結局、僕はずっと起きていた。眠くはなかったし、無理に眠ろうとも思わなかった。綾波の寝顔を見ていて、それで時間が過ぎた。ただそれだけのことだ。
この部屋には窓がないから、いつ朝が来たのか良くわからない。気がついたらもう昼前だった。マキさんを起こさないといけないと思って部屋を出ると、もうリビングでくつろいでいた。ミサトさんのタンクトップとショートパンツ姿で。
「おはよう。早いわね」
「おはようございます。……ずいぶんラフな格好ですね」
「あら。いけなかったかしら?」
「いえ、別に構いませんけど」
マキさんは何も気にしていないようだった。僕なんて子供だから。
「よく眠れた?」
「いえ、なんだか眠くならなくて」
「レイちゃんの寝顔見てたら、朝になっちゃったとか?」
「あ、い、いや、別にそんなことは……」
図星を指されて、僕はうろたえた。
「大当たりって感じね?」
「いやだから」
「いいじゃん別に。隠さなくても。青春よ、青春」
たぶん僕の顔は赤くなっているのだと思う。何か言い返したいが、言葉が出てこない。
「おはようございます……」
途方に暮れていると、ほとんど消え入りそうな綾波の声が聞こえた。
「おはよ。……って、まだ寝てるんじゃないの?」
半分以上閉じられているどころではない。綾波の目は開いているようには見えなかった。よく前が見えるなと思う。まだ寝てるんじゃないかとマキさんが言うのも無理はない。本当にまだ眠ってるんじゃないだろうか。
綾波は黙ったままふらふらと僕たちの方に歩いて来ると、ゆっくりと座って下を向いた。また目を閉じたような気もしたが、良くわからなかった。
「……レイちゃんて、低血圧なの?」
「さぁ、そんなことないと思いますけど……」
綾波が黙っているので、少し前の朝のことを思い出しながらそう答えた。
「レイちゃん、眠かったらまだ寝ててもいいのよ」
返事はない。
「レイちゃん? ……寝てる?」
聞こえるのは静かな寝息だけ。
「寝てますね」
「……」
「また運びますか」
「そのうち起きるでしょ。毛布だけ掛けておいてあげればいいんじゃない?」
マキさんが肩をすくめる。
僕はとりあえず、まだ座ったままでいる綾波の身体を横たえ、頭の下にクッションを入れようとした。
とたんにむっくりと起き上がった。でもその瞼はまだ開いているようには見えなかった。
「なんか怖いわね」
その声に反応することもなく、綾波はまたぱったりと倒れ込んだ。今度は僕の膝に頭を乗せ、丸くなって。
マキさんが笑いをこらえている。
「なかなか刺激的な光景ね」
僕は綾波にひざ枕をしていて、つまりマキさんは、ほぼ正面から綾波のことを見ていることになる。綾波は膝を抱えるようにして丸くなっていて、そして彼女がパジャマ替わりに着ているのは、例によって僕のシャツだけだ。
と、いうことは。
ちらりと下の方に目線を移す。視界に飛び込む綾波の白い脚。僕はあわてて目をそらした。
「いま、ちらっと見たわね?」
「い、いいじゃないですか。別に。ちょっとくらい」
僕は開き直る。
「いいわよ。別に。なんだったらじっくり見たら? そうそうある機会でもないし。シャツめくったらダメだけど」
なぜマキさんはこうまで人をからかうのが好きなのか。僕はため息をつきながら下を向き、またあわてて顔を上げた。
「幸せそうねぇ、レイちゃん」
なるべく脚を視界に入れないようにしながら、綾波の横顔を見る。微かに笑顔を浮かべ、本当に幸せそうだ。どんな夢を見ているのだろうか。
「……で、いつまでそうしてるつもりなの? だんだんムカムカしてきたんだけど」
綾波の横顔に見とれていると、マキさんがそう言った。でも、僕にそんなことを言われても困る。
「レイちゃん、そーやって寝てるとシンジ君が反応するわよ」
なんだよ、反応って。
そう言い返そうとした時、また綾波がむっくりと起き上がった。ひとしきり目をこすったあと、黙ったまま立ち上がって洗面所に歩いて行く。
「意識はあるのかしらね?」
「……どうなんでしょうね」
僕とマキさんは唖然として、洗面所に去って行く綾波の後ろ姿を見つめる。ひとしきり洗面をする音が聞こえ、部屋に戻って着替えて出て来た。薄いオレンジの大きなTシャツと、その裾からわずかに見える空色のショートパンツ。目は開いているみたいだ。彼女はとことこと僕たちの方に歩いて来て、ぺたんと座った。
