離れていても、どこにいても

第七話
Written by tamb

 電話の鳴る音が遠くから聞こえて、僕はまた夢を見ているのかと思う。今度は誰だろう。またミサトさんとアスカかなとぼんやり考えているうちに、ベルの音がやんだ。綾波の対応している声がかすかに聞こえる。ベッドの中に綾波はいない。僕一人だった。それに気づいて、僕ははっきりと目を覚ました。

 制服を着た綾波が入ってきて、僕が目を覚ましているのを見て言った。

「マキさん、今から来るって。今日からちゃんと調査をはじめるからって」
「そう……」

 ネルフが、そして僕たちが何をしてきたのか――。

 制服を着ているわけがわかった。
 そうか、仕事だから……。

「それと……」

 少し言い辛そうにして、彼女は言った。

「朝ごはん、よろしくって……」
「そ、そう」

 綾波がキッチンの方に歩く。起き上がって僕も制服に着替えながら、お米を炊いていないのを思い出した。今から炊くとして……マキさんは何時くらいに来るだろう。僕は時計を見た。



 私はキッチンに立って、エプロンをつけた。いつも碇くんがしているエプロン。深呼吸をしてみる。とりあえず、ご飯を炊かないといけない。そのくらいは私にもできる。お米を出して、慎重にとぎはじめた。

「あ。ありがとう。助かるよ」

 洗面所に向かう碇くんが、お米をといでいる私を見て声をかけてくる。私は彼の方を見て、少しだけうなずいた。
 碇くんはそのまま立ち止まって私のことを見ている。少し心臓がどきどきする。彼は洗面所には向かわずに、こっちに歩いて来た。私はお米をとぎ続ける。彼が私の後ろに立った。

「あ、あのさ、綾波。最近のお米は、そんなに必死にとがなくても……」
「……」
「綾波?」
「黙って」
「あ、ご、ごめん」

 彼はそう謝って、洗面所に向かった。私は少し嬉しかった。



 怒らせたかなと思い、僕は後ずさりしながら洗面所に向かう。でも綾波の横顔は微笑んでいるように見えて、少し安心した。綾波にエプロンは良く似合うと思う。でも、意外に似合うね、なんて言ったらまた怒られるような気がして、黙っていた。お母さんっていう感じは――しなかった。僕の気持ちが変わったのか、それとも綾波が変わったのだろうか。歯を磨きながら考える。結論なんて出るわけがない。

「おかず、どうしよう……」
「えーっと」

 綾波に聞かれ、僕もエプロンをつけながら、買って来てある食材を思い出す。

「綾波、卵は大丈夫?」
「……火が通っていれば」
「じゃあ……いりたまごと、お味噌汁と、サラダと……ご飯が炊けるまで時間があるし……」
「……」
「どうしよう」
「あたしは……?」
「えーと、とりあえず卵を溶いてくれるかな。二つでいいよ」
「うん」

 綾波が冷蔵庫から卵を出して、慎重にお椀に割った。ゆっくりと溶きはじめる。

 卵。生まれてくる可能性があって、でも魂を持たなかったもの。そこに命の宿る可能性は無い。ヒトがその可能性を奪った。そんな権利があるのだろうか。生を受けたかった魂が、命を持てなかった魂がそこに溶けているのかもしれない。僕はみんなのいる世界を望んだ。でも僕はカヲル君を殺し、アスカを殺そうとした。
 戻ってこなかった人たちの想い――



「碇くん、できた」
「……」

 たぶんこれで大丈夫と思ったけれど、碇くんは黙っていた。彼は私の溶いた卵をじっと見つめている。何かミスをしたのかと思ったけれど、よくわからない。

「碇くん?」

 やっぱり黙っている。お椀をそっとシンクの上に置いてみた。やっぱり見つめたままだ。私はひどく不安になった。

 部屋のチャイムが鳴る。碇くんは動かない。私は彼の方を見ながら、玄関に向かう。マキさんだった。

「おはよ」
「おはようございます」
「レイちゃん、エプロン似合うわねぇ。いいお嫁さんになるわよ。シンジ君は? ごはんの支度?」
「……」
「どうかしたの」

 マキさんの表情が硬くなる。

「動かなくなっちゃって……」
「動かない?」

 私は固まっている碇くんをそっと指差した。

「シンジ君?」

 マキさんが声をかけても、碇くんは動かない。

「……ゼンマイでも切れたのかしらね。ちょっとほっときましょう」

 脈と呼吸に問題のないことを確かめてから、マキさんはため息混じりに言った。

 ゼンマイ?

「すぐに考え込んじゃって周りが見えなくなるのは、あなたたちの特技かもしれないけど」
「……」
「それも程度問題だと思うのよね。これじゃ日常生活に支障をきたすわ」

 私たちはただじっと座って、碇くんが帰ってくるのを待った。

「おなか減ったわね」

 私は考えた末に答えた。

「お腹すきました。すごく」



 何か声が聞こえたような気がして、僕は振り向いた。そこにマキさんと綾波が並んで座っていて、本当に驚いた。僕が考え込んでいるうちに入ってきて、気がつかなかったのだろうか。一瞬だけ考えて、何とか冷静になろうと思う。

「あ、お、おはようございます」
「ごまかそうったってダメよ」
「あ、いや……」
「なに考えてたの?」
「いや、何っていうか……」



 碇くんがロごもっているのを見て、マキさんがほとんど口を動かさず、小声で私に言った。
 ちょっとあたしの言う通りに答えて。
 私はそっとうなずいた。

「別に考え込んでたっていいんだけどさ、急に動かなくなったら心配するわよ。レイちゃんも心配でしょ?」
「……心配です」
「ほらね」
「あ、綾波ぃ」
「とりあえず周りが全く見えなくなるのは何とかしないとだめね。車の免許も取れないわ」
「いいです。別に。車なんて乗りませんから」
「あら? レイちゃんとドライブしたくないの? レイちゃんはどっか素敵なとこ、連れていって欲しいわよねぇ」
「ドライブ……行きたいです」
「ほぉら」
「……」
「いいわ。これくらいで許してあげる」

