離れていても、どこにいても

第八話
Written by tamb

 仕事というのは、要するに聞き取り調査のことだった。でもそれは、ほとんど雑談としか思えなかった。マキさんはメモを取るわけでもない。マギのことも聞かれなかった。もし聞かれたとしても、知らないことには答えようがないけれど。

 聞かれたのは学校での出来事や日々の食事のことという、細かくてどうでもいいような話ばかりだった。
 マキさんは驚くほど色んなことを知っていた。例えば、僕が綾波の部屋にプリントや新しいネルフのカードを届けに行ったことまで。その時の話になって、僕はすごく緊張した。まさかと思いながらも、万が一部屋の中で何があったか知られていたら、言い訳のしようがない。下手なことを言えば一生からかわれることになる。事故だと言っておとなしく引き下がるマキさんとも思えない。でもさすがにそれは知らないようだった。特に突っ込んで聞かれることもなく、綾波も黙っていてくれて僕は安心した。

 話はあちこちに飛んで何の脈絡も感じられない。たぶんマキさんは、何か特別に僕たちから答えを得ようとしているわけではない。僕たちがどんな人間で、普段どんなことを考えて生活していたかということを知りたいのだろうと、そう思う。それにどんな意味があるのかは良くわからない。

 やがて話は完全に雑談になった。お茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら、僕たちはずっと喋っていた。時間が経つにつれて、僕たちが話しているよりもマキさんが自分のことを喋っている時間の方が長くなった。色々な失敗談や自慢話、マキさんが僕たちくらいの年だった頃の話、好きだった男の子の話……。
 それは楽しくて、綾波も興味深そうに聞き入り、時には質問したりもしていた。



 話は雑談のようだったけれど、マキさんが何を知りたいのかは何となくわかった。私たちには何も言わないけれど、たぶんマギの調査は進んでいて、それの傍証が得たいのだと思う。
 結局あの時、何が起こったのか。ここにいない人は、なぜいないのか。

 そして――。

 いる人は、なぜいるのか。

 LCLの中に溶けている時、それでも個としての自我を保っていたのは、私と碇くん、それに渚カヲルという少年だけだった。
 あの時に何が起こったのか、自分の考えを主観的に語れるのは私達しかいない。私と碇くんしか。みんなはあの時、同じことを思っていたはずだ。そしてそれは、必ずしも自分の思っていたことではない。自我境界線が崩壊していれば自分と他人の区別はなく、そこに純粋な主観というものは存在し得ないのだから。
 でも、ただストレートに、あの時何が起こって何を考えてどう思ったか言いなさいといわれても、そんなに簡単に答えられるものではない。今何を思っているかではなく、その時に何を思っていたかを純粋に主観的に語るのは、自分について完全に客観的に語るのと同じくらい難しい。
 それはマキさんも良くわかっていて、だから雑談のような話をして私たちの考え方を知り、それを類推する手掛かりにしようとしているのだろう。もちろん、いずれはあの時のことを聞かれると思うけれど。

 でも、ただ単に仕事の話をしているとも思えなかった。時折見せるマキさんの目は、クラスのみんなが他愛もないお喋りをしている時と同じ輝きを持っていたから。
 お菓子を食べながらの、他愛のないお喋り。今の私には、それが楽しいものだということがなんとなくわかる。楽しいということがどういうことなのか。それは、それが必要であるかどうかには関係がない。

 ……お菓子というものを、はじめて食べた。ポテトチップというものと、おせんべというもの。それは今まで経験したことのない、不思議な味だった。美味しいと思う。
 碇くんに出会って、美味しいということを知った。それまではエネルギーの補給でしかなかった食事という行為を、楽しいと感じた。
 お菓子は美味しいけれど、碇くんの作ってくれるご飯は、美味しくて、そして暖かい。マキさんがボーイフレンドに作ってあげたというお弁当は、冷めていても暖かいものなのかもしれないと思う。私がご飯を作ったら、碇くんはそれを暖かいと感じてくれるだろうか……。