「おはようございます」
ぺこりと頭を下げて言う。
「……お、おはよう」
マキさんがあっけにとられている。
「あ、綾波?」
「なに?」
もしかすると僕にしかわからないのかもしれないけれど、その声はほんの微かに上ずっていた。綾波なりの照れ隠しなんだなと思う。
「朝ごはん、作ろう。手伝ってよ」
「うん」
「ここにいるとぉ、なぁんかまったりしちゃうのよねぇ」
食事を終え、お茶をすすりながらマキさんが言う。完全にくつろいでいる。
「どうにも仕事をする気にならないっていうか」
「はぁ……そうですか……」
言い訳をしているのだろうか。
「ぶっちぎっちゃおーかなー。今日あたり」
何とも言いようがない。
「マキさん……」
僕は感じていた疑問を口にすることにした。
「なぁに?」
「僕たち、ずっとこうして家にいて、いいんでしょうか……」
「どういうこと?」
「例えば本部に行って何か手伝うとか、あるような気がするんですけど……」
「尋問でも受ける? エキスパート、いるわよ」
「必要なら」
マキさんはちょっとひいたみたいだった。半分以上は冗談のつもりだったのだろう。僕も冗談のつもりで返したのだけれど、通じなかったみたいだった。
「……教えてあげる。どうして本部に呼ばないか。昨日話してた“敵”のことも」
「……」
マキさんは微笑んで、でも少し厳しい表情で、僕と綾波を交互に見た。僕は緊張する。綾波の表情は読み取れない。
「ミサトはね、使徒戦に於ける戦術を立てた時に……」
「……」
「これを一般・有限・二人・ゼロ和ゲームと仮定したの」
「……は?」
「戦闘はいつか終る。プレイヤーは二人、即ちネルフと使徒。勝負を数値に置き換えれば利得の和は常にゼロ。彼女に与えられた情報を考えれば、当然の帰結といえるわ」
「あ、あの、マキさん……エヴァは一機じゃなく……」
「必然的にミニマックス定理が成立することになる。つまり一方のプレイヤーは最小利得を最大化する戦略を持っていて、もう一方のプレイヤーは最大損失を最小化する戦略を持っている。そして、これらの戦略は同じ値をもたらす。ゼロ和だから。ここまではいいわね?」
「い、いや、その……」
「結果的に言えることなんだけど、この仮定は間違っていたわ。なぜなら彼女の持っていた情報は欺瞞だらけだったから」
「ち、ちょっと待ってく――」
「プレイヤーは二人ではなかった。ゼロ和ですらなかったのよ」
「だからエヴァは――」
「ネルフ内部においても組織自体の目指す最終的な目的は隠匿されていた。そして、その目的は上部組織であるゼーレとも異なる。国連は知る由もない。ミサトは使徒を倒すことのみがサードインパクトを防ぐ手段だと信じていた。もちろんそれは、ある意味では正しいんだけど」
「あの……」
「ミサトは有能だったといえるわ。使徒の能力が全く不明な以上、戦術は一定の部分を勘に頼るのはやむを得ないにしても、その勘が外れた場合のフォローもしっかりとしている。個々の作戦において、最小利得は死守するという決意、即ちサードインパクトだけは回避するという明確な意志が見てとれる。わからないのは碇司令ね。戦力の逐次投入という愚を数回にわたって犯している。戦術の基礎も知らないとは思えないから、何か戦略的な理由があったはずだけど、それがどうにも判然としないの」
マキさんが何を話しているのかさっぱりわからない。何かすごく大事なことを話しているような気もするけれど、僕は急激に眠気を覚えた。結局、昨夜は一睡もしなかったんだった……。
「ここまで、よく憶えておいて。ちょっと話を変えるわよ」
「はぁ……」
「使徒独自の固有波形パターンは、構成素材の違いはあっても人間の遺伝子と99.89%まで同じだということは知ってるわね? これは戦略的にも生物学的にも非常に重要なことを示唆しているの。人間の持っているDNAのうち、実際に遺伝子として使われているのは数%に過ぎない。5%以下だと言われているわ。あとは無意味な塩基配列なの。人間はこの無駄ともいえる塩基配列を大事にコピーし続けている。もしもこの使われていない塩基配列からタンパク質を合成するスイッチ、厳密に言えばタンパク合成を抑制しているリプレッサーがあって、それが外れたとしたら……」
