2003年1月〜6月の日記
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6月28日

 サラウンドなるものについて、私自身はあまり興味がなかった。刷り込みのようなものだが、最初に体験したとき、ニセモノ感が異様に強かったのである。こんなに不自然なら普通にステレオでいいじゃんと思ったのである。

 しかし、世の中を見渡すとサラウンド全盛の感もある。ま、私個人に限って言えばエヴァだけなんだが(苦笑)、こうなってくると無視も出来ない。が、一口にサラウンドといってもやたらと種類があって訳が判らぬ。ドルビーデジタルってのはモノラルでもいいんだってさ。ま、以下サラウンドといったらドルビーデジタル5.1chと解釈していただきたい。

 サラウンドというのは、いわゆるステレオのスピーカーに加えて中央に一つ、後ろに二つ(厳密にはフロント左右から90度開いて置くらしい)で5ch、あと0.1chとしてサブウーハーを使う。低音専用のスピーカーは常に鳴っている訳ではないから0.1扱いでいいらしい。

 最近は6.1chとか7.1chとかあるそうで、規格乱立気味である。いずれは四方八方スピーカーに囲まれることになるのだろうか。そんなバカな、などと笑っている場合ではない。そもそもセンタースピーカーなるものは不要なはずである。スピーカーが二つあって音像がその中央に定位しないなら、それは再生環境に問題がある。まぁそう上手くは行かないから、センターにも置いてビシッと真ん中から聴かせましょうと、こういう話だと思う。だったら上下右左から左右斜め下とか(^^;)、際限なく拡張して行くかもしれない。売る方はその方が儲かるしね。

 音声はディスク上にそれぞれ分離して記録されてるんだそうだ。当たり前でしょ、なんて言ってはいけない。かつてはそうでない時代があったのだ(ドルビーサラウンドっていうのがそう)。記録5.1chとか書いてあったりするのだが、理屈として小数点以下のチャンネルに記録というのは意味不明である。言わんとしていることはわからんでもないが。

 で、恐らくテストトーンとか出しながらスピーカーの位置を追い込んで、どーんと座って聞く(見る)のだと思われる。


 なんかこう書いてると結構面白いかな、なんて気になってくるが、現時点ではサラウンドシステムを導入する気はない。それはなぜかと言えば、サラウンドなDVDソフトはエヴァしかない上に、うちにはDVDプレイヤーが無いからだ(爆)。DVDはパソコンで見ている。さすがにパソコンの周囲をスピーカーで取り囲む気にはなれん。

 ではどうするかというと、やはりヘッドホンであろう。世の中にはドルビーヘッドホンなるものがある。4〜5万する。買えん(泣)。
 泣いていてもはじまらんので冷静に考えてみる。ドルビーヘッドホンとは、要するに普通の部屋でスピーカーで聞いた時に音が空間で合成される様をシミュレートしたものだと思われる。ヘッドホンそのものにスピーカーを複数入れても無駄のような気がするし(実は有効かもしれんが)。
 だとすれば、ソフトウェアプレイヤーにその機能がついていてもおかしくない。というより、ついているべきである。

 調べてみた。まんまとありましたよ。ドルビーヘッドホンモード。で、聞いてみた。


 ……なるほどね。それで?(爆)

 つーか、セリフの不明瞭さはこれでいいのか? 私がヘッドホンに慣れすぎなのか?

 真のサラウンドをまともな環境で体験してみたいと思う今日この頃である。


6月24日

 せっかくバイク小説を書いたので(^^;)、バイクの話でもしてみようと思う。バイクと呼ぶかオートバイと呼ぶか、あるいはモーターサイクルと呼ぶかでその人の立ち位置は分かるのだろうか?(笑)

 私がバイクに興味を持った時代は、確かセパハンとかが解禁された頃で、例えばオイルクーラーは禁止だったがオイルパンとかいう名前で事実上解禁になったり、レーサーレプリカが流行ったりして、それなりにみんな戦闘的ではあったが、同時に牧歌的な時代でもあった。

 私は今でもハーレー等のいわゆるアメリカンバイクには全く興味がないのだが、アメリカンに乗る人に喧嘩を売ろうとは思わない。当たり前である。しかし若いということは恐ろしいことであって、雑誌上に「ここは日本なんだからアメリカンなんか乗るな」などという意見が投書されたりするのである。日本の道路事情にアメリカンはそぐわないとか、それなりに理屈はつけてある。それに対して、「じゃあ、あなた方のはヨーロピアンでヨーロッパじゃないですか」などという反論が掲載されるのである(当時は確かネイキッドという言葉はなかったと思う)。いい時代でしょ(笑)。
 かと思うと、ツーリングしてる時にライダーとすれ違った場合ピースサインを出すべきか否か、などという論争も繰り広げられていた。ピースサインだぜ(笑)。みんな仲間なんだからピースくらいしようぜ、という意見もあれば、走行中はハンドルから手を離すべきではない、という意見もあり、手を離せないなら軽く頷くくらい出来るだろう、などという意見もあったように記憶している。今でもピースってするのかな。
 つまり、比較的バイクに厳しかった時代でもあり、バイクに乗っているというだけで何かしら連帯感を感じていたということなのだと思う。今でいう喫煙者の連帯感みたいなものだろうか(違うか)。私自身も、走っていてタンデムの二人にダブルでピースとかもらって、返しながら妙に嬉しくなったことを憶えている。

 バイクなんて趣味性の高い乗り物なんだから、性能だのスタイルだのに関係なく好きなものに乗ればいいし、ピースだってハイキングとかしてる時に誰かに会ったら挨拶をするかどうかみたいなもんだから、気分が良ければすればいいし、されたら返せばいい。メリットデメリットがあるわけでもなし、論争をするような問題じゃないわな。

 私はレーサーレプリカや2サイクルには興味がなかった。流行ものには逆らうというあまのじゃく的な性格のせいもあるし、速く走ることに興味がなかったわけではないが、見るからに速そうなバイクは私的にはちょっと違ったのである。例えば2サイクルの雄でナナハンキラーと呼ばれたヤマハRZ350などというバイク――これは「見るからに速そうなバイク」ではないが――があるとすると、それを違う性格のバイク、例えば当時でいうとホンダCB250RSあたりで抜きたいと思うのである。知ってる人は分かると思うが、普通に考えればまず無理である。しかしRZ乗りといえども常に全力で走行しているわけではない。流して走っている時もある。そういう時に猛然と襲いかかれば抜けるのである。当たり前である。まぁ私はRSには乗ってなかったし、抜かないで後ろにぴったりつくタイプであった。嫌な奴である(笑)。ただし、RZの後ろにつくとオイルが飛んできてバイクとか服とか汚れるので、なるべく離れていたのであった。

