独り、歩く。 人影は少ない。 独り、歩く。 一歩ごとに記憶が蘇る。 楽しかったこと、嬉しかったこと、そして…… 様々な記憶。 それは、確かに存在した時間の証。 記憶を抱きしめながら、独り、歩く。 歩む先にあるのは――赤。 有限の日々 3 〜前編〜 還る。 それは僕の本能。 それは僕の運命。 逆らうつもりはない。 逆らえるものでもない。 ただ、その範囲内でなら自由はある。 第三使徒の出現とその殲滅。 報告を受けたゼーレの老人達はすぐに動いた。予備パイロットのフィフスチルドレン・渚カヲルという名目で、僕 をネルフ本部に送り込むことを決めた。彼らが望んでいるのは使徒の侵攻によって起きるサードインパクトではなく、 アダムの魂を宿す僕――タブリスによる補完だから。少なくとも口ではそう言っているから。万が一に備えての早め の保険だ。 一つ、僕から要求を出した。しばらくは行動を起こさずにヒトとして過ごしてみたい、と。 この星で繁栄を遂げたリリン――ヒトという存在。リリスから生まれた彼らのことを知りたかった。 それは知識欲であると同時に、一種の義務でもある。いずれ彼らに滅びをもたらす運命だからこそ、その前にヒト を知っておくべきだと思った。 ヒトは何を考え、どう生きているのか。この目で見て、この魂で感じてみたい。 ヒトの中で過ごしてみたい。 僕はそう望み、老人達も了承した。 誕生日――セカンドインパクトと同一日――などのデータを改竄・抹消しておけば、すぐに正体を断定されること は何とか避けられるだろう。しばらく誤魔化すことさえ出来ればそれでいい。そんなに長い時間は必要ないのだから。 こうして、僕はヒトとしてネルフ本部に着任し、ヒトとして学校にも通い始めた。 今まで限られた範囲の世界でしか生きてこなかった僕が、初めて触れる外側の世界。 たくさんのヒトと話し、知識としてしか知らなかった感情や行動の数々に、直に接する。 ――楽しい。 どんな感情も、どんな行動も、全てに興味が引かれる。 初めて通う「学校」。初めて持つ「友達」。何もかもが新鮮だった。 みんなと同じように喋って、笑って、時にはふざけてみたりして。 みんなの言葉が僕のために使われて。 僕の言葉がみんなのために使われて。 それは何て楽しくて、嬉しいことなんだろう。 ここに来てよかった。 還る日は僕の意志で決められる。しばらくはリリンとともに過ごしてみよう。 それくらいの自由はあっていいだろうさ。 僕と一番接触の機会が多い相手――仕組まれた三人の子供達。彼らへの興味は尽きない。 他のチルドレンの動向には注意を払っておけ、などと老人達に言われたからじゃない。僕自身が興味を持たずにい られない。 僕と同じ存在であるファーストチルドレン。 エヴァのパイロットであることに自身の全てを懸けているセカンドチルドレン。 ネルフ総司令・碇ゲンドウの息子であるサードチルドレン。 それぞれが、非常に興味深い。 ファーストは、基本的に周囲の人間には無関心のようだった。碇司令だけが例外。 手駒であるべき彼がいずれ独断に走りはしないかと、老人達は懸念していた。ファーストの存在は、碇司令に独自 の思惑があることの裏付けともいえる。彼女を使ってサードインパクトを起こす気なんだろうか。 そうはいっても、ファーストにだって心はある。僕に心があるように。もしもこの先、二人の意向が食い違うこと になったら、ファーストは、碇司令は、どうするのかな。 自尊心の高いセカンドは、どうも僕をライバルとして認識しているらしい。何かと嫌みを言ってくる。 ……僕は事務的な態度や冷徹な振る舞いといったものなら慣れている。ここに来てから常に注がれている、疑惑と 警戒の目だって気にしていない。委員会が直接送り込んできた、コアの書き換えもなしに弐号機とシンクロ出来る子 供なんて、ネルフ本部の人間には怪しまれて当然なんだから。でも、至って個人的な理由で目の敵にされるような事 態までは、さすがに予想出来ていなかった。 正直言ってセカンドへの対応には困った。