ネルフへの道を辿る。二人で並んで、笑い合いながら。



有限の日々   



〜後編〜



 セカンドがこんな明るい笑顔を見せてくれたのは初めてだった。
 洞木さんにではなく、シンジ君にでもなく、僕に対してこんな笑顔を見せてくれたのは初めてだった。
 こんなふうに彼女と笑い合える日が来るなんて、思いも寄らなかった。

 あまりに予想外の出来事だったから余計に嬉しくて、僕は自分でも呆れるくらいに浮かれていた。
 彼女が名前で呼んでくれたことも一因なんだろう。一気に親密さが増したように思えたから。場の勢いだろうと別
にかまわなかった。名前で呼んでくれた、その事実だけで充分。

 ……こうしてみると、僕は自分で思っていた以上に、セカンドと仲良くなりたがっていたんだな。

 せっかくだから、僕も名前で呼んでみる。

「アスカ」

 初めて呼んだ名前。初めて僕の口を通して出てきた響き。
 不思議な感覚だった。

 彼女の顔は見えないけれど、真っ赤になって照れているんじゃないかという気がする。可愛いな。自然と頬が緩ん
だ。
 もっと名前を呼んでみたら、彼女はもっと可愛くなるのかな? そう考えたら、何だかワクワクした。もっと名前
を呼んでみたい。もっと可愛い彼女が見たい。
 こんなことなら、もっと早くに仲良くなればよかった。随分ともったいない時間を過ごしてしまったな。
 まぁ、いいさ。今までの分を取り返すくらいに、これから仲良くすればいいんだから。



 ふと、引っ掛かりを覚える。

 ――これから?
 これから、って……



 何故引っ掛かったのかが分かった瞬間、心と体が凍て付いた。



 あぁ、そうだ……。
 「これから」なんて、考えても意味がないんだった……。



 浮かれた気分が消えていく。

 動かす足が重くなる。

 彼女は早足で歩き続けている。

 その背がどんどん遠くなる。

 白い日差しの下で浮かぶ、蜃気楼のようだった。

 現実の存在ではない、ただの幻――



 不意にその足が止まり、顔がこちらに向けられる。

「何をちんたら歩いてんのよっ!! 置いてくわよっ!!」

 辺りを憚ることのない怒鳴り声――それは紛れもない現実だった。



 声に交じっている息が荒い。……疲れたのか。
 平気なふうを装おうとしているのが可笑しくて、思わず笑ってしまう。少し気分が浮上した。

「君がさっさと行ってしまっただけだろう? とっくに僕を置いていく気だと思ったよ」
「そうしてほしけりゃ、今からでも置いてってやるわよっ! 口答えしている暇があったら足を動かしなさいよね!」

 威勢のいい返事。僕の心の澱みに、彼女は気付いていない。……気付かせる必要はない。
 掛け合いを演じながら近付いていく。あと二、三歩で隣に並ぶという距離まで縮まったところで、彼女はまた先に
立って歩き出した。今度は普通の速さで。
 僕も同じペースで歩く。距離は広がりも縮まりもしない。
 やけにぶっきらぼうな態度を取る彼女をからかうと、ムキになって肩越しに言い返してくる。その様子が可笑しく
て僕は笑う。すると彼女はますます怒ってみせる。僕はまた笑う。
 そうして僕は彼女と……セカンドと歩く。

 間に挟んだ距離がありがたかった。少し不自然な笑顔になっていたとしても、見咎められずに済む。
 セカンドと二人きりで行動するなんて、多分今日限り。こんなこと、そうそうあるわけがない。
 楽しんでおこう。笑っておこう。暗く濁った心は、底の方へと沈めておこう。
 それでいいじゃないか。「今」を楽しめたら、それで……。





 それで、終わりだと思った。
 からかって、言い返されて、笑って、怒られて。そんな遣り取りをしながらネルフに着いた時点で終わり。後々ま
で続くものなんてないと思った。

 翌日以降の展開を、予想出来たはずもなかった。





「惣流と付き合ってるって本当かよ?」

 ……いいや、全然。

「デートしたんだってな」

 してないよ。する予定もない。

「腕を組んで帰ったって聞いて……」

 どこからそういう話になったんだい……?