 そもそも私はカウリングだのフェアリングだのという奴が嫌いであった。バイクってのは風を受けて走るもんだぜ、とか思っていたのである。今でもそう思っている。疲れたら休めばいいのである。まぁ何でもいいんだが、そう言うことを考えていくと、当時はこれだと思えるバイクがあまりなかった。今はそれなりに選択肢がなくはないが、ほとんどのバイクにセンタースタンドがなかったりするので、これも嫌である。バイクはセンタースタンドで立っている姿が美しい。趣味とはかようにわがままなものである。


 話はころっと変わる。

 二周年及び10万ヒット記念企画だが、これは基本的に何もやらないことにした。浮かれている場合ではない。こういう時こそ基本に立ち返り、自らを見つめ直すべきなのである。つーか、今からじゃ間にあわねぇ(爆)。20万の時には何かやろうと思う。

 ただし、祝っていただける分には大歓迎なので、お待ちしています。

 おねだりすれば何でも貰えるもんだと思っている今日この頃である(爆)。

 私は上で「基本的には何もやらない」と書いた。基本的には、というのがキモである。これはどういうことかというと、何も知らない子羊が「10万踏みました〜♪」とやって来た場合のことを想定しているのである(爆)。その場合は、その方のリクエストに従って競作をやろうと思う。せっかく来ていただいているお客さんをいじめるのはやめたので、その方にも作品を書けと強要はしない。が、要請はする(爆)。
 しかし気楽に「踏みました♪」的な申告をしたがために、私や投稿作家の方々が一斉に何か書いたらびびるだろうなぁ。なんか楽しそうだな(爆)。競作に限らず、どうしても何かやりたい方、あるいはノーフィアーな方は踏めるよう頑張っていただきたい。出来ることであれば、なるべくリクエストにお応えします。私も自ら10万を踏むべく全力を振り絞る所存であります(笑)。


6月16日

 別に、よしオレも毎日更新してやる、などと誰かに触発されたわけではない(笑)。無理なものは無理。

 話は毎度ループなのだが、二次創作における二次創作であることの必然性、という話がある。平たく言えば、なんでこの話はエヴァFFなのか、という話である。

 必然性というのは甘美な単語で(そうでもないか?)、やっぱり重要かななどと思ったりもする。

 こういう話は「ひとりごと」に書くべきかもしれず、気が向いたら転載(と言うのか)するかもしれないが、過去もしかしたら書くかもと言って書いた例はないので、たぶん書かない。

 オリジナル度の高いエヴァFFがどうこう、という件と関連のあるようなないような微妙な話だが、これはエヴァFFである必然性がない、と誰かが判断したとしても、それはその作品がエヴァFFであっては「ならない」という理由にはならない。エヴァでなくてもいいが、エヴァでもいい。これは「面白ければなんでもいいんだよ」という議論とは異なる。
 拙作「NO END SUMMER」を例に挙げると、客観的に見ればエヴァFFでなければならない理由はない。つまり必然性はない。お互い好きあっていながら何らかの理由で別れてしまった彼と彼女が再会する、というストーリーに過ぎないのだから、紅い瞳をコンタクトで隠すとかそういう部分を省くか置き換えるかすれば、オリジナルとしても成立すると思う。面白いかどうかはともかく。全然例は思い付かないが、全く別のキャラにすればそれのFFとしても成立するかもしれない。
 少なくとも私にとって重要なのは、客観的に見て必然性があるかどうかというよりは、私がどうしたいかにかかっている。つまり「何らかの理由で別れてしまった彼と彼女の再会」を書きたかったのではなく、「何らかの理由で別れてしまったシンジとレイの再会」を書きたかったのである。これは断言するが、仮に客観的に見て必然性がなくても、主観的に見れば必然性があるのである。

 なんでこんな話を急に書くかというと、別にOFFでそう言う話が出たからと言うわけではなく(まぁ出たんだが)、とある小説を読んで、それは私にとってはどう読んでもエヴァFFである必然性は皆無で、シンジもレイも人格は相当異なり、でも面白かったのである。果たしてこの作品が投稿されてきたとしたら私はどう反応するだろうか、と考えてしまったのである。可能性は常にある。戦々恐々としている人がいるかもしれないので書いておくと、その作家の方はここに投稿したことはないし、掲示板に何か書いたこともなく、メールのやり取りをしたこともない。

 「NO END SUMMER」において、私はこういうシンジとレイが書きたいと思い、書いた。その作家の方は、ああいうシンジとレイが書きたいと思い、書いたはずである。必然性のなさでは何ら変わることがない。更に言えば、私は上で「シンジもレイも人格は相当異なり」などと書いたが、どこまでが許容範囲かなんて人それぞれである。私の場合で言えば、ストーリーの進行具合というか、時間軸によっても異なる。レイで言えば、使徒戦の真っ最中なら基本的にかなり本編系である方が好きだが、EOE後であれば甘えんぼ天然ボケ系のかけ離れたキャラが好きである。使徒戦中であっても、甘えんぼ系になる過程が描かれていれば許容範囲に入る。

 それはそれとして(^^;)、そうなると自分にとっての必然性をどう読者にどう伝えるのか、という部分が大事になってくると思うのだが、これは如何ともし難い話ではある。極端な話、私はレイを救いたいと思っているのだが、救っちまったらレイじゃねぇだろ、という議論も当然ありで、ある意味その通りである。となると、レイを救うような話はすべてエヴァFFである必然性はないということになりかねず、私の立場がない。レイを救いたいと思う人だけ読んで下さい、という話にしかならない。

 だとすると、普遍的な必然性などというものは存在しないことになる。そもそもFFを書く必然性なんてどこにもないのだ。
 とまぁここまで言い切ってしまうとやや抵抗があるのだが、無駄なことをするのは楽しいので、そういう意味では必然性があるというか、書いても構わんと思う。

 ただ、読み手が「必然性が感じられないからこの作品は好きじゃない」と言うのは当然あり、と言うよりも当たり前だと思う。エヴァのキャラが出てくれば全てエヴァFFかという議論はとりあえず置いておくが、読み手にそのキャラが出てくる必要を感じさせるというのは、FFだろうがなんだろうが大事なことであって、感じさせることが出来なければその読み手にとってそのキャラは無駄なキャラであり、それが主人公だったりするとその作品はカスだということになる。

