私は碇くんに嘘をついた。マキさんは私に、彼が触ろうとしたらダメと言いなさいとは言ったけれど、キスはしてもいいとは言わなかった。でも、してはいけないとも言わなかった。
必ずマキさんの言葉に従わなければならないというわけではない。でもたぶん、こう言わなければ彼は私にキスはしないし、触りもしないと思う。肩は抱いてくれても。
私は碇くんにキスをして欲しいと思った。それはどうしてだろう。
キス。愛し合うヒト同士がすること。
私は碇くんを愛しているのだろうか。碇くんに愛されたいと思っているのだろうか。
碇くんは私のことを、愛しているのだろうか。
彼の胸に顔を埋めていると、心臓の鼓動が聞こえる。私の心臓も、彼のと同じように高鳴っている。私たちの身体は、まるで風邪をひいた時のように熱い。でも、すごく安心する。
口唇を離した時、私の瞳から涙がこぼれた。
いつまでもこうしていたい。ずっと碇くんのそばにいたい。これが私の気持ち。本当の気持ち。でも、それはたぶん、正しいことじゃない。
正しいことって、なに?
マキさんは、あなたが何をしたいか、あなたがどうしたいかを考えなさいと言う。碇くんやマキさんといっしょに、ココにいることを忘れてはいけないと言う。
碇くんとずっといっしょにいたい。そのために、どうすればいいのだろう……。
「僕はね……」
碇くんが何か決心したように口を開いた。
「アスカを殺そうとしたんだよ」
――知ってる。
「アスカはまるで死んでるみたいだった。僕はアスカの首を締めた。そしたらアスカは僕の頬を撫でて、気持ち悪いって言って……。僕は目を閉じたんだ」
「……」
「目を開けたときには、もうアスカはいなくて――」
「いいの」
私は碇くんの背中に回した腕に力を込めて、そう言った。
「いいの。何も言わなくていいの」
「でも…僕は……」
「あなたはその時、彼女だったの」
「……」
「彼女はきっと、戻って来たくなかったんだと思う。それをわかって貰うために、彼女はあなたの手を使ったんだと思うの」
「……」
「あなたは、みんながいる世界を望んだ。あなたに呼ばれて、みんなは戻ってきた」
「……」
「ここにいない人たちは、自分の意志で、LCLに還って行ったの」
「みんな……僕が嫌いなんだね……」
「どうしてそういう風に考えるの?」
「だって……だってそうじゃないか」
「みんな自分のことを考えたの。あなたのことを考えたんじゃない。あなたが嫌いなら、どこか別の場所で暮らせばいいだけだもの」
「……」
「戻ってくることの重さに、耐えられなかったのかもしれない。でも、今からでも戻って来れるのかもしれないわ」
「……綾波は、どうして戻ってきたの……」
「あなたに……会いたかったから……」
「僕に?」
「あなたが……」
好きだから。
いつまでもこうしていたい。ずっと碇くんのそばにいたい。
その想いは、言葉にはできなかった。
私を抱いている彼の腕に力がこもる。
とめられない涙のしずくが、碇くんのシャツを濡らした。
いつまでもこうしていたい。ずっと碇くんのそばにいたい……。でも……。
「綾波……」
「……」
「僕はずっと、綾波のそばにいるよ……」
碇くんの想い。
私はうなずくことができず、ただ泣きつづけた。碇くんに頭をなでられながら。
電話のベルが鳴った。僕は起き上がって受話器を取る。一瞬の逡巡。同じことの繰り返し。
「……はい、葛城です」
「あたしよ。久しぶりね」
僕はその声を聞いて、夢を見ていることがわかった。ミサトさんだった。
「どお、元気にしてる? レイと仲良くしてる? マキは親切にしてくれてるかしら」
何て答えればいいのだろう。ミサトさんは一方的に喋り続ける。
「こっちのことは心配しなくて平気よ。なんとかやってるわ。シンジ君、レイと仲良くしてるみたいで、アスカが悔しがってるわよ」
悔しがってなんかいないわよ、という怒鳴り声が遠くから聞こえた。アスカらしいな、と思い、僕は少しだけ笑った。
「アスカがシンジ君に謝りたいって言ってるから、かわるわ。ちょっと待ってね」
別に謝ることなんてないわよ。そんなこと、ひとっことも言ってないじゃない。
なに照れてんのよ。いいから早く出なさい。
話すことなんてないわよ。
言い訳はいいから。
押し問答が聞こえ、それからアスカの声がした。
「シンジ? アタシよ。久しぶり」
「……うん」
アスカの声は、今まで聞いたことがないくらい優しかった。
僕ははじめて声を出して、夢の中でも声が出せることを知った。
「アタシは別に、あんたに話すことなんてないし、謝ることもないけど」
「僕の方が――」
「あんたもアタシに謝ることなんてないし、謝って欲しいとも思わないわよ」
アスカが僕の言葉を遮る。
「……ま、今は声しか聞けないけど、そのうち会えるわ。なんかの形で。お互い死んだわけじゃないんだしね」
「そう…だね……」
死んだわけじゃないんだし――。
僕は曖昧に答えた。
「その時は美味しいご飯を期待してるわ。ファーストにもよろしく。二人っきりだからって、変なことしたら承知しないからね。じゃ、ミサトにかわるから。またね」
「うん」
ファーストによろしく、またね、か。
「じゃ、シンジ君、元気でね。そのうちまた電話するわ。レイをよろしく頼むわよ。マキにもよろしく伝えといて」
ミサトさんは少し笑いながら言った。
「はい」
「じゃあね」
電話の切れた音がして、僕は目を覚ました。腕の中には暖かな綾波がいて、静かな寝息が聞こえる。僕は泣いてはいなかった。
この夢は、僕の想いなんだろう。僕は僕自身を許したいんだろう。
マキさんは許してくれると言った。綾波も、たぶん許してくれるのだろう。
でも僕は自分を許さない。絶対に。
腕枕はそのままに、綾波の肩から手を離して、僕は目を閉じた。
碇くんが離れる気配に、私は目を開いた。碇くんの手を掴んで、私の肩に置く。
「綾波……」
「そばにいてくれるって、さっき言ったばかり……」
「……うん」
どうしてあなたは、こうしてつかまえていないと離れていってしまうのだろう。
離れないで。ぎゅってしてて。
せめて私がココにいる時は。
弐号機パイロットなら、たぶんこう言うだろう。
あんたがアタシを呼んだんでしょ。だから来てやったのよ。責任取りなさいよ。
こんな風に言えたら、どんなにいいかと思う。私には言えない言葉。
掴まえていて。離れないで。私を離さないで……。
碇くんに聞こえないように、胸の中でささやいた。目をつぶって。
それに応えるように、彼の手が私の頬にそっと触れる。腕枕をしてくれている手が、私の肩を引き寄せる。
碇くんの口唇が、私の口唇に重なった。