 夜になって、食事を済ませてからマキさんは帰って行った。



「ねむたい……」

 綾波は風呂から上がって、本当に眠そうな目でそう言った。

「先に寝てて。僕もお風呂入って来るから」
「うん……」

 寂しそうな綾波の顔をみて、僕は少し笑ってしまった。

「すぐに出るよ」

 彼女は黙ってうなずいた。僕は背中に視線を感じながら、着替えを持って脱衣所に入る。
 湯船に身体を沈めていると、急にさっきの綾波の寂しそうな表情が頭をよぎった。言いようのない不安感が僕を襲う。

「なんだよ……」

 口に出して言ってみても、気持ちは落ち着くものではない。身体を洗うのもそこそこに、僕は風呂から飛び出した。
 部屋に駆け込むと、綾波は例によって明かりをつけたまま眠っていた。すーすーと可愛らしい寝息をたてて。

 力が抜けた。

 どうして不安な気持ちになったのか、良くわからなかった。
 いまさら風呂に入り直す気にもなれず、明かりを暗くして綾波の寝顔を見つめる。飽きることはなさそうだった。



 夜中に目が覚めた。明かりは暗くなっている。ベッドの中で私は独りだった。どくん、と心臓が高鳴り、思わず身体を起こした。碇くんはベッドに頭を乗せ、床にしゃがんだまま眠っていた。

「碇くん、風邪ひくわ」
「ん……」

 手を引くと、碇くんは半ば眠ったままベッドに上がって来た。

 おやすみ……

 タオルケットをかけると、彼の口唇は確かにそう動いた。声は聞こえなかったけれど。

 おやすみなさい、碇くん

 私もタオルケットにもぐりこんで、心の中で彼に言った。

 腕枕をしてもらいたかったけれど、彼を起こしてしまうのが嫌だった。
 そっと碇くんの手を取って、頬にあてる。ほんのりと暖かかった。



 お昼を過ぎてもマキさんは来ず、連絡もなかった。

「来ないね、マキさん……」
「……」

 連絡をしてみようと思って、マキさんの自宅の番号も携帯の番号も知らないことに気づいた。僕が知っているのはネルフの代表番号だけ。綾波は他にリツコさんの部屋と司令室の直通の番号を知っていた。
 最も連絡の取れそうなのはリツコさんの部屋だろうか。
 ためらいながら電話を取り、ダイヤルした。受話器の奥で呼び出し音が鳴り続ける。三十回数えてもう切ろうかと思った時、受話器を取る音が聞こえた。

「……」
「もしもし?」
「……はい」

 息を殺したような沈黙があってから、男の人のかすれたような声が聞こえた。

「あ、あの、碇シンジといいますけど……」
「え? ああ、碇君。すまないね。電話が鳴るのは初めてだったから。で、用件は?」

 男の人が動揺しているのが、はっきりとわかる。

「あの、長門マキさんをお願いしたいんですが」
「あ、えーと長門先生は会議中だけど」
「そうですか。……じゃあ、電話を下さいって伝えてもらえますか」
「電話をね。はいはい。わかりました」
「よろしくお願いします」

 僕がそう言うと、少し乱暴な感じで電話が切れた。

「会議中だって」
「そう……」
「どうしようか……」

 僕は動揺していた男の人の声を、もっとはっきり言えば脅えていたような声を必死に頭から追い払おうとし、奥歯を噛んだ。
 なぜ電話の向こうの男の人は脅えていたのか。僕のことを恐れなければならない何かがあるのか。
 考えても仕方のないことは考えない。無意味に考え込まない……。

「碇くん……」

 長い沈黙の後、綾波が口を開いた。

「お散歩、しよ」

 思いっきり頭を殴られたような気分だった。同じことの繰り返し。なんで僕はこうなんだろう。綾波にしてあげられることが絶対に何かあるはずだって思ったのは、ついこの間のことだったはずだ。それなのに、僕は彼女に気を使わせてばかりだ。
 一瞬のうちに頭を切り替えた。ここで考え込んでいてはだめだ。

「ちょっと待ってて」

 僕は立ち上がって、冷蔵庫の中身を確認した。同じ間違いはしない、と思いながら。

 外に出て、僕は思い出したように言った。

「マキさんって、僕たちの携帯の番号、知ってるよね」
「知ってると思う」

 彼女が答える。別に知らなくても構わない。どうせ僕たちには監視がついているはずだ。

「綾波、走るよ」
「?」

 綾波がいそがしく瞬きを繰り返す。驚いたときの癖。

 そんな気分になれなくても、無理に笑っていれば元気になれることもある。もし元気になれるなら、その方がいい。無意味に落ち込んでいるよりは。

「ほら、いくよ!」

 僕は彼女の手を取って走りだした。視界の隅で、誰かが僕たちの後を追って走りだすのが見える。構わずに走り続けた。どこに行くということもないけれど、とにかく今は立ち止まらずに走ろうと思う。綾波を連れて。



