「ただいまぁ!」
マキさんがドアを開けるなり大きな声を出した。
「あ、お帰りなさい」
碇くんの声がする。私はそのままキッチンに向かった。彼は思った通り食事の支度をしていて、私の入ってくる気配に振り向いた。
彼の瞳をじっと見つめる。
……たぶん、気づいてない。
私はほっとして、それから彼の目が少し赤いことに気づいた。まるで泣いていたみたいに。
綾波がキッチンに入ってきて、押し黙ったまま僕を見つめた。出かけていったときは制服だったけど、今はベージュのキュロットのミニスカートに、薄いピンクのブラウスを着ている。胸元からグレーのTシャツが覗いていた。その姿はすごく可愛くて、僕は頭の中が真っ白になった。
「シンジ君、何か言ってあげたらどおなの? レイちゃん、可愛くない?」
マキさんの言葉に、僕は我に返った。
「あ、えと、か、可愛いよ、すごく。似合ってる」
「あ、ありがと」
綾波がほんの少し頬を染めて答える。僕は彼女から目が離せなかった。
さっきまで自分のしてきたことを考えて泣いていたのに、少し元気になったような気がする。僕は自分の単純さに呆れ果てた。
「さ、いつまでも見詰め合ってないで。ご飯にしよ。おなか減っちゃったわ」
「あ、はい」
「レイちゃんも着替えてきなさい」
「はい」
綾波が部屋に入ったのを見て、マキさんが口を開く。
「シンジ君、今度はあなたが買ってあげなさいね」
「え、でも僕はそういうセンスは……」
「いいのよ。センスなんてどーでも。店員さんが素敵なのを選んでくれるわ。今日わかったけど、あの娘のセンスだって捨てたもんじゃないし」
「はぁ」
「あなたは、ただ可愛いって言ってあげればいいのよ」
「そういうものですか……」
「そんなもんよ。さ、ちょー普段着のレイちゃんのお出ましよ」
部屋から出てきた綾波は、ざっくりとした大きな白いTシャツを着ていた。Tシャツの裾からは、ほんのわずかに空色のショートパンツが見える。僕はぎくりとして、あわてて目をそらした。
「あら。お気に召さなかったかしら?」
「いえ、そんなことないです。可愛いと思いますよ。さすがマキさんです」
「バカにしてるわね?」
「そ、そんなことないですよ」
マキさんの声は笑みを含んでいて、僕はからかわれているんだなと思う。
食事を終えて僕が片づけを始めると、マキさんはリビングの隅に綾波を呼んで、何かひそひそ話をはじめた。
もういちいち気にしててもきりが無い。僕は洗い物に集中した。必死に。
「碇くん、お風呂、先に入るね……」
「あ、うん」
「シンジ君、お茶、ちょーだい」
「はい」
僕は綾波の後姿をちらっと見て、それからお茶を淹れた。
「ねぇねぇ」
「はい」
「レイちゃん、可愛いわよね」
「綾波はいつでも可愛いですよ。服とかに関係なく」
僕は思わず言ってしまい、それからしまったと思った。顔が赤くなるのが自分でもわかる。マキさんはにこにこと笑っていた。
「シンジ君さ」
「は、はい」
「いくらレイちゃんが可愛くても、避妊は忘れちゃダメよ。前にも言ったけど」
「マキさん……」
僕はため息をついた。
「からかうのはやめてくれませんか。僕たち、まだ中学生なんですよ」
「あら? 中学生だから避妊しなくていいってことはなくてよ」
「そうじゃなくて……」
「あたし、初体験は中三だったけど」
「……」
「別に構わないと思うけど」
「…………」
「なんでもいいんだけどね。愛し合ってたら抱き合わなくちゃいけないとか、ないんだし。ただ、二人にとって良くないと思うの。我慢して我慢して、急に爆発するのはね」
「僕は」
マキさんの目を見ることができず、うつむいた。
「僕には、彼女にそんなことをする資格はないと思うんです」
「どおして?」
「いろんな、しなければいけない事をしなかったし、してはいけない事をしてしまって……」
「それで?」
「僕は罪を一生――」
「関係、あるの?」
そのきつい言葉とは裏腹に、優しさを失わないマキさんの声に顔を上げた。とても柔らかな笑みを浮かべているマキさんが、そこにいた。
「完全な人間なんかいないわ。誰でも間違いを犯して、それを反省しながら前に進んでいくものだと思うの。それはあなたもあたしも、レイちゃんも同じよ」
「……」
「あなたが自分を許さなくても、あたしは許してあげる。レイちゃんもきっと許してくれるわ」
「……」
「わざわざ不幸を追い求めるのは大バカ者のすること。あとはあなたの気持ち次第よ」
「綾波の気持ちは……」
「それはあなたが自分で確かめなさい」
「……僕が…」