 突き詰めると、少なくともそれで喰わねばならぬプロではなくアマチュアであるという前提に立てば、いいんだよオレが書きてえんだから、という事になり、文句があるなら読むな、というオチになる。それはそれでいいのかもしれないが、この結論には抵抗を感じる。
 結論を考えぬままに書き始めるとこういう事になると言う、この日記には非情にありがちな話になってしまうのだが、つまり「文句があるなら読むな」という話と「批判は受け付けない」という話は直結しているように感じられるのだが、批判するなと言う立場には受け入れ難いものがあるのですよ。

 ご意見、お待ちしております。


6月15日

 インターネット全体を見渡してみると、まぁそこそこの頻度でオフ会なるものが行われていて、そのリポートなどというものも書かれたりしている。

 綾展付近でもオフ会というものが希に行われていて、私も顔を出させて頂くことがある。しかし、リポートなるものは――もちろん私が知らないだけかもしれないが――見たことがない。恐らく無いのだと思う。それはなぜかというと、リポートなんて書いてるより小説書いてる方が楽しいわい、というような理由もあるかとは思うが、実は「とりたてて書くようなことなど話していない」という事に尽きるのではなかろうか(爆)。
 しかし改めて振り返ると、当然アホすぎる話もしているが、それなりに示唆に富んだことも話していて、それなりに実にはなるしネタにもなる。しかし示唆に富んだ話というのは文章にはし難く、それなりに微妙ではある。

 私もそうだったので腰の引ける気持ちは良く分かるし、実際の話、顔を出したからどうだと言うこともなく、出さないからどうだと言うこともこれまたないので、はっきり言えばどうでもいいと思うのだが、得難い経験であることは間違いない。いったいオレはこんな集団の中で何をやっているのかと目を醒ましてすっかり解脱できるかもしれないし、ますます深みにはまるかもしれない。それはその人次第としか言いようがないのだが、まぁ興味があれば、って感じですか。

 ちょっと話に出たので触れておくが、私は綾展関係者ではない。綾展関係者というのはスタッフのことを指していると考えるのが妥当であって、私はスタッフではない。では綾展界隈にいるかというと、それも違うと思う。私の思う綾展界隈とは協賛サイトのことであって、ここは協賛していない。
 では何かというと、綾展界隈の周辺にいる、あたりがいい線なのではないだろうか。だからどうとかいう意味はないし、どうでもいいんだけど。要するに畏れ多いのよね。

 『「萌え」とはそもそも、八十年代末に生まれた言葉で、コミック、アニメ、ゲームなどのキャラクター、あるいはアイドルなどに向けられた虚構的な欲望を意味していたと言われている』というのは東浩紀の言葉である。
 「歴史的にはともかく今は拡散が進んでいて、抽象的・理念的な面を持ち、その言葉が指すのは対象となるキャラの特徴と内面性から得られる感動、なんだそうだ。性的要素は漂白されていてもいいと。」
 というのは2002年 5月〜 6月の日記の6/16日分からの引用。一年も同じようなことを考えていることになる(^^;)。進歩したいものだ。
 しかし実際、萌えとロリの関連やら、「可愛い」や「フェチ」との相違を考えるのはそれなりに楽しかったりもするが、特に意味はないし不毛でもある。某氏の言葉を借りれば「拡散された概念」なので、時代と共に移り変わるというのが正解であろう。

 「萌え」の語源については、「恐竜惑星」の「鷺沢萌」説が有力だそうだが、「太陽にスマッシュ」の「高津萌」説、「セーラームーン説」、「ときめきメモリアル説」などがあるようだ。全然わかんないっす。


6月6日

 今日は碇シンジ君の誕生日ではなかろうか。おめでとう。君は綾波と扱いが違いすぎるじゃないかと憤っているかもしれないが、それは許してくれ。彼女は女の子だからね。

 というのは、一年前の日記のコピペである(爆)。一年なんて早いような遅いような不思議な年月であって、約一年と一ヶ月前に一万ヒットだったようだ。「Yesterday, Today And Tomorrow」を書いたのも一年前。もっとずっとずっと前の事のような気がする。反面、今のサーバに越してきてからも約一年なのだが、これはつい最近のように思える。お金を振り込まねばならぬ。DVDも出るというのに、難儀な事だ。

 あと二ヶ月と少しで開設二周年になる。これは、もう二年という気持ちとまだ二年という気持ちが半々かな。今ここがこうしてこういう形で在るのは間違いなく私の力ではないわけで、皆様には深く感謝申し上げたい。今後ともよろしくお願いします。
 で、二周年。ほぼ同じようなタイミングで10万ヒットに辿り着きそうである。これはまさに盆と正月が一緒に来たようなもので、というフレーズは使った覚えがある。で、検索(笑)。

「もし2万ヒットと1周年が同時に訪れたらどうしよう、盆と正月が同時に来たようなもんだからなー、などとあらぬ心配をしていたが、どうやら杞憂に終わりそうで」
 というのが引っかかった。なるほど。去年の八月には2万行ってなかったわけだ。仮に今年の八月に10万行くとすると、一年目で2万、二年目で8万ヒットということになる。このペースで増えるすると、三年目はプラス32万か、あるいはプラス512万ということになるのだが(爆)。そんなことはいいから小説書けって。すいません。

 まぁ多少のずれはあると思うが、二周年+10万、何かやりたい。基本に立ち返って独りで何か書くという手もある。エロか?(爆)

 あんまりゆっくり考えてる暇もないのでなるべく早めに考えたいが、やっぱ競作なのかなあ。芸がないような気もするが。しかし10万踏みましたーって人が出てくるかどうか、非常に楽しみだ。るんるん(爆死)。

 そういうこと(どういうことだろうか)なのでシンジ君、綾波さんをよろしく頼む。


5月29日

ドライブを認識しなくなるの巻

 ここでいうドライブとは、CD-ROM/CD-R―中略―DVD-RWドライブのことである。認識しなくなったのである。

 最初に買ったCD-Rドライブに付属していたという理由でずーっと使っているライティングソフトがある。慣れという理由が大きいのだが、特に不満なく使えていた。が、バージョンが上がってちょっと雰囲気が変わった。雰囲気が変わっただけで何ら支障はないのだが、ふと別のソフトも試してみっかと思った。

 で、とあるライティングソフトお試し版をインストールして、ちょっと使ってやっぱなんか違うかなと思ってアンインストールした。
 従来使っていたソフトで書き込もうとすると、CDRを入れろと言われた。当然入れてある。入れ直してみる。ダメである。普通の、というか、データの入った生じゃないディスクを入れてみる。ダメである。お試し版をアンインストールした時に、何かドライバを道連れに削除したのだろうか。