 碇くんは私の手を取って、いきなり走りだした。意味はわからないけれど、手を引かれるままに私も走った。こんな風に一所懸命走るのはいつ以来だろう。憶えがなかった。

 ずいぶん長く走っていたような気がするけれど、たぶん五分か十分くらいの時間だったと思う。私たちは手をつないだまま公園のベンチに座って、息を弾ませていた。

「つ、疲れたね……」

 碇くんがとぎれとぎれに話しかける。私は黙ってうなずいた。息をするのに忙しくて声も出せないのに、気分は悪くなかった。
 顔を上げると、少し離れたところに、私たちと同じように息を弾ませている人がいた。男の人が二人、女の人が一人。私たちを監視している人達だろうか。

「何か飲むものを買ってくるよ。お茶とかでいいかな」
「うん」

 手を離すのは嫌だったけれど、私はうなずいた。

「挨拶して来た方が、いいかな……」

 彼はまだ息を弾ませている人たちを見てそう呟き、自動販売機の方に歩いて行った。走りはしなかった。
 手に四本の缶ジュースを持って戻って来ると、監視の人たちの所を順番に回って飲み物を渡している。その人たちは少し戸惑ったそぶりを見せながらも、それを受け取っている。

「なに、話してきたの?」
「急に走ったりしてすいませんって」

 彼はそう言いながら私に飲み物を差し出した。

「こ、小銭がなくなっちゃってさ」

 彼が照れたように言う。
 一つの飲み物を、碇くんと二人で半分こ。
 私はどきりとした。どきどきする理由なんてない。でも心臓は勝手に暴れる。それは理屈じゃない。
 プルトップを開けて、一口飲む。それから、黙って碇くんに差し出した。
 受け取る彼の手は、少し震えていた。



 飲み物を順番に飲みながら、僕たちは黙っていた。何を話していいのかわからない。監視の人に迷惑をかけたのは事実だから、飲み物を買って来たのは間違いじゃないと思う。四本買って小銭がなくなったのも本当だし、お札の受け入れも中止のままなら、綾波と半分ずつにするしかない。他に方法はない。でも……。気まずい。
 横目で綾波の方を見ると、彼女も横目で僕の方を見ていた。僕は反射的に立ち上がった。

「綾波、行くよ!」
「?」

 僕は彼女の手を取って、また走った。何か言い訳を考えておかなくちゃと思いながら。



 お茶が冷たくて美味しい、と言おうと思ったら、碇くんはまた私の手を引いて走り出した。私はお茶をこぼさないように気を付けながら、彼について走った。

 スーパーマーケットの前で、私たちは荒い呼吸を静める。私は手に持っている飲み物を碇くんに差し出した。少し温まっているかもしれない。

「ぜんぶ飲んで」
「あ、ありがとう」
「碇くん……」
「ん」
「どうして走るの?」

 当然の疑問。
 碇くんはお茶にむせて咳き込んだ。

「だいじょうぶ?」
「……だ、だいじょうぶだよ。ごめん」
「……」
「ほ、ほら。最近、ずっと部屋の中にいてばっかりだろ。昨日はお菓子も食べたし。す、少しは運動しないと太るからさ」

 私はD型装備を想像した。
 お菓子は美味しいけれど、太るのは嫌だなと思う。

 碇くんは店の中で、何か食べたいものはないかと私に聞く。前にも同じようなことを聞かれた。まだ私にはわからない。食事に興味を持ったのは、碇くんの作ってくれたご飯を食べてから。知らないことが多すぎて、良くわからない。
 正直にそう答えると、彼は店の中をあちこち引っ張って、色々教えてくれた。これはちょっとしょっぱくて、すごくご飯が進む。これはほんのり甘味がある。あれはよく火を通さないとお腹を壊すことがある。それは小骨に気をつけて。これは少し苦味があって――。
 彼はすごく饒舌だった。話の内容は良くわからなかったけれど、覚えていきたいと思う。

