思わない?」
「あ、はい、そうですね」
「あら、気のない返事ねぇ」
「え、あの、ボクは別に……」
「……ねえレイ、これ可愛いと思わない?」
「…よく分かりません」
「「「……」」」
「……シンちゃん、これ着たレイはきっと素敵だと思わない?」
「え?! い、いや、そんな、ボクも、よく、分かりません……」
「……」

「このスカートが……」
「このチェックの柄が……」
「このデザインは……」

 例えは悪いかもしれないけれど、まるで着せ替え人形のようにミサトさんが綾波に色々
な洋服を着せる中、ふとあることに気づいてしまったボクは、何だか綾波の顔が見れなく
なってしまって、益々まともな意見を返せなくなっていた。

 それは、もう何度も何度も聞いたはずの曲の中に今まで気づかなかった新しい音――そ
れはベースの低音の響きかもしれないし、後ろの方で微かに聞こえるバックコーラスとい
った類のものかもしれない――を見つけたような感じ、とでも表現したらいいだろうか。
それに気が付いた後ならそれが当然の事のように思えるのに、それを見つけるまでは全然
意識がそこに向かないのだ。

 でもどうして、その時までそれを意識することがなかったんだろう?

 もしかしたらそれは、それまで綾波と顔を合わせたときには、決まっていつも何かしら
の事件があったからかもしれない。血染めの包帯、熱のこもったLCL、そしてあの柔か
な感触。それまでは、綾波のことを思い浮かべるときに、自分の意識が無意識にそういっ
たことの方に向いていたのかもしれない。

(でも、そうなんだよな。今まで意識したことなかったけど、綾波は……)

 綾波は14才の女の子で、しかも、とても可愛い女の子なんだな。

 いろいろな洋服をミサトさんに着せられる綾波を見ていたら、そんなことを今更ながら
に意識してしまったのだ。そうなってしまうと、綾波の顔を見るのも何だか気恥ずかしく
て、もう、何が何だか分からなかった。

 でもミサトさんもミサトさんだと思う。綾波の目の前で、これってレイに似合うと思わ
ない、なんて言われたって、ボクがうまく答えられるわけがない。そういうのに慣れた人
なら、こういうときに何か上手な褒め言葉でも言えるんだろうけど、ボクにはそんなの無
理なんだ。

 おかげで、ボクは聞かれたことにもろくな返事ができなかった。でもそんなボク抜きで
も物事というのは進んでいくわけで。デパートに入って数時間が過ぎる頃には、ミサトさ
ん主導の元、綾波の服の買い物もどうにか一段落していた。

「ゴメン。ちょっちあたしお化粧直してくるわね。二人とも悪いんだけど、その辺で待っ
ててくれる?」

「あ、はい」
「…はい」

 そういってお手洗いにいくミサトさんの後姿を見送った後、ボクたちは近くの踊り場の
ベンチに腰掛けることにした。

 ボクたちの間に会話はない。どんよりと重い気持ち。自己嫌悪。なんだか綾波に申し訳
ない。とにかく謝らなきゃ。

「あ、あの……。ゴメンね、あんまり役に立てなくて……」

「…何が?」

「何がって……。その、服のこととか……」

「…別に」

「……」

「……」

「あの、ボク、どういうこと言っていいのか、よく分からなくって……。今までこういう
経験ってなくってさ……」

「…そう」

(ああ、ダメだよ。自分のそんな話してどうするんだよ。何かフォローになるようなこと
を言わないと。え、と、何か言わなきゃ、何か言わなきゃ、何か言わなきゃ………)

 そんな切羽詰った状況では、冷静に言葉を選んだりなんて出来るはずもないわけで。

「……あ、で、でも、ボクが何か言う必要なんかないよね。ミサトさんも言ってたけど、
綾波はさ、ほら、きっと何を着ても似合うと思うしさ。あの、ケンスケなんかが雑誌を見
ながらよく言うんだけど、元がカッコよかったり可愛かったりする人って何着ても似合う
って言うでしょ。ボクなんかはさ、元が平凡だから何着てもパッとしないんだよね、は、
はは……」

(……って、あ、あれ?)