 ソフトを終了してエクスプローラで見てみる。ドライブがいない。ということは、とりあえずライティングソフトの問題ではなかろう。デバイスマネージャで見てみると、「!」がついている。なるほどね。
 じゃあドライバの再インストールだな、ということでドライブに付属して来たドライバのCDを出して来たところで戦慄した。現在、このパソコンにはこれしかCDドライブはない。別パソコンにはSCSIでつながってるドライブがあるにはある。最悪これを外してつなぐか、ネットワークインストールでもすることになるのか。ここで当然の疑問がわく。CD-ROMドライブのドライバをCDで供給するなどというのは理不尽ではないか。
 マニュアルを捜し出してFAQを見てみる。あったあった。本機を全く認識しない場合。……デバイスマネージャを開いて「!」がついていない事を確認して下さい……。確認したよ。ついてるんだけど。「!」が。それで、ついてたらどーするんだよ。それを書けよ。私は一瞬にして炎上した。こう見えて短気なのである。
 しかしこの手のインストールマニュアルって、こういうのが多くないすか? あれこれをして、表示がこうなっていることを確認します、っての。だからこうなってなかったらどーすんだっての。

 マニュアルを最初から読む。Win2000ではOS標準ドライバでCD-ROM/DVDドライブとして認識するらしい。なるほど。つまりOSが飛んだということか? まぁCD-ROMドライブとしてはCDからドライバを入れなくても大丈夫そうだ。
 とりあえずデバイスマネージャからデバイスを削除してパソコンを終了する。ドライブの電源を切って物理的に外す。

 ちなみにこのドライブはi.LINK接続、Apple風に言えばFireWire接続である。こいつをつなぐときはパソコンとドライブの電源を入れた状態でケーブルをぶっ挿せってのがどうにも気に入らない。しかし今更SCSIというのも難しい。
 去年くらいだったか、SCSIのHDを買いに行ったことがある。その店は外箱のみ陳列していて、それをレジに持って行くと中身入りを出してくれるという店であった。まぁ万引き防止である。で、外箱を持ってレジに行ったところ、少々お待ち下さいで20分も待たされたあげく在庫切れですと言われてこっちもぶち切れたことがあった。じゃあ陳列してあったこの外箱は何だボケが。棚にはあと2〜3個はあったぞ。同じ箱が。その店にはそれ以来行っていない。
 そうすると残りはUSBだが、あれはキーボードとかマウスとかをつなぐもんでしょ。ADBのマネなんだから。どうせマネするならちゃんとコントローラ積んでキーボードから起動なりリセットなり出来るようにして頂きたいものだと思うのだがどうか?

 話を戻す。で、再起動。

 ぼーっと起動するのを待っているとドライバをインストールしたから再起動しなはれと言われる。ドライブをつなぐかどうか迷うが、つながないでおとなしく言われたとおりに従うことにする。唯々諾々。
 で、起動する。ドライブをつないでみる。ここで何か言われたかどうかは忘れた。とりあえず認識しない。困惑した私はライティングソフトもアンインストールし、いちいちデバイスを削除しながらドライブをつないだり外したり順列組み合わせを試しつつ再起動を繰り返す。

 結果的に全部ダメである。

 ネットにつないでドライブメーカーのページを見てみる。特にこれと言った記述はない。OME供給元のサイトも見てみる。何も書いてない。ライティングソフトのページも見てみる。何やらaspiドライバが入っているとダメな場合があるらしい。そんなものをインストールした憶えはない。しかもWin2000では使用中のaspiドライバを確認する方法はありませんときたもんだ。とりあえずページの記述に従って判明しているファイルを検索してみる。果たして発見された。これ、何が使ってるんだろ。とりあえず拡張子をリネーム。ページには、それでもダメな場合はaspiで検索かけてこれこれ以外はリネームかデスクトップに退避とか書いてある。それでもだめな場合は、などと悠長なことやってられっか。毒を食らわば皿まで。これも検索するとまんまと出て来たのでリネーム。

 で、デバイスを削除して再起動。ダメ。前述と同様に順列組み合わせで再起動の山嵐。何をやってもダメなものはダメ。

 こういう場合、安易にOS再インストールだね、などという輩がいるが、そんなことは言われなくても分かっているのである。できればそれを避けたいから戦っているのだ。再インストールしてパッチ落として来て当てて設定し直して……、なんて気が遠くなるわ。そもそもCD-ROMドライブが動かないのでは再インストールも出来ないではないか。

 とりあえずコーヒーなどいれて落ち着いてみる。ネットにつないで検索をかける。「ドライブ+認識しない」あたりでは死ぬほどヒットする。何で絞り込んだのか忘れたが、それでも大量にヒットするページを丹念に見て行って、ようやくそれらしい記述を見つけた。これこれというライティングソフトをアンインストールするとドライバをロード出来なくなる場合がある。詳細と対処法はMSのこのページを見ろ。症状はぴったり。これか? 私がアンインストールしたソフトはこれこれとは違うが、まぁ見てもいいだろう。で、クリック。このページは移動しました、見たいなのが出て、英語のページに飛ばされる。飛んだ先もやっぱりMSのページのようだが、何か間違えたか? 再度挑戦。当然ながら同じことの繰り返しである。クリック先はjpだし、そもそもこのページは移動、というのは思いっきり日本語で書いてある。じゃあ何か? 日本語のページをわざわざ削除したということか? なめてんのか? 完全に逆上した私は思いっきりテイクダウンを奪ってマウントパンチから逆十字で腕をへし折り、さらにバックに回ってチョークスリーパーで締め落としたのだが、実際にはパソコンにもサイトにも腕も喉もない。さすがの私も寒くなって来たので、おとなしく英文を読む。レジストリのあれとこれを削除しろと書いてあるらしい。やってやる。で、再起動。あっさりと認識されました。ま、こんなもんだ。削除したライティングソフトを再インストールして、無事動作を確認。

 これに関する所要時間は聞くな(爆)。

 CDとDVD関連のソフトは一通り試したが、全て問題なく動いた。前述のaspiドライバはリネームしたまんま。何だったのだろうか。何でもドライブを認識するためのものらしいが、こういう意味不明なドライバ、まだいくつも入ってるんだろうなぁ……。