「お菓子とかも、あんまり食べたことないの?」
「昨日、はじめて……」
「そっか」

 彼は私をお菓子売り場に連れて来て、また解説をはじめた。これはお醤油味で、食べだすと止まらない。これはすごく甘くて美味しいけど、気をつけないと太る。それはこれとは違う和風の甘さで、お茶に良く合う。あれは塩味で、やっぱりやめられない。アスカはこれが好きで……。
 彼は一瞬言葉を詰まらせたけれど、すぐに立ち直った。

「あんまりたくさん食べると太っちゃうから、これくらいにしようか」
「うん」

 カートの中は山盛りの野菜と、たくさんのお菓子と、私にはよくわからないもので一杯だった。



 綾波と一緒にレジに並んで、財布を開く。大変なことに気づいた。

 お金がない。

 今までの買い物は、ミサトさんに生活費としてもらっていた現金でしていた。それを使い切ったのだ。
 綾波がお金をもっているとは思えない。僕たちを監視している人は……見当たらなかった。店の外にいるのだろうか。
 お金がないとなれば、カードで払うしかない。僕が持っているのはネルフのカードだ。クレジット機能があるという話は聞いていたけど、使ったことはない。必要がなかったから。そもそもネルフなんてもうないのに、カードなんて使えるのだろうか。

 お客さんの数は少なく、すぐに順番は回ってきた。

「あ、あの、これ、使えると思うんですけど」

 僕はカードを出して言う。使えると思う根拠はない。でもそう言うしかない。声が上ずってしまう。心臓が爆発しそうだった。カードが使えなければ買い物は諦めるしかない。僕はせっかく選んだ品物を棚に戻している自分の姿を想像した。綾波に軽蔑されるかもしれない……。

 店の人はカードを手にとって首をかしげ、それから僕たちを見て少しだけ、でも明らかに驚いた顔をした。

「ち、ちょっと待って下さい」

 カードを機械に通す。店の人がそれを見る目は真剣そのもので、僕は祈るような気持ちで待った。

「……大丈夫、使えますよ」

 店の人はディスプレイの表示を確認して、僕たちを見て微笑んだ。レジを打ち始める。僕はそっとため息をついた。ふと顔を上げると、少し離れたところで監視の人が携帯電話を持って立っているのが見えた。その人もため息をついたみたいだった。電話を持つ指が白い。

「ありがとうございます。……がんばってね」

 店の人はカードとレシートを僕に渡して、笑いかけながらそう言った。

「あ、はい」

 僕は我に返り、とりあえずそう答えた。

 なんとなく釈然としない気分で店を出る。買い物をしすぎて、少し綾波に持ってもらっているのも気が重い理由だ。

「碇くん……カードのこと……」
「うん?」
「マキさんに相談した方が、いいかもしれない」
「……そうだね」

 僕は曖昧にうなずいた。
 綾波も同じことを感じている。カードを渡した時の表情、清算を終えたときのセリフ。がんばってねなんて、顔見知りでもない客にいう言葉じゃない。
 でもマキさんになんて言えばいいのだろう。

 ネルフ名義じゃない、別のカードを下さい。

 そんなこと言えるわけがない。マキさんは別に僕たちの保護者じゃないんだから。

 僕は愕然とした。マキさんは僕たちにすごく良くしてくれるけれど、マギの分析をするために来ている人で、僕たちを保護するためや世話をするためにいるわけじゃないんだ。仕事が終れば、もとの場所に帰ってゆくのだろう。僕たちには帰る場所なんてないのに……。

 帰る場所なんてない。僕たちはここで生きていかなければならない。生きていくつもりならば。

 僕たち。

 僕と、綾波。

 綾波は僕と生きてくれるのだろうか。
 僕には綾波がそばにいないことが想像できなかった。急に彼女の顔を見たくなって、頭を上げた。

 綾波は不思議そうな顔で僕を見つめている。

「に、荷物、重くない?」

 とっさにどうでもいいことを言って誤魔化した。

「だいじょうぶ」
「そう」
「碇くんは、重くないの?」
「うん、平気だよ」

 僕はそう答えながら考える。これからどうやって生きていけばいいのか――。


 食事を済ませ、入浴を済ませてもまだマキさんからの連絡はなかった。無意味に走ったせいで疲れてもいたし、もう眠ってしまおうと思う。
 明かりを暗くした部屋で、綾波と二人きりで手をつないでいると、少し落ち着いた気分になれる。彼女も疲れていたのか、その呼吸はすぐに眠っている人のそれになった。僕もすぐに眠りに落ちた。