 クラスメートだけでは収まらず、顔も名前も知らない生徒が次々とやって来ては僕に尋ねる。
 毎日、毎日。

 ……何故、こんなことになったんだろう。デートという言葉を使ったのが良くなかったのかな? ただ相手の台詞
を借りただけなのに。
 これが他人事なら、ヒトの興味深い行動として面白がることも出来たかもしれないけれど、さすがに当事者の立場
ではそんな余裕もない。ひたすら否定を繰り返すだけだ。

「惣流さんとはそんな関係じゃないよ」
「デートなんかしてないよ。シンジ君も綾波さんも用事があったから、惣流さんと二人でネルフに向かった、それだ
けの話さ」

 尋ねられては否定し、尋ねられては否定する。……疲れる。
 こんなことを確かめてどうするんだろう。事実は異なると分かったところでどうするんだろう。僕とセカンドが付
き合っていなければどうだというんだろう。
 こうも質問攻めにされると、少しひねくれてしまいたくなる。「うん、付き合っているよ」なんて言ってみたくな
る。
 一体彼らはどんな反応を返すんだろう。悲嘆に暮れるのかな? 決闘でも申し込んでくるのかな? それともあっ
さり諦めるのかな? そんな想像を巡らし、こっそり笑う。……疲れているな。

 付き合っている、なんて言ってみたら……セカンドはどんな反応をするんだろう。

 彼女が何を考えているのか、分からない。
 色々と不愉快な思いをしているはずなのに、僕に対して一言も文句を言ってこない。黙って耐え忍ぶような性格じゃ
ないのに、僕を一言も責めない。
 非難してくれていいのに。「あんたのせいよ!」とか、「今後私に近寄らないでちょうだい!」とか怒ってくれて
いいのに。その方が対応は楽なんだ。謝って、彼女が求める通りにすればいいんだから。
 だけど彼女は、僕に何も言ってこない。何も言ってこないから、何を考えているのか分からない。どう接すればい
いのか……分からない。

「惣流さんとはそんな関係じゃないよ」

 じゃあ、どんな関係なんだろう。
 同僚。クラスメート。仲間。友達……は違うな。そこまで親しくはない。
 ……何て表現するのが、一番相応しいんだろう。

「デートなんかしてないよ。シンジ君も綾波さんも用事があったから、惣流さんと二人でネルフに向かった、それだ
けの話さ」

 そう、それだけの話だった。あの日きりで終わるような、たわいもない出来事だった。
 笑ってくれた。名前で呼び合った。ただそれだけの、たわいもない……大切な思い出。

 質問されて答えるたびに、あの日のことを思い出す。たかだか数十分の間のことを、何度も何度も思い出す。
 付き合ってなんかいない。友達でさえない。そんな相手との。
 デートなんかじゃない。一緒にネルフに行っただけ。そんな出来事を。
 何度も、何度も……思い出す。





 四人でネルフへの道を辿る。何度となく繰り返されてきた行動。日常の光景。
 ある日はシンジ君が隣を歩き、ある日はファーストが隣を歩く。
 今日、僕の隣を歩くのはセカンドだった。

 ここ数日、迷惑をかけ続けていることを謝っても、やはり僕を責めてはこない。
 加持さんが『好き』なセカンドにとって、僕と付き合っているなんて噂は迷惑でしかないはず。怒ってくれていい
のに。理不尽なまでに怒鳴り散らしてくれていいのに。いつもは僕に落ち度のないことでも平気で八つ当たりしてく
るのに、何故今回に限って何も言わない?
 ずっと身近にいた相手なのに。よく知っているつもりだったのに。セカンドのことが分からなくなってきて、軽い
調子で会話をしながら、気付かれないように観察する。

 ……怒らないのなら、笑ってほしかった。明るく笑ってほしかった。
 だけど、彼女が浮かべる笑みにはどこか屈託があった。
 怒りもしなければ心から笑いもしない。その代わりに僕に投げ掛けてくるのは、質問。

「好きな女とかいないわけ?」

 いないよ。『好き』なんて気持ち、僕には分からない。

「それでも好みのタイプくらいいるでしょうに」

 いない。どんな異性なら『好き』になれるかなんて見当もつかない。

「誰かと付き合ってみようとか」

 思わない。ただ一人の相手なんて僕には持てない。

 何故よりによって、僕が苦手な質問ばかり……。
 こんなことを聞いてどうするんだ? 知ってどうするんだ? 僕にどうしろというんだ?
 正直な答えなんて返せない。彼女の求める答えなんて知らない。僕に出来るのは調子のいい言葉ではぐらかし、笑
って曖昧にすることだけだ。
 なのに、それすら出来なくなったら……どうすればいい?

