離れていても、どこにいても

第四話
Written by tamb

 今日も僕は眠れないままだった。すぐ隣に綾波がいて、彼女の甘い匂いと静かな寝息が聞こえる。もう眠っているのだろう。寝顔を見てみたいと思ったが、やめた。起こしてしまうかもしれない。それに僕は自分の理性に自信がない。疑うことを知らないのかもしれないけれど、僕を信じてこうしていっしょに眠っている彼女を、こんなことで傷つけたくはなかった。
 不意に彼女が身じろぎをして、そっと僕の腕を取った。彼女の身体のやわらかさが、僕の腕を通して強く感じられる。意識するなと言う方が無理だ。
 僕は硬直したまま、天井を見つめてじっとしているしかなかった。



 眠れない。私は碇くんのほうを向いて横になったまま、じっとしていた。彼はもう眠っているのだろうか。顔が見たいと思う。でも起き上がれば彼を起こしてしまうかもしれず、それはできなかった。抱きしめて、ぎゅってして、頭をなでて欲しいと思う。そうすれば安心して眠れるのに。私は眠ったふりをしながら碇くんの腕を取って、抱きしめた。頬を寄せてみる。こうしていると、眠れそうな気がした。



「シンジ君? あたし。マキよ。今から迎えに行くから。でさ、朝ご飯、食べさせて……」

 マキさんからの電話で目が覚めた。いつのまにか眠っていたようだ。まだ眠っている綾波に声をかけ、朝食の準備を始める。
 そろそろ出来るかという頃になって、綾波が起き出して来た。寝ぼけ眼で髪はぼさぼさのままだけど、僕はとても可愛いと思う。

「碇くん、おはよう……」
「おはよう」
「お手伝いするから、起こしてって言ったのに……」
「起こしたよ?」

 綾波はそれには答えず、じっと僕を見る。

「マキさん、来るの?」
「う、うん。電話があったよ。そろそろ来るんじゃないかな」
「そう」

 綾波がバスルームに向かうとすぐに部屋のチャイムが鳴り、マキさんが来た。

「おはよう、シンジ君。朝からゴメンね」
「おはようございます。気にしないで下さい」
「あれ、レイちゃんは?」
「洗面所にいます」

 髪をとかした綾波がバスルームから出てきて、マキさんにあいさつをする。

「レイちゃん……ずいぶんセクシーな格好ね……」
「……そうですか?」

 綾波はいつも、僕のワイシャツだけを着て眠っている。僕はそんな彼女の姿をできるだけ見ないようにしていた。

「パジャマとかTシャツとか、持ってないの?」
「……はい」
「シンジ君、よく我慢できるわね」
「な、何のことですか。ははは」
「あなたたち、もしかして一緒に寝てるの?」
「あ、い、いや、その――」
「はい」

 僕がごまかすより早く、綾波がうなずいてしまった。マキさんはあきれたような顔をした。

「まぁあたしは別に構わないけど。とりあえずシンジ君、避妊はしっかりしてよ」
「ひひひ、ひにんて、ぼぼ、僕たちはまだそんなことは……」
「まだ? ってことは、いずれ近いうちに……」
「いいいいや、そそそそれはその」


 碇くんは、なぜか赤くなってうつむいてしまった。マキさんはいたずらっぽく笑いながら私を見て、それから少しバツの悪そうな顔をしてウインクをした。

「とりあえずレイちゃん、着替えてきなさいよ」
「はい」

 私は碇くんの部屋に戻って、制服に着替えた。

「……あなた、他に服は持ってないの?」
「はい」

 マキさんが私の制服姿を見て驚いた声を出した。それから少し考え込む。

「今日は仕事をするのは止めましょうか」
「え?」

 碇くんが聞き返す。

「決めたわ。今日は仕事、やめ」
「い、いいんですか?」
「いいんじゃない、別に」
「……そ、そうですか」
「レイちゃんを借りていくわ。お買い物よ」
「買い物、ですか」
「そ。お買い物。お買い物でストレス解消は、女の子の特権だもんね」
「僕は、どうすればいいですか」
「シンジ君はお留守番。掃除と洗濯かしら」

