離れていても、どこにいても

第弐話
Written by tamb


 朝が来て、僕たちは綾波の荷物を取りに行くために部屋を出た。外は雲ひとつない快晴だった。街は何もなかったかのようにほとんどその機能を回復し、開いている店すらあった。彼らも他にすることがない、というのも正直なところかもしれない。

「少し、遠回りをしていきたい……」

 わずかな荷物を持って部屋を出てから、しばらく黙っていた彼女が急にそう言った。

「遠回り?」
「うん……」

 散歩、という単語が唐突に頭に浮かび、僕はその余りにも場違いな感じに思わず苦笑してしまう。綾波もつられたように微笑んだ。
 僕が笑ったのは、そして綾波の笑顔を見るのは、いつ以来だろうか。

「じゃあ、寄り道していこうか」

 僕がそう言うと、彼女はもういちど微笑んで、こくりとうなずいた。

 途中、平然と開いているコンビニによって飲み物を買い、公園に向かって歩いた。何を話すわけでもなかったけれど、綾波が隣にいるだけで落ち着いた気持ちになれた。自分でもいい加減なものだと思う。

 公園のベンチで一休みしてから、なんとなく学校に向かった。

 誰もいない教室。それでも窓から見える外の景色は、何も変わらなかった。変わったものと、変わらないもの。僕は変わったのだろうか。もし変わったとしたら、それは変わってしまったのか、それとも変わることができたのか。

 答えの出ることのない問い。

「みんな、どうしてるかな……」

 思考を断ち切って、僕は独り言のように言う。

「きっと、元気にしてるわ」

 ほんの少しだけ間があって、彼女ははっきりとそう言った。彼女に何か確信があるわけではないことは、僕にも良くわかっていた。それでも、その言葉にすごく勇気づけられた。

「そうだよね、きっと」
「うん」

 僕たちは学校を出て、僕たちの部屋に向かって歩き出した。そう、あの部屋は僕たちの部屋で、僕たちは二人の部屋に帰るのだ。

 部屋に戻ると、すぐに電話のベルが鳴った。還って来てから、初めて鳴る電話。僕は思わず綾波を見る。彼女の表情は読み取れない。何と言って出ればいいのかと考え、ためらいながら受話器を取った。

「……葛城、です」

 僕は結局そう答える。

「碇シンジ君だね」
「はい」
「私は政府の者だが」

 受話器の向こうで、男は言った。

 街はまだ治安が回復していない。保護の意味も含めて、君たちを監視下に置く。外出をしても構わないが、我々をまくようなことはしないで欲しい。近いうちに、ネルフが何をしてきたかの分析がはじまる。その時には話を聞くことになるだろう。第二新東京市で学校が再開されれば、我々が部屋を用意する。それまではそこで暮らして欲しい、と。

 つまり僕たちは、ここに軟禁されることになった。

 綾波に電話の内容を伝えると、彼女はひとこと、そう、とだけ言った。

 僕たちのしてきたこと、ネルフのしてきたこと。そして、僕のしてきたこと。僕はいったい何をしてきたのだろう……



 碇くんが考え込む。彼には、今は何も考えないということが大事なのが、わからないのだろう。私たちはたくさんのことをしてきた。だから、今は何もしない方がいいのに。

「碇くん……」

 私は思い切って口を開いた。

「どうしたの?」

 彼は驚いたように私の方を見る。

「おなか減ったの……」



 そう言えば、綾波に会ってから食事をした記憶がない。そのことに気づいて、僕も急に空腹を感じた。

「そ、そう言えば、何にも食べてないよね」
「……」
「スーパーに行って、何か買ってこようか。僕が作るよ」
「うん」

 彼女は少し恥ずかしそうにうなずいた。


 思った通りスーパーは開いていた。店の中で綾波に何が食べたいかと聞いても、彼女は黙って首を振るばかりだった。確か彼女は肉が嫌いだったはずだし、お米も切れていたような気がした。とりあえずパスタとパスタソースの缶詰と野菜を買って店を出たけれど、あわてて出てこないで冷蔵庫の中をちゃんと見てくれば良かったと思う。明日もう一度買い物に来よう。


「あたしも、何かする」

 彼女は、座って待っててと言ってキッチンに向かう僕の後ろをトコトコと付いて来て、こう言った。

「じゃあさ、買ってきた野菜で、サラダ作ってくれるかな。大根サラダを作りたいんだ」
「大根サラダ……」
「うん」

 僕は寸胴に湯を沸かし、冷蔵庫の中を確認しながらそう言った。その中には思っていたとおりビールしかなくて、僕はため息をついた。同時にこのビールを飲む人はもういないのかと思うと、悲しくなった。

 涙をこらえて綾波の方を見ると、彼女はまな板に大根をのせ、包丁を持って途方に暮れていた。彼女の部屋の洗い物のたまったシンクを思い出し、僕はしまったと思った。彼女は料理なんてほとんどしたことがないのだろう。でも、大根を前にして立ちすくんでいる彼女は、すごく可愛かった。きっと頭の中にある大根サラダの完成図と、目の前にある大根のギャップを埋めようと必死に考えているのだろう。