 明け方近くになって目が覚めた。左腕が心地よく痺れている。いつのまにか腕枕をしていた。綾波を起こさないようにそっと腕を抜き、しばらく彼女の寝顔を見つめる。僕は綾波がいないとダメなのだろうかと、ふと思う。

 不意に電話のベルが二回鳴って、切れた。

 また夢を見ているんだなと思う。夢の中にいるとは思えなかったが、現実と夢の区別はつかない。ミサトさんなら話がしたい。リビングに行って電話の前に立つ。
 再びベルが鳴り、僕は受話器を取った。

「シンジ君? ごめんね。寝てた?」

 マキさんだった。夢ではないらしい。

「いえ、ちょうど目が覚めたところでした」
「レイちゃんは?」
「寝てますけど……」
「そう……。そうよね。こんな夜中にごめんね。って、もうすぐ朝だけど」
「……」
「ね、今からそっちに行ってもいいかしら?」
「え? ええ、かまいませんけど……」
「じゃあ、すぐ行くわ。十分もかからないと思うから」
「わかりました」

 こんな時間にどうしたんだろう。僕は切れた受話器を見ながら思う。別に急用があるって感じでもなかったけれど……。

 五分もしないうちに、そっとドアをノックする音が聞こえた。チャイムを鳴らさないのは、綾波を起こさないようにするためだろうか。

 ドアを開けると、マキさんが憔悴し切った様子で立っていた。

「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。……あたし、そんなに酷い顔してる?」
「今にも倒れそうな感じです」
「そう……。やぁね、歳とるって」

 僕は言葉に困り、黙ったままマキさんと部屋に入った。

「急に電話が鳴ったから、びっくりしました」

 会話のきっかけを探して、僕はどうでもいいことを言った。

「電話は急に鳴るものよ。予告があってから鳴ったら、その方が怖いわ」
「……それはそうですね」

 リビングに座り込んだマキさんは大きくため息をつき、それから急に言った。

「レイちゃんは、まだ寝てる?」
「ええ」

 マキさんは無言で立ち上がると、綾波の眠っている部屋に歩く。顔だけ部屋の中に入れて、すぐに戻って来た。

「よく寝てるわ。ぐっすり」
「……」
「夜よく眠れるのって、いいことよね。昼間、充実してたり運動したりすると、よく眠れるのよね」

 急にいたずらっぽい顔になって、マキさんが言う。
 その思わせぶりな言葉に、僕は動揺する。でも考えてみれば、報告くらい上がっていて当たり前かもしれない。

「缶ジュースをありがとうって伝えてくれって言ってたわ。内調の人」
「ないちょう?」
「あ、そういえば言ってなかったわね。シンジ君たちの警備は内閣調査室が担当なの。略して内調」
「はぁ」
「あんまり気にしなくていいわ。政府のやることなんて関係ないし。あたしとは命令系統もまるで別だし」
「……」
「何かあっても報告が回ってくるとは思ってなかったけど、思ったより融通が効くのよね」
「……」
「ま、たまには走らされるのもいい薬でしょ」

 マキさんはほとんど一気に喋ると、またため息をついた。
 疲れているだけじゃなくて、何かストレスもたまっているように思えた。

「……おなか、減ってないですか」
「うん、ご飯は大丈夫。ありがと、気を遣ってくれて」
「い、いえ……」

 柔らかく微笑むマキさんに少しドキリとして、僕は目をそらす。

「じゃあ、お茶でも。あ、羊羹もありますけど」
「羊羹? いいわね。ぜひもらうわ」

 僕はお茶をいれながら、カードのことを話し出すタイミングを図っていた。

「マキさん……」
「なぁに?」
「マキさんて、僕たちの保護者じゃ、ないですよね」

 話の切り出し方としては最悪だと、言ってから思った。こんなことを言うつもりじゃない。でも口が勝手に動く。

「保護者? やぁね。違うわよ。どうして?」
「いえ、なんでもないです」
「あたしは友達だと思ってたんだけど」
「友達……ですか」
「なによ。こんなおばさんとは友達になれないとでも言いたいの?」
「マキさん……根に持つ性格ですか?」