 絶句した碇くんを見て、マキさんが含み笑いをしながら言った。

「ごはんにしよ。おなか減ったわ。レイちゃんもおなか減ったでしょ?」

 マキさんがまた私にささやく。ぺこぺこですって、言って。

「……ぺこぺこ……です」
「ほら」
「すぐに作りますっ!」
「あ、怒った」
「怒ってませんよっ!」

 マキさんが私を見て、ぺろりと舌を出した。いたずらっぽい少女のようだと思った。



 ようやく僕にもからかわれているという事がわかった。マキさんが綾波に何か小声で指示している口の動きが見えたからだ。それならそれでいいと思う。嬉しいとは思わないが、そんなに気分は悪くなかった。それは、僕と綾波とマキさんがここにいることの証のように思えた。
 僕はフライパンの火加減を確かめながら、どうやって仕返しをしてやろうかと考える。いいアイディアは浮かばなかった。

 食事を終えて、綾波に手伝ってもらって洗い物を終えた。リビングの方を見ると、マキさんは居眠りをしていた。

「寝ちゃったみたいだね」
「……」
「寝かせておいた方がいいのかな……」

 すごくすやすやと眠っているように見えた。あるいは疲れているのかもしれないと思う。

 綾波がミサトさんの部屋から毛布を持って来て、マキさんに掛けた。
 僕たちにはすることがなくなった。

「碇くん……」
「なに?」

 マキさんの隣に座った綾波が、不安そうな声を出した。

「ぺこぺこって、なに?」

 僕はあっけに取られた。そうか、意味がわからないで言っていたのか……。

「ぺこぺこってね、お腹がすごくすいてる時のことだよ」
「そう……よかった……」
「え? どうして?」
「碇くんに……嘘はつきたくないから……」

 つまり綾波はお腹がぺこぺこだったということか。僕はそんなに長い時間、考え込んでいたのだろうか。

「僕は……どのくらい考え込んでたの?」

 彼女は黙っていた。でもそれは別のことを考えていたからだと、綾波の言葉を聞いてわかった。

「碇くん……怒ってる?」
「怒ってないよ。どうして?」
「……」

 彼女は黙っていたけれど、考えていることはわかった。

「いいんだよ。こうやってからかったりからかわれたりするのも、同じところにいるってことだからさ」
「ごめんなさい……」

 目に涙をいっぱいためているのが見えた。こんなことで彼女に泣いて欲しくなかった。

「気にしないでよ。そんなこと」

 僕は綾波の肩に触れた。うつむいていた彼女が顔を上げる。目線が合って、彼女は微笑んだ。それは無理矢理作ったぎこちない笑顔だったけれど、僕の目にはとても素敵に映った。たまらなく愛しいと思う。
 僕は両手を綾波の頬にそえる。彼女が目を閉じた。僕も目を閉じてロ唇を寄せようとして、なんとなく嫌な予感がした。とたんにマキさんの声がした。

「ハイ、ストップ!」
「うわあああいいいいいつから起きてたんですか。いじわるだなぁ。ははは……」
「同じところにいるってことだからさってとこから。いいわねぇ、仲が良くて」
「い、いやその。ははは」



 碇くんが動揺している。私は横を向いて知らないふりをしたけれど、顔が赤くなっているのだろうと思う。

「別にいいんだけどさ、ここにも適齢期の女の子がいるんだから、ちょっとは気を使ってくれる?」
「女の子って? あ、マキさんのことですか。すいません」
「なによ。おばさんだって言いたいの?」
「いや、そんなことないです」
「白々しいわね」
「ほんとにそんなことないですよ」

 碇くんが逆襲に転じたが、火に油を注いだだけだった。でも、マキさんが本気で怒ってるのではないことは声を聞いていればわかる。それでも碇くんは少し焦っているみたいだった。

「悪かったわね。どうせあたしはもうすぐ三十よ。あなたたちの倍も生きてるわよ。お肌の曲がり角なんてとうに過ぎたわよ。目尻には小じわが目立つわよ!」
「だ、誰もそんなこと……」

 碇くんが必死にとりなすが、マキさんはほとんど聞いていない。

「かわいそうに。成熟した女の魅力がわからないのね。ま、まだお子様だからしょうがないか。おほほほほほ」
「マキさん、ち、ちょっと落ちつ」
「いいわねねぇ、あなた達は若くって。でもね、誰でも歳は取るのよ。あたしにも十四の頃はあったし、あなた達もあと二十年もすれば三十四なのよ」
「に、二十年て……」
「五十年も経ってごらんなさい、なんと六十四よ。立派なおじいちゃんおばあちゃんよ。あなたたちに素敵な歳の取り方ができるかしら?」
「い、いや、それは……」
「……その時はあたしも…八十…か……」
「…………」
「なに言わせんのよ!」
「ぼ、僕は何も……」
「仕事するわよ! コーヒーいれて!」
「ミ、ミルクと砂糖は」
「ブラック!」
「は、はい」

 少し顔をこわばらせ、それでも二人の会話を聞いて笑いをこらえている私に、マキさんは少し恥ずかしそうな目で、あっかんべーをした。そんなマキさんを、とても可愛らしいと思う。

「年寄りの言うことは素直に聞くものよ」
「はい」

 私は精一杯元気に答えた。上手くできたと思う。


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