「あんたがそんなに、エヴァに入れ込んでいるようには思えない」

 誤魔化し続けてきた真実を言い当てられてしまったら、僕は一体……どうすればいい……?



 何も言えなかった。言えるわけがなかった。顔に笑みを貼り付けていることさえ出来なかった。
 黙って、ただ歩くしかなかった。

 彼女も何も言わなかった。ただ隣を歩くだけだった。
 ……それが少しありがたかった。

 だからかもしれない。

「僕はね、嘘つきなんだよ」

 今まで誰にも言わなかったことを言ってしまった。
 もしかすると、ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。誰かに懺悔がしたかったのかもしれない。

 僕は、嘘ばかりついてきた。
 存在そのものが嘘の塊。ただの虚構。人間ごっこをしているだけの紛い物。
 何を言ったところで欺瞞にしかならない。

 だから、僕なんかの前で自分を卑下してほしくなかった。
 欺瞞だと分かっていても、言わずにはいられなかった。

「君は生気に満ち溢れている」
「生きようという意欲、より多くの歓びを掴みたいという渇望に溢れている」
「君は、自ら輝こうとする人間だ。まるで太陽のように」
「君はとても眩しくて、魅力的で……好意に値するよ」

 言いながら、気付いていく。彼女は僕が持たないものを持っていたんだ。
 生の謳歌、いっそ清々しいまでの貪欲さ、力強く前進していく姿勢――全て僕にはないもの。
 何て、羨ましいんだろう。

 彼女を見る。視線が交わる。

 青い瞳。
 ……あぁ、綺麗だ。
 こんな色をしていたんだな。こんな瞳だったんだな。
 初めて知ったような気がする……。


 ――好きだよ。

 ――僕は、君が好きだよ。


 続けようとしていた言葉、何度となく口にしてきた言葉に、別の感慨が込められていく。
 それまでの思いを全て塗り替えるほどの色濃さで。

 青い瞳が僕を見つめている。
 僕の言葉を待っている。

 ……胸がつかえる。
 熱い塊のようなもので。
 その苦しさが僕を突き動かそうとする。


 だけど、それは……


 ――好きだよ。

 ――僕は、君が好きだよ。


 続けようとしていた言葉、何度となく口にしてきた言葉を……塊ごと、呑み込んだ。






























 彼女の視線を感じる。
 だけど僕はもう、彼女を視界の端に追いやっていた。信号が変わる瞬間をただ待ち続ける。

 彼女の視線を感じる。
 信号が変わり、僕は即座に歩き出す。少し遅れて彼女も歩き出した気配がする。

 彼女の視線を感じる。
 交差点を渡りきり、シンジ君とファーストに合流する。待たせてしまったね、と笑ってみせた。
 どうやらいつものように笑えたみたいだ。

 彼女の視線を感じる。


 ――だけど僕は、彼女を見ない。






























 シンクロテストが終了し、みんなと別れる。誰の姿も見えなくなったのを確認すると、息をついて手近な壁に寄り
掛かった。そのままズルズルと背中を滑らせ、床に足を投げ出すようにして座り込む。

 ……ようやく独りになれた。

 解放感と安堵感とに、思わず自嘲の笑みが浮かぶ。独りになって喜ぶなんて、ここに来てから初めてだった。
 夕食がまだだけど、空腹は感じない。食事なんてどうでもいい。
 このまま部屋に戻って眠ろうか……いや、誰もいない暗い部屋には、まだ戻りたくない。
 少し思案をしてから立ち上がり、部屋とは違う方向へと足を向けた。



 忘れてしまいたいことがある。

 考えたくないことがある。

 だけどそれはもう頭の中に巣食ってしまっていて、離れていきそうになかった。



 風が頬を撫でる。髪を揺らす。
 風、と呼ぶのは正確じゃないんだろう。これはただの空気の流れだ。地の底に風なんか吹きはしない。
 足を運んだのは本部施設の外。木々と草が生えた場所。部屋にはいたくない、だけど人と話したくもない――ごく
稀にそんな気分になった時は、いつからかここに来るようになった。
 昼間だって人気のない場所。こんな時間だと当然、人影なんてあるはずがない。
 上を見ればビルの群れ。星の代わりに瞬く人工の光。ここには空なんてないと主張している。
 広漠とした閉鎖空間。そんな二面性が気分に合うから、僕はここに来るのかもしれない。