僕の方は別に彼女が嫌いじゃないから、余計に困った。敵愾心、という ものはどんなふうに受け止めればいいんだろう……。 他の人達に対するのと同じように友好的に接してみてはいるけれど、良い反応は一向に返ってこない。まぁ、仕方 ないか。リリンと一言で言っても多種多様。その全員と上手く付き合おうなんて最初から無理な相談なんだろう。 ただ、悪いことばかりでもない。僕を警戒している葛城さんや赤木さんも、セカンドの態度に関してだけは同情を 禁じ得ないらしい。伊吹さんに至っては、顔を合わせるたびに慰めや励ましを口にしてくれる。それがネルフ上層部 の人達との会話の糸口になっていったのだから、何がどう転ぶか分からないものだな。 サード――シンジ君とはすぐに仲良くなれた。男同士というのが幸いしたみたいだ。最初から僕が彼に肯定的だっ たことも。 自分の存在を肯定出来ないままに生きてきた彼は、哀しい人間だ。 「カヲル君ってすごいね、いつでも笑っていられて。なんか、大人だなぁって感じがする。……僕もカヲル君みたい になれたらなぁ……」 そんなふうに感心された。彼の心は脆くて繊細で、すぐに傷がついてしまうから、物事に動じることの少ない僕が 羨ましく思えたんだろう。 でも別に、大層なことじゃない。僕にとっては何もかもが物珍しく感じられるから笑っているだけだ。 僕としては逆に、そんな悩みを持てるシンジ君に感心する。セカンドの肩肘張った生き方は疲れないものか気にな るし、ファーストと僕との相似性、対照性について色々考える。 毎日新しい発見があり、体験がある。だから楽しい。だから僕は笑う。 それだけのこと。 ここでの日々は、新鮮な驚きと喜びに満ちている。 毎日がとても充実している。 朝起きて、食堂で朝食を済ませて、ネルフを出て、学校へ向かう。購買は混むから、途中にある店で昼食用のパン やおにぎりを買っていく。 学校に着いて、教室に入って、クラスメートと「おはよう」と挨拶を交わす。 授業を受ける。五教科に体育、美術、音楽、道徳、技術家庭科。 昼休みは友達と一緒に昼食。誘われてバスケやサッカーに興じることもある。 午後の授業。基本的に勉強は好きだけど、あまりに授業がつまらないと眠気に襲われてしまう。 放課後。友達と下校することが多い。「ゲーセン」も、ファーストフードでの注文の仕方も、彼らに教わった。 シンクロテストや実験や訓練の日もある。スタッフの人達との会話に、時折冗談も交じるようになった。 休日には街に出る。買い物をしたり、映画を見たり、公園を散歩したりして過ごす。 些細な出来事を積み重ねて過ぎていく、穏やかな日常。 一方で、使徒とヒトとの戦いは進んでいく。 倒されていく兄弟達。彼らの断末魔に心が痛まないわけじゃない。 でもいずれ僕が還れば、彼らと再び一つになれる。彼らに還る場所が出来る。それまでの、しばしの別れ。 だから寂しいとは感じない。 使徒とヒトとの戦いは進んでいく。 その中心にはいつもセカンドがいた。 僕への対抗意識もあって、功を立てようと強く意気込んでいるセカンド。戦闘時には、葛城さんの指示などお構い なしで真っ先に駆けていく。 自分本位な姿勢ではあるけれど、徹底されるといっそ清々しくもある。 弐号機の赤い色は、彼女の激しさそのものだった。 そんなセカンドに、ある変化が表れた。 「おはよう、シンジ君、惣流さん」 「おはよう、カヲル君」 教室に入ってきた二人に挨拶をする。シンジ君が応じてくれる。ここまではいつもの朝と同じ。だけど、 「……おはよう」 「えっ?」 セカンドが僕に挨拶を返してくれたのは初めてだった。思わずまじまじと見つめる。シンジ君も僕と同じ反応をし ていた。 「――何見てんのよ、あんたらはっ!!」 照れ隠しなのか、やけに荒々しい音を立てながら席に着き、そっぽを向くセカンド。僕とシンジ君は顔を見合わせ て笑った。 それからは毎日、挨拶すれば挨拶を返してくれる。ネルフへの道中や実験の待ち時間などには雑談も交わすように なった。僕の顔を見るだけで渋面を作っていたセカンドとは別人みたいだ。 