「案外、誰かすごく好きな人がいて、忘れられないでいるのかもね」
嫌だ。
強くそう思い、そして自分の気持ちに気づいた。
僕は綾波のことが好きなのか……。好きになっても、いいのか……。
「昼間レイちゃんと一緒にいて、あなたたちってちょっと似てる所があるって思ったけど、ちょっとどころじゃないわね。そっくりだわ」
「僕と綾波が?」
「そう。すぐに考え込んじゃうとことか、考えてることが顔に出て、すごくわかりやすいとことか」
「そ、そんなことないと思いますけど」
僕は平静を装ったけれど、やっぱり顔に出てるのかと思うと恥ずかしかった。シンクの方に向き直って、洗い物を再開する。
「ま、がんばんなさい。あたしには何もできないけど、応援してるわ」
こんな時、何て答えたらいいんだろう。がんばります、か? まさか。よろしくでもないし……。
「碇くん……」
「うわ!」
後ろから急に声を掛けられて、僕は思わず声を出した。
「……どうしたの?」
「いいいいや、なんでもないんだ。ははは」
僕は一応振り向いたけれど、風呂上りの綾波の姿をまっすぐに見ることができなかった。
綾波は少し不思議そうな顔をして、マキさんの横に座った。
マキさんは、相変わらずにこにこと笑っている。
さっさと洗い物を終わらせてしまおうとして、もう終わっていることに気づいた。いつの間に終えたのか、全く記憶になかった。
「じゃ、あたしはそろそろ帰るわ」
「え、もうですか」
綾波と二人きりになる自信がなかった。
「何よ。さみしいの?」
「そ、そんなことはないですけど」
「じゃあね。明日のことはまたあした連絡するわ」
「お疲れ様でした」
「あ、お、お疲れ様でした。気をつけて」
マキさんが帰ってしまい、僕たちは二人きりになった。今日買ってきたのか、綾波はファッション雑誌など眺めている。ちょっと不思議な感じがしたけど、別に変なことじゃない。
何か話さなきゃと思って口を開きかけた時、彼女の頬が少し染まっていることに気づいた。それは風呂上りということだけが理由だとは思えなかった。雑誌のページは、さっきから全然進んでいない。マキさんに何か言われたんだと、簡単に想像はつく。綾波も、何を話したらいいのか戸惑っているのだろうか。
ちょっと落ち着こう。
「ぼ、僕もお風呂入ってくるよ」
「うん……」
彼女は僕の目を見ずに答えた。
着替えを出して、逃げるようにしてバスルームに駆け込む。
綾波の匂いがした。
僕は座り込んで頭を抱えた。気を取り直して、思いっきり湯をかぶる。めちゃめちゃに熱かった。
風呂から上がると、リビングに綾波の姿は無かった。
一日中買い物をして、やっぱり疲れたんだろう。彼女は電気をつけたままの僕の部屋で、もう毛布にくるまっていた。安らかな寝顔と、静かな寝息。僕は思わず微笑んでしまう。そして次の瞬間、枕もとに空色のショートパンツとTシャツがきちんとたたんで置いてあるのに気づいた。
ということは。まさか。
「勘弁してくれよ……」
とりあえず明かりを消し、リビングに戻ってみる。戻ってはみたものの、テレビを見る気にはなれないし、本など問題外だ。
「ぼ、僕も、もう寝ようかな」
口に出して言ってみる。どもってしまうのが情けない。
どうしたらいいのか迷いながら、なんとなく部屋に戻る。
ずっと起きてるわけにはいかないんだ。
「し、しょうがないじゃないか」
そう小声で言って、綾波の隣にもぐりこんだ。彼女はいつも通り、僕のシャツを着ていた。僕は少しほっとして、それと同じくらいがっかりした。
「ん……」
彼女は小さな声を漏らし、僕の腕を取って腕枕にした。こんなことは初めてだった。僕は上を向いたまま完全に固まった。腕に綾波の重さを感じる。こんなにすぐそばに、いる。マキさんの言葉が頭の中を駆け巡り、心臓が爆発しそうだった。
もうダメだ。
僕は綾波の方を向いて、彼女の細い肩を抱いた。
「マキさんがね……」
「あ、お、起きてたの?」
綾波が僕の胸に顔を埋めて、急に話し出した。僕の問いには答えず、くぐもった声で話しつづける。
「もし碇くんが触ろうとしてきたら、ダメって言いなさいって……」
「あ、そ、そう……」
「でも、キスはしてもいいって……」
綾波が僕の胸から顔を離し、そう言った。少しだけ上を向いて、目を閉じている。
僕はもう何も考えなかった。
長い長い、まるで永遠かと思うような時が過ぎて、僕たちは口唇を離した。
一瞬だけ見つめ合う。
彼女の瞳から、ひとしずく、涙がこぼれた。
僕にはその意味がわからない。
ただ綾波を抱き締めた。思いっきり。