 おしまい。


5月28日

 軽く自分の日記を検索したりしたのだが、「死ぬまで生きる」というフレーズが頻出している。まぁそういうことなのだが(何がそうなんだか自分でも分からん)。

 人は生まれてきて、いつか死ぬことを運命づけられている。いつかは必ず死ぬ。であるならば、なぜいま死んではならないのかという問いに対して論理的に答えるのは難しい。君が死ぬと僕は悲しい、と言うことはできる。しかしそれは、その問いに対する有効な解答ではないと思う。
 いつかは必ず死ぬのだから、そう焦って死ぬこともあるまい。生きているうちにやりたいことは全部やって、それから死ねばいい。死後の世界を仮定したとしても、生きてるうちに出来る事が死んでからも出来るとは限らないのだから。と言ったとすると、やりたい事は全部やりましたとなれば、じゃあ元気に死になさいという話になる。本当に全部やったのかと問う事は出来るが。

 私ももういい加減いい歳なので一般論としてそう珍しい話でもないのだが、数年前に友人を亡くした。エヴァにハマる前の話だ。葬式の時は泣いたが、はっきり言って全く実感がなかった。今でもない。どっかで読んだような話だなと思っても、軽くスルーして頂きたい。私とて補完されたい時はあるのだよ。
 誰かが死ぬ、という事を受け止めるのは難しい。少なくとも私にはそういう覚悟はない。ガンダムでリュウが死んだ時にテレビの前で泣いて、泣きながらオレってバカだなと思ったりしたが、例えば自作の小説で誰かが死んだとして、それを登場人物がどう受け止めるのか想像できない。だから、と言うわけでもないのだろうか、なかなか殺せない。
 とかなんとか言いながら、大藪晴彦氏の小説で人が虫けらのごとく死んでいくのは全然平気、と言うよりある種のカタルシスを感じたりもするので、全くもって一貫性ゼロである。人の心は、それが自分の心であっても理解しがたい物である。いわんや他人をは。使い方と字はあってるか?
 まぁこういう文章を書ける程度には受け止められるようになったということか。

 加藤大治郎というGPライダーがいた。先月6日にレース中の事故で意識不明の重体になり、同20日に亡くなられた。お別れの会が今月の18日にあった。
 悲観的な情報はあったが、意識不明なまま一週間が過ぎた頃には、間違いなく生還すると思っていた。もう山は過ぎた、あとは還ってくるだけだと。
 個人的な知り合いではなく、守るものさえあった彼の死について、私はこれ以上書く事が出来ない。冥福を祈ってもいいのかどうかすら迷う。

 ただ、こっちはこっちで頑張るからまぁそのうち会おうと、先に逝ってしまった私の友人には言えるのかなと思う。加藤さんも、もし良かったらいずれバイクの上手な乗り方教えて下さい。どうやったらスムースにバンクさせられるのか、どうもよく分からないんですよね。


5月20日

 これだけ間隔があくと、たかだか自サイトの日記と言えどもそれなりに敷居は高く、なんかまともなことを書かないといかんのではないか、などという気分になり、ますます書くのが難しくなる。ましてや、ひそかに楽しみにしてます、などという声が聞こえたりした日には呼吸まで困難になり、だらだらと脂汗を流しながらパソコンの前で苦悶することになる。

 そもそもこの日記というのは、掲示板もなく小説の更新も多くて二カ月に一回、投稿小説もない、という状況下でも、私は何とか生きていますということを示すためのコンテンツであった。だから内容などどうでもよく、週に一回でも更新されていれば良かったのである。
 いつしか時は流れ、今では作品の投稿などもそれなりにしていただけるし、掲示板もあってそこそこ書き込みしていただいている。この掲示板、あればあったで閑散としていると寂しいし、レスだけでもあれなので、何かネタをさがして適当に書いたりする。私は本来レス型の人間なので、新規に話題を出すのは得意ではないのだ。つまりネタは掲示板で消費しつくしてしまい、ますます大量の脂汗を流しつつ、これだけ汗をかけば多少は体重も減るか? などと、いくらなんでもこんなことは思わないようなことをさも思ったように書きつつ、虚無的になって日記を閉じ、書きかけの小説を開いたりするのである。

 これだけ意味のない文章を書いておけば、帰る人は帰ったであろう(笑)。

 競作企画について触れておこうと思う。企画前後に思ったことはコンテンツ内に全部書いて、それに嘘いつわりはない。私が本当に嬉しかったのは、この企画をきっかけにして初めて小説を書いたという方が、何名かいらっしゃったことである。中には、これで初めてだってんならオレの立場はどうなる? と思わせるような素晴らしい作品を送り付け、いや、送って下さった方もおられ、全身が硬直してしまうのである。無論、パトスしかないという方もおられるのだが、例えば技術しかなければそこにあるのは技巧だけで(当たり前だ)、これは空虚である。しかしパトスがあれば、そこにパトスがあるのは伝わってくる。よりよくパトスを伝えるために技術が必要なのだが、それは努力によって克服出来ると信じる。
 逆に、技術があっても何も伝えるものがなく、この技術を使うために何か伝えるものを捜す、というのは話が逆である。音楽でも、おそらく絵画でもそうだと思うが、技術にもてあそばれているとろくなことはない。あり余る技術を持っていながら何も伝えることがない、というのは悲劇である。技術をもてあそばなければならないのである。

 話が大幅にずれたが、この企画をきっかけに小説を書く気になっていただけたのなら、あるいは丁度いいから送って見るか、という気になっていただけたのなら、これは本当に嬉しい。年がら年中競作を開催しているわけには行かないが、競作も追加作品は募集中であるし、普通の投稿作品もいつでも募集中なので、投稿規定をお読みのうえで臆せず送っていただきたいと、かように考えている。パトスしかない作品については、僭越ではございますが、出来る範囲で助言申し上げます。技術しかない作品は容赦なくボツにしますけどね。

 なんにせよ、作品の出来不出来とはかかわりなく、いくらなんでもこれは納得できんという作品を掲載する気はなくて、これは私の個人サイトであるから御了承いただきたい。しかし例えば、これはこうすれば良くなるのではないだろうか、という部分について指摘するのはなかなか難しい。つまり突き詰めるとアイディアだけもらった私の作品になってしまうからである。こういうのをオーバープロデュースという。作品は作家のもの(あるいは読者のもの)であって、決して編集人のものではないのである。

 急に話は変わるが、最近、この「編集人」というのが気に入っている。管理人でもいいのだが、これだとあたかも綾波レイの幸せを管理しているかのようで気に入らないのである。幸せは管理されるようなものではない。余計なお世話である。これ、前にも書いたな。掲示板かな。