簡潔な返事しか寄越さないファーストにもセカンドはあまり苛立ちを見せなくなった。その程度のことでも、以前 の彼女から考えると大きな変化。 セカンドの態度が一番変わったのはシンジ君に対してだった。学校でもネルフでも二人はよく話をし、よく笑い合 うようになった。周囲の顔色を窺うところのあるシンジ君に、何かとセカンドが発破をかける。シンジ君はシンジ君 で、熱くなりやすいセカンドの抑え役に回る。そういうコンビネーション。見ていて微笑ましい。 戦果を挙げ、望み通りにみんなからエースパイロットとして認められたことが、セカンドに好影響をもたらしたん だろうか? 精神的に一回り成長したみたいだった。あるいは、彼女本来の余裕を取り戻したのかもしれない。 ちょっとしたきっかけでヒトは変わる。それが周りも変える。 そうやってヒトの世界は変わっていくのか。 ――じゃあ、僕は? ここに来てから、僕は何が変わって、何が変わらなかったんだろう? ここに来る前だって、僕はいつも笑っていた。傷ついたり怒ったりすることがなかったので、笑顔を消す必要がな かった。 ここに来てからは、楽しいと思うことが遥かに増えた。だからここでも笑っている。 ……ここに来てからも、傷ついたり怒ったりすることはなかった。 ファーストのように、人との関わりに興味が薄いわけじゃない。 そのくせシンジ君のように、人との関わりの中で傷ついたことはない。セカンドのように、人との関わりの中で不 快感を抱いたこともない。 僕はただ、笑っているだけだ。 傷つくことも怒ることもない。全てをただ楽しいと思い、楽しもうとしている。 だって、いずれヒトは消えるから。 ヒトと深くは関わらない。ヒトを強く求めたりしない。だから傷つくことも怒ることもない。 だけどそれは僕を、ヒトの中で取り残されているような気持ちにさせる。 寂しい、という気持ちにさせる。 寂しい。 心が傷ついたことはない。怒りを感じたこともない。 それは僕に、守りたいものが何もないということ。 寂しい。 ヒトに心を預けても、いずれ僕とヒトとの関わりは消える。 だから心を預けられない。誰にも本気で向き合えない。絆を結ぶことが出来ない。同じ存在であるファーストとさ え。 寂しい。 ヒトは所詮独りきりの存在。だからこそ身を寄せ合って生きていく。 望んでヒトの中にいるのに。ヒトの中にいるのは楽しいのに。 ヒトの中で僕は独り立ち尽くしている。 ……寂しい。 寂しい 寂しい 還りたい 声が聞こえる。 頭の中に直接聞こえてくる声。 僕に訴えかける、僕自身の声……。 学校で、ネルフで、たくさんの人に囲まれて過ごす日々。 渚カヲルという人間として扱われていると、僕自身、人間のような気がしてくる。 だけど独りきりになればそんな錯覚は生じようもない。僕は使徒タブリスで、ヒトではないんだという正しい認識 が戻る。 それは当たり前のことなのに。ただの事実だというのに。 みんなと楽しい時間を過ごした後でその認識を取り戻してしまうと……寂しさで心が冷えていく。 楽しさで寂しさを忘れていた分、余計に心が冷えていく。 段々と、誰もいない部屋に戻るのを厭うようになった。 幸い、僕が住んでいるのは本部施設の中。実験の準備や作戦行動の後始末などで徹夜作業が多いところだから、夜 遅い時間でも簡単に人に会える。独りではなくなる。 とはいえ、ただでさえ得体の知れない僕が、夜中に施設内を歩き回って警戒されないわけがない。子供は早く寝な さい、という当たり障りのない言い方ながらも冷たく追い返されてばかりだった。最初のうちは。 その夜もやはり早く寝なさいと言われ、仕方なく出て行こうとした僕に、伊吹さんは気が咎めたのかもしれない。 冗談っぽい口調で呼び止めてきた。 「あ、その、誰だって眠れない時はあるわよね。せっかくだからコーヒーでも淹れてくれないかなぁ、なんて」 「淹れます!」 僕はよほど嬉しそうな顔をしたんだろう。伊吹さんは噴き出し、日向さんと青葉さんも笑った。