 ――忘れてしまいたいこと。

 ――考えたくないこと。

 今は周りに誰もいない。何かを偽り、取り繕う必要はない。僕自身に対しても。

 向き合う覚悟を決めて、押さえ込んでいたものを解き放つ。
 記憶と感情が溢れ出し、心が数時間前に立ち返る……。



 あの時。
 彼女に、好きだよと言おうとした。
 僕は君が好きだよと、言おうとした。

 ここに来てから出会った人達、みんなが好き。みんなに好きだと言ってきた。
 彼女に好きだと言うことも、僕にとって普通の行為のはずだった。

 でも、違った。

 あの時。
 青い瞳を、ずっと見ていたいと思った。
 髪に、頬に、唇に、触れてみたいと思った。
 彼女を腕の中に包みたいと思った。

 今まで誰に対しても、そんなことを思いはしなかったのに。

 今まで抱いたことのない衝動に駆られながら、言おうとした「好き」。それはきっと、みんなに言ってきたものと
は違う「好き」だった。
 じゃあ、どんな「好き」なのか。

 ……推測はついている。



 彼女には色々ときついことを言われた。別に怒りも傷つきもしなかったけれど、仲良くはなれないだろうと思った。
 自分本位ではあっても、戦うその姿は勇ましかった。
 少しずつ、態度が柔らかくなった。挨拶をすれば返してくれるようになった。普通の会話も交わすようになった。
 体育の時間にはキレのある動きが目を引いた。
 名前で呼んでくれた。明るい笑顔を向けてくれた。名前で呼ばせてくれた。照れていた。可愛かった。
 嘘を見抜かれた。僕をずっと見つめていた。ずっと、見つめてくれていた――。

 一つ思い出すたびに、胸が締め付けられる。息をするのが苦しくなる。
 一つ思い出すたびに、手が微かに動く。記憶の中にある彼女の腕を掴んで、僕のもとへと引き寄せたくなる。

 彼女の笑顔が、声が、瞳が、頭から離れていかない。
 熱くて暗くて粘性のある、得体の知れない何かが、僕の中で渦を巻いている。

 初めての感覚。だけど推測はつく。
 ……これがきっと、異性に対する『好き』なんだ。



 口の端が持ち上がる。笑みの形に歪んでいく。それだけでは足りず、声を出して笑う。
 独りきりで笑い続ける。



 ――『好き』、だって?


 僕が、

 彼女を、

 『好き』?


 ……そんな気持ちを抱いてどうする。


 僕は使徒で、彼女はヒト。
 使徒とヒトの未来は交わらない。同じ未来には生きられない。
 いずれ僕はヒトを滅ぼす。世界から彼女が消える。
 それが出来なければ僕が滅びる。世界から僕が消える。
 どちらにしても道は分かたれる。

 『好き』なんて気持ちを抱いたってどうにもならない。
 この先にはもう、何もない。
 あるとしたら、絶望だけだ。



 独りきりで笑い続ける。狂ったように笑い続ける。
 可笑しくて、可笑しくて、可笑しくて……笑い声が乾いていく。やがて喉から出てこなくなる。



 ……分かっていた。分かっていたじゃないか。
 ヒトに心を預けたって、いずれ僕とヒトとの関わりは消える。
 だから誰にも心を預けてこなかった。誰とも本気で向き合ってこなかった。絆と呼べるほどの関係なんて結んでこ
なかった。
 傷ついたり怒ったりということさえなかった。全てをただ楽しいと思い、楽しもうとしてきた。
 ずっとそうやって過ごしてきたじゃないか。それでいいと思ってきたじゃないか。


 なのに何故、彼女を『好き』になる。


 何故『好き』なんて気持ちを抱く!


 ヒトを『好き』になってどうしようっていうんだ? 過剰な思い入れを持ってどうしようっていうんだ?
 このままヒトのふりを続ける? ヒトの中で生きていく?
 やろうと思えば出来るさ、しばらくは。
 ゼーレが痺れを切らして動き出すまでの間なら。

 僕が辿れる道は二つ、いや、三つだけ。
 消すか、消されるか、消えるか。それだけ。

 この先にはもう何もない。
 『好き』になっても何もない。

 あるとしたら――絶望だけだ。



 瞼を閉じる。目の前が闇に覆われる。周りの闇より更に濃い闇に。
 いっそ、このまま僕を覆い尽くしてくれたらいいのに。二度と這い上がることが出来ないほど深い闇の淵へと、落
としてくれたらいいのに……。