 またも話は変わるが、先日投稿をさせていただいた。自分でサイトを持っていようが何しようが、投稿作品が掲載されるのは非常に嬉しいものである。管理人(あるいは編集人。まぁ何でもいい)氏のコメントなどいただこうものなら、数十センチは宙に浮いている状態である。

 私が最初にどこに投稿しようかと考えたときに、管理人氏のコメントがいただける所にしたいと思った。つまり、ただ作品を載せているだけという所は避けたかったのである。そういうサイトも意味はあると思うが、私にはそういうサイトに投稿する自信はなかった。いまでもそんな自信はない。

 しかしいざ自分でコメントをつけるとなると、これは非常に勇気がいる。作品の末尾につけるとなると、これは下手を打つと作品を汚すことになる。自分がつけてもらう分には全く何でもOKで、コメントを付けていただいたものをダウンロードして保存してあるくらいなものなのだが、誰しもが私と同じように感じるという保証はない。もっと言うと、せっかく頂いた作品には極力手を入れたくないのである。本当はリンクも入れたくないくらいだが、さすがにそういうわけにもいかない。

 なので、インデックスにコメントを書いているのだが、これはこれで苦悶するのである。つまり、インデックスに書かれている以上、作品を読む前にコメントを読むことになるので、下手なネタバレはできないのである。こんなことなら本文中に書くようにした方が良かったかいななどと思ったりもするが、いまさら方向転換するのもいかがなものか、というか、インデックスには何か書かなければまずいでしょう。タイトルだけじゃなんだかわかんないし。

 なんだか愚痴を書いているようで申し訳なく、しかし実際に愚痴を書いているような気が濃厚にするのだが、そういうことで、競作のコメントは原則として作者の方に自ら書いて頂いた。まぁ競作だからこういうのもいいでしょう。

 例によって自分でも何を書いているのか分からなくなっているのでこの辺で終わるが、何となく日記ネタはあるので、まぁあんまり間隔をあけずに書いて行きたいと思う。思うだけは(^^;)。要するに一日の時間が決定的に短いのよね。ちなみに今は帰りの電車の中ね。


 最後に私の今後のロードマップだが、短編を二本書いている。どっちも投稿する予定だが、内一本は少し寝かせておくかもしれない。それとは別にもう一本、ちょっと大きめのサイトに投稿しようかどうしようか迷っているのがある。これは数週間で書けなければお蔵入りになるはずで、つまりほぼ書かないであろう(なんだそれは)。それから、文章の書き方講座みたいなのを書こうと思っている。大したことが書けるはずもなく、自分でも笑止だということは良くわかっているのだが、まぁ全く文章を書いたことのない人には多少の助けにはなるかもしれない。平行して連載の再開である。これだけ間隔があくと、連載モードに入るためには過去作を思いっきり読み直さなければならず、あまりの下手さに耐え切れない。つーか、誤字多すぎ。なので、読み返しがてらひそかに修正しつつ続きを書いて行きたいと思っている。まぁ気の長い話だが、よろしくお付き合いのほどお願い致します。


3月30日

 誕生日おめでとう。

 今になっても、君や君の仲間のことを気にかけている人がこんなにもたくさんいるということを、僕は改めて知った。それは君にとっては関係のないことだろうし、あるいは迷惑なことかもしれない。
 僕を含め、たくさんの人たちが君のことを想い、色々なことをしている。でも結局それは君のためではなく、自分自身のための独りよがりにすぎないのだろう。だから、僕たちがいくつかのことを犠牲にして君のことを想っているということを、君が理解する必要はないし、感謝して欲しいとも思わない。
 僕たちが君にしてあげられることは、恐らく何もない。君の事を想うことが、君のためになるとは思えない。でも少なくとも僕は、君の事を想うことで、そして君を通していくつもの重要なことを学んだと思っている。それは恐らく、君に出会わなければ気づかなかった事だ。僕は君に何もしてあげられないけれど、君は僕に大切なことを教えてくれた。

 だから今日、僕は君に、ありがとう、と言いたいと思う。


3月19日

 まさに開戦前夜。

 このページでは政治については書かないことにしているのだが、やっぱり書いておくべきだと思うので書いてしまおう。

 問題解決の最終手段として軍事力を用いる権利は、放棄するべきではないと思う。ある国が他国に一方的に侵略された場合や、たとえ国内でも、例えば少数民族に対して核やBC兵器を用いた場合は、しかるべき決議を経た後に軍事介入するべきだと考える。
 それを踏まえた上で、現時点ではまだ武力行使以外にも有効な手段がある。

 なので。


現時点では戦争反対

http://chocolateshop.m78.com/
リンクフリーなのかどうか良く分からないので直書き。


 日本が米国に追従しなければならないのは、米国に守ってもらわないといけないからである、という発言が、政府の中核からも聞かれるようになった。これは容易く「じゃあ日本もより強固な防衛力を持ちましょう」という文脈に直結する。これには注意するべきだと思う。日本が強固な防衛力を持つべきかどうかという判断は差し控えるが、このままなし崩し的に世論が盛り上がるのはまずいと思う。さすがにないと思うけどね。


3月5日

 三月に入りましたが、ファイルのローテーションはいたしません(^^;)。


 声優の井上瑤さんが亡くなられたそうです。まだ若いのに。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030305-00000012-ykf-ent

 イデオンのフォルモッサ・シェリルの方はいまひとつ思い出せませんが、ガンダムのセイラさんは忘れるはずもありません。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 作家の生島次郎さんも亡くなられたそうです。ご冥福を。


 話は変わりますが、こういう気分が暗澹としてきた時や、やたらとストレスがたまる時、私は本を買うという行動に出ます。女の子がストレス解消に買い物に行くみたいなもんです。皆さん、本は読んでますか? 本は読んだ方がいいです。特に文章を書こうと思ってる人は。

 ストレス解消型で本を買う場合、下に書いてあるような出戻り本の場合もあるが、タイトル買いもする。その場合は、当然ながら100円以上は出せない。ほとんどは外れだが(^^;)、中には面白いのもある。そうすると次は新刊で買ったりするので、その意味では古本屋もそれなりに貢献していると、言えばいえる。功罪相半ばといったところか。
 まぁでも、何らかの形で作者に還元する仕組みがあるといいんだろうなぁ。JASRACみたいなのも、一つの手ではあるかなと。


2月22日

 以前、「やむを得ず古本屋に叩き売った本が、何年かすると何故か戻ってくる」などと書いた事があったが、二冊ほど戻って来た(^^;)。出て行ったときは文庫だったはずだが、一冊はハードカバーとなって帰ってきた。不思議だ。いくらで売ったかは忘れたが、100円だったのでまぁ良し。もう一冊は新刊で帰って来たのだった。こうやって絶版になった本が再刊されるのは嬉しいのだが、出来れば当時の解説も同時に載せていただきたいものである。初版時の後書き、なんてのは載ってるんだから。こんなところでレアにしてもしょうがないっしょ。