厳しかった葛城さ んの表情も堪えきれないかのように緩み、「犬みたいね、あなた」という赤木さんの揶揄にだって温かい響きが含ま れていた。 それからは、追い返されなくなった。 僕の淹れたコーヒーで一息つきながら、日向さんが学生時代の話をしてくれたり。 当直で暇を持て余していた青葉さんと、音楽談議に花を咲かせたり。 給湯だけ済ませたら仕事に戻るはずだった伊吹さんと、つい話が盛り上がってしまって、気が付けば赤木さんが怖 い顔をして立っていたり。 書類の山と格闘している葛城さんの肩を揉んであげたり。そこへやって来た加持さんが葛城さん本人の前で暴露話 を始めて、もう仕事どころではなくなってしまったり。 そんな些細な遣り取りが、楽しい。僕と話すことで笑ってもらえるのが、嬉しい。 僕のしたことが喜ばれる――それはとても幸せな瞬間。 でもどれだけ心を温めてもらっても、部屋に戻って独りになると冷えてしまう。 だって僕は使徒なんだから。この人達の敵なんだから。 ……馴れ合ったところで、何になるんだろう。 人のいる場所へ行くと、寂しくなくなる。 人のいる場所から離れると、虚しくなる。 振り子のように、心があちらとこちらを行き来する。 ヒトと過ごす時間を楽しんでいる僕。 その僕を冷めた目で眺めている僕。 ……僕は、何をやっているんだろう。 このまま、ここで生きていけたら――。 そんなことを時々思う。人間として生きる自分を想像してみる。 不可能だと承知の上で。 人間のふりをしていたって僕は人間じゃない。人間にはなれない。 嘘をつき続けたって真実にはならない。 このまま、ここで生きていく――それはただの夢物語。 分かっている。 ここは僕の居場所じゃない。 僕はここにいていい存在じゃない。 そんなこと、最初から分かっている……。 それでも日々は過ぎていく。 楽しさも寂しさも。弾んだ会話もささやかな空想も。全てをこの魂に刻み付けて、僕は日々を過ごしていく。 体育の授業が終わり、教室で着替える。いつもと何ら変わらない光景だった。 相田君と鈴原君が、奇妙な含み笑いをしながら僕を見ていること以外は。 「……どうかしたのかい?」 二人に尋ねてもまともな回答は期待出来ない気がしたので、代わりに、僕と彼らの間で困っているとも面白がって いるともつかない様子のシンジ君に質問する。 「え、あ、いや、大したことじゃないんだけど……体育の間、カヲル君が女子の方をチラチラ見てたなぁって」 「女子? それはまぁ、一緒にグラウンドでやっていたんだから視界に入りもしたさ」 そこで何故か相田君と鈴原君は顔を見合わせて頷き合い、両側から僕の肩を叩いてくる。 「うんうん、分かってるって。お前もちゃんと男だなぁ」 「……一応そういう肉体をしているよ?」 「何ちゅーたって、第二次性徴絶好調やもんなぁ」 「第二次性徴か。うん、この年代はそういう時期に当たるらしいね」 話の要点が掴めずにいるだけなんだけど、はぐらかしているようにでも見えたのか、相田君が眼鏡の奥の瞳を光ら せながら詰め寄ってきた。 「それで――気になっているのは誰なんだよ?」 「気になっているって……何?」 「だ・か・ら。好きな子を見てたんだろ?」 「……好きな、子?」 相田君は、何を言い出したんだろう? 鈴原君がニヤニヤと笑っている。無理に聞くのは良くないよ、と口ではたしなめているシンジ君も、表情からする と興味津々らしい。 でも僕は自分が一体何を言われているのか、やはりよく理解出来ずにいた。 そこへ予鈴が鳴り、僕達は大急ぎで着替えを済ませる。やがて更衣室で着替えていた女子も教室に戻ってきて、話 はうやむやのうちに終わってしまった。 次の授業は頭に入ってこなかった。さっき言われたことばかりを考えてしまう。 ――体育の間、女子の方を見ていた。 うん。陸上競技の記録測定だったから待ち時間が長くて、暇潰しに女子の測定を眺めたりもした。だから、それは 事実として間違っていない。 ――僕は男で、第二次性徴絶好調。 絶好調という言い回しが適切かはともかく、それも表面的な事実としては間違っていない。 ――気になっているのは誰? 