 マキさんは笑って答えない。
 友達、か……。

「そんなこといいからさ、早く羊羹、食べさせてよ」

 少し厚めに切った羊羹と熱いお茶を出すと、マキさんは本当に嬉しそうな顔で口にした。

「やっぱ日本人はお茶と羊羹ね。こういう時だけは血を感じるわ」

 ずずずと音を立ててお茶を飲む。こういう時のマキさんは、あどけなくて本当に子供のようだと思う。



 友達。

 独りのベッドの中で、私はそんな言葉を聞いていた。
 友達と呼べるような人は、私にはいなかった。
 弐号機パイロット。クラスのみんな。碇司令。ネルフのスタッフの人たち。
 知っている人はたくさんいたけれど、友達じゃないと思う。そしてその人たちですら、ここには誰もいない。
 碇くんを除いては。
 友達が欲しいと思ったことはなかった。でも私は今、たくさんの人と色々なことを話して、色々なことを経験したいと思っているのかもしれない。

 ……またいつものようにマキさんが軽口を叩いている。二人の声を遠くで聞きながら、私は再び眠りに落ちてゆく。

 やっぱ日本人はお茶とようかん。

 その言葉が耳に入って、私はほとんど無意識のうちに起き上がった。碇くんと一緒に買ったようかん。ようかんって、食べたことない。いろんなことを経験したい……。



「あ、綾波。おはよう」

 僕はふらふらと出てきた綾波に声を掛けた。例によって髪はぼさぼさで、目は半分以上閉じられている。

「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」

 綾波は黙ったまま歩いてきて、ぺたんと座った。マキさんがつまんでいる羊羹をじっと見つめている。

「あ、綾波も羊羹食べる?」

 こくりと頷く。

「こんな時間に羊羹なんて食べたら、太るわよ」
「…………やめる」
「嘘よ。毎日とかでなければ大丈夫。心配ならまたシンジ君と走れば?」
「……たべる」
「シンジ君、あたしにももう一切れちょうだい」
「そんなに食べたら太りますよ」
「……やめる」

 綾波のまねをしたマキさんの言葉を聞いて、僕は笑ってしまった。

「それって、綾波のまねですか?」
「そ。似てるでしょ?」
「全然違いますよ」
「レイちゃん、似てなかった?」
「……よくわかりません」
「あら。自信あったのに」

 マキさんはがっかりした顔を作る。

「もう一切れ食べていいですから、機嫌直してください」
「修行するわ。洞窟でも探さないと」

 僕は綾波の分とマキさんのもう一切れと、自分の分の羊羹を切って、お茶をいれた。

「……あなたたちといっしょにいると、なんだか元気になるのよね」

 眠そうな目で、でもしっかりと一口食べた羊羹を持っている綾波を横目で見ながら、マキさんが笑顔で言う。

「シンジ君が言い出すまで黙ってようと思ってたんだけど、羊羹のお礼に教えてあげる」
「な、なんですか?」
「カードのこと。あなたたちの持ってるカードのクレジット機能は、生きてなかったのよね」
「え? でも」
「ほら、ネルフはもうないんだから、クレジット機能もくそもないのよね」
「く、くそって」
「最初に本部に来てもらった時にパスだけはなんとか生かしたんだけど、その時はクレジットの方のシステムって良くわかんなかったのよね。技術が言うには。今は偶然判ったんだけど、生かしても意味はないから、そのままになってたのよね」
「……なんだか言い訳のように聞こえるんですけど」
「黙って聞きなさい。それで、シンジ君がカードを使おうとしてるって内調から連絡があって、あわてて生かしたのよ」
「そうですか……」
「警備担当が、あなたがカードを使おうとしてることに気づいて、電話して、あたしの所に電話が転送されて、技術が機能を生かす。秒単位の仕事だったのよ」
「す、すいません」
「別に謝るようなことじゃないわ。内調の勘の良さは凄いと思ったけど……飲み物をご馳走したのが効いたのかもね」
「……」
「で、これからのことだけど」
「はい」
「いろいろ話がややこしいんだけど、ネルフのカードは使わないほうがいいと思うのよね。いろんな意味で」
「そうですよね」
「とりあえず、これを使って」