 こんな所で書くのもあれなのですが、先日red moonのatuさんから投稿作品をいただきました。投稿作品の紹介文を考えるのは非常に悩ましい作業であって、特にこの手の話の場合、下手に内容に触れると興醒めになりかねないと思うのです。それであのような紹介文になったのですが、red moonの2月21日付けの「NEWS」によると、実体験は風邪をひいたということだけであって、綾波さんとキスをしたなどということは現実にはないそうです。なので、綾波さんとキスをしたという部分に関しては妄想はしたが現実にはなかったという事を強調しておきます。お詫びも訂正もしませんが(爆)。


 さて、atuさんはうちの「お花見」企画に投稿していただけるそうで、ありがたい限りである。
 red moonさんでも企画が立ち上がるようで、私も参加する事になっている。あくまでも予定である。万一、お花見企画に投稿して頂けないというような事態になった場合は、私も参加しない。と、脅迫しておこう(^^;)。

 ちなみにテーマは「鋼鉄2」を予想しよう、みたいな感じなんで、ぜひ「お花見」ともどもよろしくご参加ください。


 この日記はスタイルシートで1.5行改行にしているのだが、フォント指定でサイズをでかくしても改行幅は追従してこないのね。なので一部2行改行にしました。意外とめんどくさい。


2月19日

 バレンタインデーなど何事もなく通過し、日記の注目度も落ちるところまで落ちたと思われる今日この頃。

 春眠暁を覚えず、などという言葉がありまして、私の住んでいる地方はまだまだ寒いのですが、最近異様に眠いです。帰りの電車の中でPDAなど開くと即座に激しい睡魔に襲われ、爆睡。家に帰って飯食って風呂入って爆睡。普段なら何だかんだ起きててあれしたり、朝早めに起きてあれこれしたりするのですが、全く無理。会社に行く電車の中で爆睡し、会社に着いたら着いたでまた爆睡(爆)。いや、さすがにこれは嘘ですが。
 この時期、花粉の影響で目をあけているのが辛いです。なので目を閉じているとついつい眠ってしまったりする事もあったりなかったりするのですが、この眠さはそれとは違いまして、ほんとに眠いのです。なんでだろ。老化とは違うような気もするんだけどなぁ。

 さて、なし崩し的に(^^;)競作企画が立ち上がりました。こういうのを機会に、経験のない方も書いてみるとよろしいでしょう。誰でも初めての時はあります。なんでしたら匿名でも受け付けますし、何だか良く分からんものが出来たがこれをなんとかしてくれ、という方には徹底的に筆入れさせていただきます。私で良ければ(^^;)。ただし、その場合はメールでやり取りをしないとならず、ある程度早めに原稿をいただかないと発表に間に合わない可能性があるので、その点はよろしくお願いします。あ、規定は後日ちゃんと発表しますが18禁物は不可ですので、よろしくです。

 ちなみに3/30はレイたんの誕生日。


2月5日

 あるいは言葉が少し違ったかもしれないが、生き抜くことは冒険だよ、と言ったのは植村直巳氏だったと思う。あるいは長谷川恒男氏だったかもしれない。

 冒険だろうが何だろうが、なるべくなら生きていた方がいい。霊魂の存在を信じていたとしても、いつかは必ず死ぬ以上、無駄に死ぬのは無意味だし、神、あるいは偶然に与えられた命を無闇と粗末に扱うのは、単純にもったいない。

 だから死なないために、生きて行くために、出来ることは全てやっておくべきだと思う。ただし、命を懸けて何かをするという権利は留保しておきたい。結局は自分の命だから。生きるということは命を懸けているということ、つまり冒険なのだと思う。

 スペースシャトルの事故によって、人命が失われた。スペースシャトルの事故率は飛行機の一万倍だという記事がどこかに載っていたが、そういう比較は間違っている。彼らは命を懸けて冒険に出たのだ。
 検証は今後詳しくなされると思うが、仮にやれることは全てやっていたとしよう。だとすれば、残念だがやむを得ない、と思うべきなのだろう。無論、私が当事者であれば、そんなことを言う奴は問答無用でぶん殴る。やむを得ないで済まされてたまるか、と。
 それでも宇宙開発は止めてはならないと、個人的には考えている。
 とあるノーベル賞受賞者が「それはどんなことに役立つのですか」と聞かれ、「何の役にも立ちません」と即答したという。聞く方もどうかと思うが、こう答えられるのはすごい。相当自信がなければ、こんなこと言えるものではない(宇宙開発は直接的に役に立つと思うが)。

 つまり、人間はそのように作られているのだろう。

 七人の人命が失われた。それは重く受け止めるべきだと思う。ただし一方では、毎日のように名もなき人々の命が、本人には何の覚悟もなく失われていることを忘れてはならない。無念の死。例えば交通事故で。飢餓で。あるいは空爆で。

 あのアメリカとこのアメリカ。同じ国だとは思えないのですよ。


1月28日

 歳を取るということは、色々な形で受け取って来た恩義の総量が大きくなっているということである。様々な形の恩は、今でも変わらずに受け取り続けているわけだが。
 で、受け取った恩義がそれなりに大きくなったとき、それを全て自分の中にためこんでおくと太る一方なので、何らかの形で掃き出さなければならない。具体的には、いわゆる「恩を返す」ってことになる。

 例えば自分が親から受けた恩を子に返す。直接親に返してもいい。今回は“親の面倒は見なければならない”的な話をするつもりではないので、全然関係のない第三者に返してもいい。そもそも受けたものを返すのであるから、この“返す”という行為に見返りを期待するのは間違っている。
 私には子供がいない、などと言うと、老後はどうすんの、という声があったりするが、子供に自分の老後の面倒を期待するのは間違いであろうと思う。まぁ私は親の面倒は見なあかんかなとは思っているが、それとこれとは話が別で、自分がそう思うから子供もそう思うべきであるという期待はするべきではないし、だいたいそんなことを言ってたら一生独身の人はどうしようもないじゃないか。だから福祉っていうのは大事なのです。人は誰しも老いて行くのだから。