前後の繋がりからいって、体育の時間に気になった女子は誰なのか、ということになるかな。 一番僕の目についた女子は……セカンドだったな。幼い頃からパイロットとしての訓練を受けているだけあって、 走行や跳躍に抜群のキレがあり、女子の中でも一際目立っていた。 ファーストのフォームも整っていたけれど、あまりに教科書的な整い方で、目を引くというのとは少し違った。 この辺りは二人の個性の差が表れていて面白い。 ――好きな子を見ていた? 好きな子を気にしていたんだろう、と相田君は言いたかったみたいだな。 気にしていた女子は、セカンドだ。 それなら彼女は……僕が好きな子だということ? 好き――。 確かにセカンドは好きだ。同僚で、クラスメートで、一緒に過ごしてきた時間も長い。もっとも、その大部分は嫌 われていた時間だから、あまり話はしてこなかったけれど。 そもそも僕は、好きじゃない相手なんてほとんどいない。ゼーレの老人達くらいかな。彼らは興味深くはあっても、 好ましいとまでは思えなかったから。 大抵のヒトは、何度か接触していれば好ましい点が見えてくる。欠点も見えてくるけれど、それで好ましい点の全 てが掻き消されてしまうわけじゃない。 だから僕は、ここに来てから会ったヒトはみんな好きだ。 特に親しくしてきたシンジ君は勿論、ファーストだってセカンドだって好きだ。 相田君に鈴原君、委員長の洞木さん……同じクラスのみんなが好きだ。 葛城さん、赤木さん、伊吹さん、日向さん、青葉さん、加持さん、技術部の人、食堂のおばさん……ネルフでお世 話になっている人達。みんな好きだ。 碇司令や冬月副司令には少し思うところもある。でも好きか嫌いかで言えば好きの方だ。何となく、としか自分で も理由は説明出来ないけれど。 ここで出会った人達、みんなが好きだ。いつもそう言っている。 個人個人にも言っている。君のこと好きだよ、とか。あなたのそういうところ好きですよ、とか。最初は変な顔を されたけれど、じきにみんな慣れてくれた。 互いの心の壁はただでさえ厚いのに、言葉を惜しんでいたら何も伝わらない。だから僕は、言葉を惜しむ気はない。 好感の持てる言動は率直に称えるし、好意は素直に伝える。 好きだという気持ちも、言葉も、僕にとってはごく自然なものだ。 だけど相田君の口にした「好き」は多分、僕の言う「好き」とは別のものを指しているんだろう。 いわゆる、異性間の『好き』だ。 『あ、あの、渚君……私、あの……す、好き、です……』 『私、渚君が好きなの』 『渚先輩のこと、ずっと好きでした!』 口頭や手紙で何度も伝えられた言葉。僕という異性に向けた『好き』らしいことは、知識と状況から察することが 出来た。 だけどその『好き』が、僕には理解出来ない。 僕のみんなへの「好き」とは違うのだろうとしか理解出来ていない。 どんな気持ちなのか。何故そんな気持ちになるのか。「好き」とはどう違うのか。 知らない。 理解出来ない。 『ごめんね、僕はその気持ちに応えられない』 理解出来ないものを受け入れることは出来ない。 理解出来ないものをぶつけられたって……困る。 彼女達にとって『好き』と伝えることは、恋人としての付き合いをしてくれ、という申し込みでもあるようだった。 そんなもの、ますます受け入れられない。 恋人というのは、唇を重ねたり、抱き合ったり、互いの肉体を一つに結び付けたり……そういうことをする関係の はず。そんな行為をしたいなんて思ったことのない僕に、演技でもそんな真似をしろと? 無理だよ。 それに友人とは違い、恋人というものは基本的に一人しか持てないはずだ。僕にとってその異性がただ一人の相手 になって、その異性にとって僕がただ一人の相手になる――そんな状況、想像すらつかない。ヒトと表面的な友人に はなれても、そこまで深く交じり合うなんて僕には出来ない。いくら何でも無理だ。 だから、愛の告白というものは全部断ってきた。エヴァ搭乗資格を持つチルドレンとして云々という話を持ち出せ ば、彼女達はそれ以上食い下がることが出来なくなるから、諦めてくれる。 ……卑怯な手を使っているとは思う。泣かれたりすると申し訳なくなる。でも、これが一番使い勝手のいい理由だっ た。本当の理由なんて明かせるものではないし、彼女達に打ち明けたところでどうにもならないのだから。 異性への『好き』なんて理解出来ない。 恋人としての付き合いを行うなんて不可能。 それが僕。 なのに―― 『好きな子を見てたんだろ?』 僕がセカンドを……『好き』? まさか、ね。 体育の時間に僕が彼女に向けていた目は、アスリートへの感嘆の目だ。『好き』なんて気持ちとは懸け離れている はず。相田君達が早とちりしているだけだ。 ヒトはこれくらいの年齢になると異性に対する興味が増すらしいから、僕の何気ない行動も異性への興味によるも のだと、彼らの基準に合わせて決め付けただけに違いない。きっとそうだ。 後で誤解は解くとして、結論が出たことだし授業に集中するとしよう。 ……還ったら、こんな自問の機会も訪れないんだろうな。 寂しい、な……。 「あ、あの、アスカと先に行ってよ。ちょっと急げば追いつけると思うから」 週番の仕事を手伝おうとした僕に、シンジ君はそう言った。 シンクロテストがあるから、時間までにパイロットは全員ネルフに行かなければならない。 ファーストは昼の時点で早退している。 セカンドも授業が終わってすぐに行ってしまった。 僕はシンジ君の仕事を手伝って、早く終わらせて、それから一緒に行こうとしたんだけど……そう言われてしまっ た。 何故いきなり、こんなことを言い出したんだろう? 真っ先に浮かんだのは、いつかの体育の際に受けた誤解。僕の説明は全く信じてもらえず、誰を見ていたのか白状 しろと迫られたり、女子と少し話をしただけで勘ぐられたりという状態がしばらく続いた。見ていたのは主にセカン ドだった、なんてことは一言も漏らさなかったし、そのうち彼らの興味も薄れてくれたので安心していたんだけど、 それが再燃して妙な計画でも立てたのかと疑った。 でも、違ったらしい。 「こっちは大丈夫だからさ。だから、その、アスカと……え〜っと……あ、綾波もいないしさ、その……アスカ一人 で行っても、寂しいんじゃ……ないかなぁって……」 落ち着かない様子で視線をあちこちに動かしながらも、シンジ君は僕に真摯に訴えかけていた。僕が行ったら今度 は君が一人になるよ、と指摘するのは気が引けるくらいに。 シンジ君とではなく、セカンドと――? そういえば、セカンドと二人だけで行動したことなんて今まで一度もなかったな。一対一で話したことさえあまり ない。いつもシンジ君を間に挟むようにして付き合ってきたから……あぁ、だから「セカンドと」になるのか。 間に挟まれてきたシンジ君としては、色々と思うところがあったのかもしれない。きっと言おうか言うまいか迷っ た末に、勇気を出して提案してきたんだろう。それを断れるわけがなく、勧められるままに彼と別れて教室を出た。 だけどそこで、僕の足は止まる。 ……シンジ君の気持ちを無視したくはない。かといって、セカンドに無理やり追いつくのもためらわれた。もう嫌 われてはいないといっても、好かれているとまでは思えない。二人きりでネルフに向かうなんて、彼女を滅入らせる だけだろう。僕だって気まずい状況をわざわざつくり出したくはない。 もし追いついたら、その時は一緒に行けばいいさ。そんな成り行き任せの考えで、急ぐこともなく昇降口に向かっ た。 ――とっくに校舎を出ただろうと思っていたセカンドが、そこにいた。 三年生らしい男子生徒が一緒だけど、友好的な雰囲気には見えない。セカンドの背中から苛立ちが伝わってくる。 放っておくべき理由はなかった。 「惣流さんはこれから僕とデートなんですよ」 相手の台詞を逆手に取って割り込む。機先を制するには有効な手段。難点は、セカンドの不興も買ってしまうだろ うこと。 彼女の後ろ回し蹴りに備え、いつでも回避行動に移れるように体勢を整えておいた。 僕の中で彼女はそういうイメージが強かったんだろうな、と後になって思った。 |