 碇くんはあからさまにがっかりした顔をした。

「女の買い物に男はいらないのよ。荷物持ちでもする?」
「……いえ、遠慮しておきます」
「さ、朝ご飯食べよ」
「……はい」



 マキさんが綾波を引っ張って買い物に出た。

 外はいい天気だった。確かに洗濯日和だ。僕はとりあえず布団を干し、それから洗濯を始めた。

 一人になるのが嫌だった。忙しくしていれば、一人でいることを忘れていられる。考えても仕方のないことはある。僕はどうしてアスカの首を締めたのか。どうして彼女は気持ち悪いって言ったのか。どうしてアスカはここにいないのか。ミサトさんも……リツコさんも……。
 大声で叫びたくなる。誰でもいいのか。そばいてくれさえすれば、誰でもいいのか。僕はなぜココにいるんだ。僕に何ができるんだ。僕が何をしたって言うんだ。

 僕はアスカの首を締めたんだ……。



「何を買いに行くんですか」
「あら、お洋服よ。決まってるじゃない」

 車の中で尋ねると、マキさんは不思議そうな声で答えた。

「まぁ本部に行きたくないっていうのもあるんだけど……。レイちゃん、可愛くて素敵な服、欲しいと思わない?」
「……思ったこと、ないです」
「そう。でも新しい素敵な服着たら、きっとシンジ君は可愛いって言ってくれるわよ」
「……」

 碇くんに可愛いって言われたいと、私は思う。今までこんな気持ちになったことはなかった。
 自分の気持ちなんて、考えたことはなかった。考えないようにしていたのかもしれない。

 私は碇司令によって生かされていた。あたかも人が神によって生かされるように。それを疑ったことはなかった。自分が碇司令の人形ではないと気づくまでは。
 司令はもういない。ではなぜ、私はココにいるのだろう。

 碇くんに会いたいと思った。
 碇くんが呼んでくれた。
 碇くんのそばにいたいと思った。

 だから、ココにいる。

 碇くんのために、何かしたいと思う。
 それでいいのだろうか。
 碇くんは私を必要としているのだろうか……。


「レイちゃんがシンジ君に興味ないなら、あたしが食べちゃうわよ」

 マキさんの声が耳に入った。

「……食べる?」
「なんだ、聞いてるんじゃない。聞いてないのかと思ったわ。急に考え込んじゃって。食べるっていうのは、シンジ君を取っちゃうっていう意味よ」
「ダメ!」

 私は自分が出した大声に、自分で驚いた。

「冗談だってば。話、聞いてないみたいだったから、ちょっとからかっただけ」

 マキさんが少し笑って、それから小さくため息をついた。

「あなたとシンジ君て、ちょっと似てるとこあるわ」
「……」
「すぐに考え込んじゃうとことか。シンジ君も今頃、洗濯しながら考え込んでるわよ」

 今すぐに部屋に帰って、碇くんのそばにいたいと思う。

「あなただって、いつも何か考え込んでいるように見えるわ。考えることは悪いことじゃないけど、考えても仕方のないこともあるのよ」

 碇くんに、考え込まないで欲しいと思ったことはあったけれど、自分のことをそんな風に思ったことはなかった。

 自分のコト……。

「あなたがどんなことを考えているのかはわからないけれど」

 マキさんが言う。

「生まれてきたってことは、幸せになる権利があるってことなのよ。幸せになるために生まれてきたんだから」
「あたしは……」
「あのね、レイちゃん」

 マキさんは少し強い調子で言った。

「あなたが厳密な意味でヒトかどうかなんてことは、あたしには関心がないの」
「……」
「前にも言ったわよね。あなたには幸せになって欲しいって」

 私はなんて答えたらいいのかわからなかった。

「もしあなたがいなくなったら」
「……」
「悲しむ人がいる。でもそんなことは、今は忘れていてもいいわ。自分のことだけを考えて。何かをしなければならないんじゃない、あなたが何をしたいか、あなたがどうしたいかを考えていて」
「……」
「わかった?」
「はい」

 私は早く買い物を終えて、碇くんのそばに帰りたかった。碇くんに、可愛いって言って欲しい……。

 不意にマキさんが言う。

「ねえ、シンジ君は、あなたの下着も洗うのかしら」
「自分で洗ってます。お風呂の時に」

 私は、葛城三佐の部屋に干してある下着に、碇くんが気づかないように祈った。


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