 私はまだ生物学的な意味での寿命を向かえる歳ではないが、ある瞬間に突然死ぬ可能性は、私に限らず誰にでも一定の確率でありうる。例えば交通事故とか。死ぬときにはあれやこれやを処分しないといかんなぁと常々思っているのだが、交通事故とかで急に死ぬと、そういった類いのブツを処分することは出来ない。これは困る。生き恥ならぬ死に恥を晒すことになる。だから死ねない。死に恥という小説を書いたのは、かんべむさしだったかな。あれやこれやのブツを遺族が見てどう思うかを考えると既に発狂寸前になるが、今はまだ生きているので処分はしたくないのである。生きるということは、この一点のみを取っても、かように難しいことなのである。

 虎は死して皮を残す、あるいは、虎は死して皮を留め人は死して名を残す、などと言うが、私が死んだら何か残るだろうか。まさか名は残らんだろうな。作品が残る、などと思ったら大間違いで、サーバ契約期間が満了して振り込みがなされなければ、即削除されるであろう。何人かの方はローカルなハードディスクに保存して下さっているのではないかと期待するが、それとていつまでも残っているわけではない。
 無料ホームページなどに入れておけば少しは持つかもしれないが(うちのミラー、ちゃんとしとかないとなぁ)、それとていつまでもというわけにはいかない。
 歴史的に見ても、大多数の人は記憶以外の何も残さずに時間の流れに埋没してゆく。そして記憶はいつか失われる。

 そうなると、あとは遺伝子に頼ることになる。子供がいないと言っても悲観的になる必要はない。親が同じであれば、その兄弟は遺伝子の半分を共有している。いとこなら1/8。直接の子供でなくても、自分の遺伝子の一部は残るのである。つまり竹内久美子の読み過ぎなのだが(^^;)、まぁ少なくとも読み物としてはおもろいので、いいのではないだろうか。

 個人的には何かを残したいという意志はあまりなく、あとは野となれ山となれ、である。自分が、あるいは人間が生きたという証しを、いわばヴァーチャルな形で残しておいてもしょーもないかなと思う。忘れてくれればそれでよい。遺伝子の意志など知ったことではない。死んだらそれでお終い、勝手にやってくれ。どうせこっちはしょせん遺伝子の乗り物にすぎねぇんだ。と、これも竹内女史の読み過ぎ。

 この日記というのは、ちょっとした隙を突いて書いているのだが、実は隙なんてなかった、ということもままある。今日の日記は、なんと三日にわたって書いている。既に日記ではなく、コラムである(と言うほどまとまった事は書いてないが)。更に言うと、何を言おうと思って書き出したのかすら憶えていないのである(爆)。俺はアホか? これは老化のはじまりだろうか。
 とか書きながら、今回も曖昧に日記を終えるのであった。atuさんを見習わないといかんな。


1月19日

 綾波展の方もなんとかなりそうで、とりあえず良かった良かった。

 で、例のリニューアルDVDの話。テストタイプの予約が開始されたそうだ。発売は3月下旬。とりあえず予約するつもりは無い。普通に店で買う。
 つーか、NewTypeの2月号、御覧になりました? 庵野さんてば、自分の作品をチェックするまでは片チャン出てなくても気づかなかったそうですよ。これってどうなのよ。よっぽど左右のスピーカーが接近してるのかな。でなければマジで耳がやばいか。いずれにせよ、私の購買意欲は著しく減退いたしました。はい。

 私は「例の〜」という書き方を結構すると思うのだが、いちいち「レイの」と変換される。これは相当うっとおしい。が、FFを書いている時に「例の」と変換されるのも困る。別に困らんか(^^;)。

 古本屋にふらふらと行って見ると、見たことのないアンソロ本があって、ふらふらと買ってしまう。普通に出回ってる本はたいがい買い尽くしてしまっていて、見た事のないものを発見するのは珍しい。ま、真剣に漁っているわけではないが。
 絵、特に漫画形式になるとこれは書き手にとって厳しいものがあると思う。文章を書くだけでも(ネームに相当すると思う)こりゃあレイじゃないなーとか思うのに、それに絵が加わると更にハードルが上がる。と思ったが、絵がレイだと、それに引きずられて、内容が多少レイっぽくなくてもレイらしく思えるかもしれない。逆に内容がレイでも絵が違うと厳しいと思う。
 何をするにしても難しいということか。


1月8日

 本日午前中あたりに44,444を通過したはずだが、今のところ誰からも申告はない。私も狙っていたのだが(^^;)、踏めなかった。ということで、44,444記念企画は無しということになりそうである。前回の企画は楽しかったが、そうそう企画に力を注いでいられないし、今書いてる奴をお題に、などと邪悪な事を考えていたので、それはそれで一安心である。
 しかしこのくらいの桁数は最も危険で、すぐに45,678が来る。あれよあれよと5万が来て、5並びが来て、56,789だ。踏んで申告していただければ企画を考えるが、申告者には問答無用で生贄になって頂くので、そのつもりで申告していただきたい(脅)。企画を望まなければ申告していただいてもおめでとーと言うだけなので害はない(笑)。
 ちなみに5万ヒット物はなんとしても書き上げる所存であるが、5万ヒットには絶対に間に合わない。ついでに書いておくと、連載の再開も3月くらいになりそうである。俺は何をやっているのだろうか?


1月7日

 もう七日になってしまいましたが、あけましておめでとうございます。

 今年は特に頑張ります、という事はなくて、例年のごとく(と言うほどには長くやってないが)まったりとやって行きますので、ひとつまったりとお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。

 さて、年明け早々にひいた風邪をまだ引きずっているわけだが、年末年始に見た二つの夢の事を書いてみたい。初夢ではないし、同時に見た夢でもないが。

 私は長野の奥の方で一人暮らしをしている。学生の頃に住んでいた寮に似ていなくもない部屋である。そこへ、私の知る限りではエヴァの罠にはまっている人の中では最も男前、若い頃はジャニーズにでもいたのではないかと思われるような某氏が現れるのである。エヴァ本を大量に持って。確か、地方の古本屋はレアな本が沢山ありますね、等と言っていたような気がする。その中に一冊惹かれるのがあった。綾波のイラストとか綾波フィギュアの写真とか、そういうものが載っていた。これはD出版と言う、主に楽譜とかを出している出版社のものであった。かなりレアで、氏もずいぶん探していたらしい。私は、こういうのは楽器屋とか行くとあるんじゃないかなぁ、探してみようかなぁ、などと思うという、謎な夢である。

 もう一つは、MLを読んでいたら、私の近所に住んでいるらしい某氏が「アスカ様の車に乗り込むところを見ましたぜ〜、へっへ〜」と書いているのを発見して戦慄するというものである。全く意味が分からないのである。

 今年もよろしく m(_ _)m