 僕の知っている「好き」は、心を温かくしてくれるものだった。
 胸を掻き毟って心臓を抉り出したくなるようなものでは決してなかった。
 ……こんなものはいらない。
 消してしまいたい。
 消えてくれ。

 別の感情で上書きすれば消えるだろうか。
 例えば――憎しみという感情で。


 閉じた目を更に強く瞑る。
 憎むべき対象の像を結び――睨み――心を黒く塗り潰す――。


 こんな気持ちはいらない。苦しいだけの想いなんていらない。こんなものを植え付けた彼女が恨めしい。僕を苦し
める彼女が許せない。恨めしい。許せない。呪う。恨む。許さない。憎い。彼女が憎イ。憎イ。彼女ガ憎イ。憎イ。
憎イ。恨メシイ。許セナイ。許サナイ。憎イ。憎イ。憎イ。イナケレバヨカッタノニ。イナクナレバイイノニ。消エ
テシマエバイイノニ。ソウダ、消エテシマエ。消エテシマエ。消エテシマエ――!







 瞼の裏に描いた彼女は、僕に向かって笑っていた。







 ……駄目、だな……。

 憎しみなんて抱けない。憎むなんて出来ない。
 苦しくて苦しくて、心が押し潰されそうでも……。



 目を開き、見上げれば、高みで輝く人工の光。無機的にただ在り続けている。
 風がまるで手のように、僕の頬を撫でていく。


 静かだ。


 声さえも静寂を破りはしない。





 還りたい





 
頭の中に響く声。
 僕の声、あるいは兄弟達の声。

 寂しいと嘆いている。
 独りは嫌だと叫んでいる。





 還りたい





 還るために僕はいる。
 最初から僕はそのために在る。
 逆らうつもりはない。
 逆らえるものでもない。

 だけど、還ったところで何がある?

 一つになるということは、独りになるということだ。
 今と変わらず、独りということだ。

 ……変わらない。
 僕にとって何も変わりはしない。
 還っても、還らなくても。
 消しても、消されても、消えても。





 風が、吹いている。風ではない風が。
 頬を撫でて、髪を揺らす。

 どんなに世界が変わっても、風は変わらず吹くんだろうか。
 ずっとここで、吹き続けるんだろうか……。










 ……もう、終わりにしよう。



 還っても、還らなくても、変わらない。
 だけど、このままここにはいられない。

 偽りに満ちた日々をいつまでも続けられはしない。
 最後の時の訪れを遅らせることは出来ても、時計の針自体を止めることは出来ない。

 もう、限界なんだろう。

 「学校」や「友達」という響きの心地よさに酔って、為すべきことを先延ばしにし過ぎた。
 嘘に嘘を重ねて創り上げた「渚カヲル」を演じ過ぎた。
 ヒトと、関わり過ぎた。

 これ以上ここにいても辛いだけ。
 いつかは下りると決まっている幕だ。僕の手で下ろすとしよう。

 この地の底の更に底。闇の果てに終わりがある。
 行こう。全てを終わらせに。

 辿り着いた場所で何を見るのか。何を思うのか。
 今は分からないけれど、答えはきっとそこにある。
 選ぶべき道という、答えが――。















 長い夜が明けて、朝が来た。
 いつものように登校し、いつものようにみんなと話し、いつものように笑ってみせる。今日は昨日の続きでしかな
いかのように。
 いつもと違うのは、彼女の目を見ないでいること、ただそれだけ。何か言いたそうにしていることに気付いていな
がら、気付かないふりをする、ただそれだけ。

 夕方、部屋に戻る。もう独りきりの時間は嫌じゃない。
 いつ行動を起こすかを考える。

 弐号機を連れて行くから、僕を追うのはシンジ君かファーストの役目になる。
 それなら、ヒトであるシンジ君がいい。
 確実に彼の方が先に来てくれるように、本部施設内にシンジ君がいてファーストがいない、そんな瞬間に行動を起
こそう。

 そうだ、最近シンジ君のシンクロ率の伸びがいいから、今度新たな実験をしてみようという話が出ていたな。シン
ジ君と初号機のみでの実験――確かそういうことだったはず。

 部屋を出て、赤木さんの姿を捜す。自動販売機コーナーで休憩しているところを捕まえた。世間話から始めてさり
げなく、実験の日のファーストの予定を尋ねてみる。……何もない、か。