 私はどうしていいかわからず、碇くんの方を見た。彼はすごく優しい眼で微笑んでいる。私は顔が赤くなるのを自覚した。

「あ、綾波、サラダは僕が作るから、綾波はパスタを茹でてくれるかな」
「……うん」

 今までそんなことを思ったことはなかったけれど、碇くんの力になれるのなら、料理の勉強をしたいと思った。



 近いうちにと電話の男は言っていたが、翌日の朝に僕たちは呼び出しを受けた。赤木博士が使っていた部屋に来て欲しい。パスはかつての物を使えるようにしておく……。

 僕たちに選択肢はなく、本部に向かった。リニアが本部に近づくにつれ、僕の気分は重くなる。

「碇くん……」

 綾波が僕に話し掛ける。

「どうしたの?」
「用事が早く終わったら、またお散歩したいの……」

 自分が情けないと思った。彼女が僕のことを気にしてくれているのが、痛いほどわかる。彼女にしてあげられることが、僕にも何かあるはずだ。絶対に。

「そうだね」

 僕は不自然にならないように、努めて笑顔を作って言う。

「今日は天気もいいし、歩いて帰ろうか」
「うん」

 彼女のさりげない返事が、痛かった。

 僕たちは本部に入り、リツコさんの部屋に向かった。途中、幾人かの人とすれ違ったが、みな僕たちを無視した。白衣を着た人が多く、制服の人は見当たらなかった。戦自が入っているわけではないらしい。僕は少しだけ安心した。

 かつてはリツコさんが使っていた部屋の前で、僕は一度大きく深呼吸をする。それから二度ノックをした。

「あいてるわよ」

 ドアを開けると、中にはミサトさんに少し雰囲気の似た女の人が、一人で座っていた。

「碇シンジ君と、綾波レイちゃんね」
「はい。そうです」
「わざわざ呼び出したりして、ごめんなさいね」

 その人は、意外なほど柔らかな声で僕たちに言った。

「とりあえず、紅茶でも飲む?」
「あ、はい。いただきます」
「レイちゃんは? 紅茶でいい?」
「……はい」

 紅茶をいれたティーカップを机の上におき、その人は話を始めた。

「今日来てもらったのは……」

 急に警報が鳴り始める。その人は顔をしかめ、言葉を切った。警報音はすぐに低い音に変わったが、鳴り止みはしなかった。
 警報音に重なるようにして内線のベルが鳴り、その人は受話器を取る。

「あたしよ。いまお客さんなんだけど……。ええ、来てるわよ。二人で仲良く」

 話を聞きながら、僕たちの方をちらりと見た。

「……わかった。いま行くわ」

 受話器を置いて、今度は真っ直ぐに僕たちを見つめる。

「ごめん、ちょっと待っててね」

 その人は急ぎ足で部屋を出てゆき、僕たち二人が残された。

「どうしたんだろうね……」
「……」

 綾波は何か考え込んでいる風だった。僕も答えを期待していたわけではない。

 たっぷり三十分は待たされて、ドアが開いた。

「ごめんね、すっかり待たせちゃって。」
「いえ……」
「さっきから警報が鳴ってるでしょ。マギが出してるんだけど、理由がわからなくて。まるで何かに脅えてるみたいに、何の操作も受け付けないの」
「……そうですか」
「今、この都市が機能を果たしているのは奇跡に近いの。マギが勝手にうまいことやってるって感じね。だから、マギの解析が急務なの」

 僕は何と答えていいかわからず、黙っていた。それは綾波も同じだと思う。僕はマギのことなんて何も知らない。綾波なら僕よりは少しは知っているかもしれないけれど、それにしても解析に協力できるほどだとは思えない。

「あなたたちがどんな命令を受けてどういうことをしてきたか、どんな実験をしてきたのか、それを調べてマギの持っているデータと照らし合わせて解析するのがあたしの仕事なんだけど」

 僕たちを交互に、優しいけれど意思のこもった眼で見つめる。
 話を聞く綾波の表情は硬い。

「でも今日はちょっとマギは使えなくなっちゃったし。顔合わせっていうことで許してね」
「……はい」
「ごめん、自己紹介をしてなかったわね。あたしは長門マキ。マキって呼んでくれていいわ」
「マキさん……」
「そ」

 マギの解析をするマキさん。悪夢のようだと、僕は思った。

「今日はこれから、何か予定あるの?」
「……いえ、早く終わったら歩いて帰ろうって話してたくらいで……」

 僕は綾波を見てから、そう答える。

「そう。お散歩デートね」

 僕は黙っていたが、少し顔が赤くなってしまうのを感じる。

「なぁによ二人とも。赤くなっちゃって。可愛いわねぇ」

 横目で綾波を見ると、表情こそ変えていないが頬をほのかに染めていた。彼女も視線を感じたのか、僕の方を見る。

「見つめ合ってるとこ悪いんだけど」

 マキさんの言葉で我に返った。

「あたしも今日は上がろうかと思ってるの。徹夜続きだったし」
「そ、そうですか」
「お昼、つき合わない? 一人でする食事って、味気なくってさ。外食ばっかりだったし。あたし、頑張って作るから」

 僕はちょっと嫌な予感がした。

「まさかレトルトじゃないでしょうね……」
「レトルト? バカにしないでよ。こう見えても料理は得意なのよ」

 マキさんは少し憤慨したようだった。綾波を見ると、彼女は目だけで微笑んで小さくうなずいた。

「ご、ご馳走になります」
「そうこなくっちゃ。じゃ、行きましょ」



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