 マキさんは、マキさん名義の普通のクレジットカードと現金を一万円、僕に渡した。

「いいんですか?」
「子供は心配しなくていいの。あたしの懐が痛むわけじゃないし。近いうちにちゃんとするから」
「……はい」
「何か質問、ある?」

 聞くなら今しかないと思う。

「……気になっていることが、あります」
「いいわよ。気分いいから、なんでも教えてあげる」
「レジの人が、僕たちに向かって、がんばってねって言ったんです」
「ふぅん」
「どうしてかなって思って。……わかんないですよね。そんなこと」
「……あたしはその人じゃないから断言はできないけど、想像はつくわよ」
「え?」
「シンジ君はネルフのカードを使ったんだから、あなたがネルフの人だってことは、その人にもわかったわよね」
「……はい」
「一緒に還って来た人に対しての、そして人類を守った人に対しての言葉としての、がんばってね」
「……」
「もうひとつ、忘れてるかもしれないけど、あたしたちはみんなLCLに溶けて、ひとつになってたのよね」
「……」
「だからその人はあなただったの。溶けていた時は」

 考えたこともなかった。そんなこと。

「あの時にどんなことがあったのかは分からないけれど、みんなが何を考えていたかをぼんやりと覚えている人が、ほんの少しだけいるの。それがわかったのは最近だけど」
「それは……」
「それがいったい何を意味しているのか、まだわからないわ。これから考えていかなければいけないわね」
「……」
「ひとつ言えるのは、例えぼんやりとでも覚えている人は、あなたたちの味方になってくれるだろうということ。そうでない人は敵になる可能性があるということ」
「敵、ですか?」
「そう。でもそんなに気にすることはないわ。ナイフ持って飛びかかって来る人がそうそういるとは思えないし、そのためにガードがついてるんだしね」
「……敵って、いったい……」
「その話は明日にしましょ。……日付が変わってるからもう今日だけど。眠くなってきたわ。あたし、泊まってもいいかしら」
「え、ええ。構いませんけど」
「レイちゃんもそろそろ寝ないと美容に……寝てるわね」

 綾波は羊羹を手に持ったまま眠っている。僕は笑ってしまった。考えるのをやめて。

「しょうがないわね。この娘も」

 マキさんも笑いながらため息をつく。

「寝室に運びましょう。シンジ君、頭のほう持って。胸つかんじゃダメよ」
「掴みませんよ!」
「大声出すと起こしちゃうわよ。いい? せーのっ!」

 マキさんの静かな掛け声と共に持ち上げた綾波の身体は、まるで羽根のように軽かった。マキさんも拍子抜けしたような顔をしている。

「軽いわねぇ。異様に」
「そう、ですね……」

 綾波をベッドに横たえてタオルケットをかけ、リビングに戻ってマキさんが言う。

「軽すぎるわ。レイちゃん。中に何が入ってんのかしら」
「……」
「菜食主義の人も世の中にはたくさんいるけど、やっぱお肉とかも食べさせないとダメなんじゃないの? おっきくなれないわ」

 大きくなれない、か……。

「そうかもしれませんね……」
「ひき肉とかもダメなのかしら」
「……聞いたことないです。そう言えば。肉は嫌いって、そればっかり思ってて」
「こんど聞いてみましょう。食べたことがないようなら、試してみればいいわ」
「そうですね……」

 僕はあの時の、考えられないほど巨大だった綾波のことを思い出していた。夢というにはあまりにもリアルな記憶だった。でも今の綾波とは、どうしても頭の中で結び付けられない。

「もう明るくなってきたわね……」

 僕は我に返った。

「寝るわ。シンジ君が起きてたらでいいけど、お昼くらいに起こしてくれる?」
「わかりました」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 マキさんは手を振ってミサトさんの部屋に入って行った。僕も綾波の眠っている部屋に戻る。
 綾波は、まるで邪気のない子供のように、静かに眠っていた。夢でも見ているのだろうか、微かに笑顔を浮かべている。

 僕はいつまでも、その寝顔を見つめていた。


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