 自分は何を言っているのだろう? 何かとんでもないことを言ったような気がする。ぎ
こちない空気をどうにか追い払おうと、思ったことをペラペラと口にした後で、やっとそ
のことに気がついたボク。

(……げ!!)

 そしてそれに続いて、ボクはそれを感じた。ハッキリとそれを見たわけじゃない。でも、
気配で何となくそのことが分かった。

 綾波がボクの方を見ている。微かに首をボクの方に傾けて、ジッと、凝視するかのよう
に見つめている。その視線を確かに感じた。

 全身の毛が逆立ったような気がした。どうしよう、どうしよう、どうしよう。自分の言
ったことをゆっくりと思い返してみると、今更ながらにその意味が頭の中に浸みこんでき
て、途端に頬がカーっと熱くなった。まったく何を言ってるんだろうボクは。彼女でもな
い女の子に、可愛いだなんて、そんなことを言うなんて、なんてバカな奴だろう。

 ゴクリ。

 唾を飲みこむ音がハッキリと聞こえた。

「……あ、ゴ、ゴメン。あの、別に変な意味じゃなくて……」

「……」

「……そうじゃなくて、あの、だから、多分周りから見たら、綾波は可愛いんだろうなっ
て、そういうわけで。だから、その、別にボクがどうとか、そういうことじゃなくて……」

「……何を……言うのよ」

 しどろもどろのボクの言い訳に綾波がポツリと呟き、それっきり黙りこんでしまう。

 もしかしたら嫌な思いをさせてしまっただろうか。自己嫌悪の泥沼にはまりつつもそれ
が気になり、ボクはすぐ脇に座る綾波の様子を横目で伺おうとした。けれど少し俯いてい
るせいか、髪に隠れてその表情はよく見ることができない。かといって、首を動かして正
面からそれを見つめる勇気なんかあるわけがない。結局ボクは何も言えずに、口の中で何
かゴニョゴニョ呟いたきり黙り込んでしまった。

 考えてみれば、誰かのことを可愛いなんて、そういうことをハッキリと感じて意識する
ようになったのは初めてかもしれない。ましてや、そんなことを誰かに言ったのは初めて
に決まっている。でも、それは決して嘘でもお世辞でもなく、ボクはボクなりに思ったこ
とを、無意識にではあるけれど口にしたわけであって。綾波にしてみたらすごく迷惑かも
しれないけど、ボクはそういう風に思ってしまったわけで……。

「おっまたせ〜……って。あらら?」

 数分後。お手洗いから戻ってきたミサトさんが、ボクたちを見て少し怪訝そうな顔をし
た。最初にボクの顔を、次に綾波の顔を見て、少し首をかしげる。

「あんたたち、何かあったの?」

「「別に」」

 重なった声に、また頬が赤くなってしまう。それを感じるのはボクだけだろうか。相手
を意識する空気がたまらない。でも、あまりそれに気を取られている余裕はなかった。何
故って、目の前には邪悪な笑みを浮かべつつあるミサトさんの姿があったからだ。
 
「な〜に恥ずかしがっちゃってんのよ〜、二人とも〜。そんな感じで、別に、なんて言わ
れたってね〜」

 ああ、まずい、これはまずい。ここは口で何か言うよりも、行動だ。そう思うのと立ち
あがるのは、ほぼ同時だった。ボクにしては上出来の反応だったと思う。

「べ、別に何でもないんです。そ、それよりほら、行きましょうよ」

「え? え? 何よシンちゃん。ちょ、ちょっとそんなに押さないでよ、シンちゃんった
らぁ」

 自分の表情を見られないように素早くミサトさんの後ろに周り込むと、ボクは懸命にミ
サトさんの背中を押してその場から離れようとした。きっと茹で上がったタコのような色
をしている自分の顔を見せたくなかったのは、ミサトさんに対してなのか、それとも綾波
に対してなのか、ボクにはよく分からなかった。


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