 決まった。その日だ。



 老人達に一応知らせてやる。もう、彼らのことなんてどうでもいいけれど。
 後は特にやることもない。ただその日を待つだけだ。

 普通に学校に通い、普通にネルフでの予定をこなしながら、ただその日を待つ。
 彼女の目を見ないで、物言いたげな素振りにも気付かないふりをして、ただその日を待つ。





 朝が来て、夜が来て、また朝が来て、夜が来て……

 そうして、その日が訪れた。





 学校は休んだ。何も予定が入っていないのに休んだのは初めてだったけれど、さすがに行く気が起きなかったんだ
から仕方ない。
 昼を回り、そろそろシンジ君が来る頃になったので、パイロット用のロッカールームへと続く通路で壁にもたれな
がら彼を待つ。
 ぼんやりしているうちに、頭の中で歌が始まった。

“Freude, schoner Gotterfunken, Tochter aus Elysium,……”

 好んだ歌だけど、今の僕には皮肉過ぎる。止まってほしいのに止まってくれない。
 早く来ないかな、シンジ君。

“……Wollust ward dem Wurm gegeben, und der Cherub steht vor Gott!”

 あぁ、やっと来てくれた。僕の姿を認めて駆け寄ってくる。

「ここにいたんだね! 先に部屋に寄ったんだけどいなかったから、心配したよ……。今日はどうしたのさ? 具合
でも悪かったの?」
「まあね。でももう問題ないよ。……ありがとう」
「よかった、それじゃ明日は学校に来られるんだね?」

 何気ない、確認に近い問い掛けには答えないでおいた。

「ちょっと君の顔を見たかっただけだから、僕はもう行くよ。――また後でね、シンジ君」
「うん、また後で」

 シンジ君は、実験が終わった後でまた会おうという意味に取っただろう。ごく自然な笑顔で応じてくれた。
 僕が歩き出し、彼も歩き出す。別々の方向へと。
 彼の向かう先はロッカールーム。僕の向かう先を、彼は知らない。

 歌はもう止んでいた。



 シンジ君。
 僕が最も親しくしてきた相手。最初に友達になった相手。

『周りは女の子や女の人ばかりで、何だかやりにくかったんだ。君が来てくれてホッとしたよ』

 会って間もない頃、はにかんだように笑いながら、こっそりと打ち明けてくれた。男同士仲良くやろうという話に
なって、名前で呼び合うようになって。
 もしヒトとして生まれていたなら、本当の意味での友達になりたかったな。

 最後の瞬間に立ち会わせるのは、きっと残酷なことだろう。

 ……ごめん。





 独り、歩く。

 弐号機が格納されているケイジ。最近は戦闘がなかったから整備に手を掛ける必要もないらしく、人影は少ない。

 独り、歩く。

 一歩ごとに記憶が蘇る。
 ここで出会った人達。ここで過ごした日々。
 楽しかったこと、嬉しかったこと、寂しかったこと、苦しかったこと……様々な記憶。
 この記憶は僕だけのもの。渚カヲルという名で過ごした時間の、確かな証。
 全て、抱いていこう。この先に何が待っているとしても。何も存在しないとしても。

 独り、歩く。

 ブリッジの真ん中で足を止める。弐号機と向き合う。

 赤い巨人。
 赤。
 ――彼女の、色。


 その姿が鮮やかに脳裏に浮かび、緩やかに胸を締め付ける。


 セカンド。
 惣流さん。
 ……アスカ。

 僕が彼女と出会った意味は、何だったんだろう?

 彼女が消えたら。
 僕が消えたら。
 この想いはどこへ行くんだろう?

 僕を見つめる四つの瞳。
 これは彼女の母親の視線?
 それとも、彼女自身の?

 彼女の瞳。青い瞳。僕をずっと見つめていた瞳。
 僕を見つめ続けていたあの時の彼女は、きっと僕のことだけを考えていた。
 ……あの時の彼女は、僕だけのものだった。

 この先、彼女と会うことはない。彼女が追ってくることは決してない。
 それは僕にとって……救いなんだろうか?



 目を閉じる。埒もない思考を締め出す。目を開く。



 今こそ約束の時。全ての思い出を裏切る時。



「――さあ、行くよ。おいで、アダムの分身。そしてリリンのしもべ」


<Back「有限の日々」目次Next>


【投稿作品の目次】   【HOME】