「……」
「冬月副司令は気づいていたような気がするの。記録はまだ発見されていないけれど、使徒独自の固有波形パターンの分析がそこまで進んでいたなら、そのパターンをどうやってベクター、つまりプラスミドかファージに転写するかという問題はあるけれど、それを適当な細菌に感染させれば遺伝子のクローニングが可能になる。そうすれば発生をさせることすら不可能ではない。これはつまりある意味では使徒そのもののクローンが作れるということよ」
「……」
「生物が進化するのに、突然変異、隔離、適応、淘汰などの古典とも言えるダーウィニズムだけで全てを説明できるものでないことははっきりしている。前世紀末から、進化においてウイルスの果たす重要性が指摘されていた。そして象徴的ともいえるイロウルの出現。あらゆる生物は、いわゆる生き残り戦略として結果的にゲーム理論を用いている。これらの事象が意味することは……寝たわね?」
「……眠りました」
目を閉じて寝息をたてている碇くんの横顔を見て、私はそう言った。
「じゃあ運びましょうか。レイちゃん、足の方持って」
「はい」
「……胸、掴んでもいいかしら」
「?」
「なんでもないわ。行くわよ。せーのっ!」
マキさんの掛け声で、私たちは碇くんをかかえ上げる。
「意外と重いわねっ、この子はっ」
部屋に運びながらマキさんが言う。私もうなずいた。碇くんがこんなに重いとは思わなかった。
「たまにならいいけど、毎日じゃさすがに厳しいわよ」
リビングに戻って、マキさんがいつものいたずらっぽい笑顔で言った。
私は昨晩、羊羹を食べに起きてからあと、朝起きるまでの記憶がないことに気づいた。つまり羊羹を食べながら眠ったということになる。でも目が覚めたときはベッドの上にいた。羊羹も持ってはいなかった。どうやって移動したのか……。
私は平静を装う。最近、こんなことが多いような気がする。
「で、そろそろ本部には行けそうかしら?」
顔色を変えないことに神経を集中していた私は、マキさんの言葉で我に返った。
顔を上げてマキさんの目を見つめる。優しい瞳だと思う。
でも私は、目を伏せて首を振るしかなかった。
「そう……」
「……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいわ。ゆっくりやって。いい返事を期待してるから」
私は黙っている。
「なんだったらマギの一つや二つ、ばっさり初期化してもいいんだけど。……まぁそういう問題じゃないわね」
冗談。きっと笑って答えるべきなんだろうと思う。
「プレッシャー? こういうの」
マキさんが笑っている。私も微笑みを作った。
「すてきな笑顔よ。シンジ君がやられたのもわかるわ。……さ、あたしもそろそろ仕事に行かないと」
「私は……」
「レイちゃんはシンジ君のそばにいてあげてくれる? あたし、今日は本部に行くから」
「……はい」
「目が覚めたとき、誰かが見つめてくれてるって、なかなかいいものよ。照れくさいけどね」
私が眠っていて、もし目覚めたときに碇くんに見つめられていたら、少し恥ずかしいと思うかもしれない。
「うー、着替えるのがめんどくさいわ。この格好で行ったらだめかしらねぇ」
私も本部に行くときは制服を着ていた。マキさんの今の姿でだめな理由はないけれど、それでもやっぱりだめなんだと思う。タンクトップにショートパンツでは。
マキさんが文句を言いながら立ち上がって、ふと私を見る。
「この服、ミサトのなんだけど、シンジ君に洗濯を……レイちゃんがやってくれても……やめた」
「……」
「こういうところから人はミサト化していくのよね……。シャワー借りるわね」
そう言ってバスルームに消え、でもすぐに出て来た。
「レイちゃん、パンツかして。どこに入ってる?」
「碇くんのタンスの、一番下です」
マキさんは少し驚いた顔をした。
「そっか。シンジ君と一緒か……。まあ当然よね……」
独り言のように呟きながら、碇くんの眠っている部屋に入って行った。
「あのね、パンツはこうやってたたむのよ」
私の下着を持って出て来たマキさんは、それを小さく、くるりと丸くたたんで見せた。不思議なたたみ方だと思う。
「かわいいでしょ?」
そう言って微笑みかけ、再びバスルームに消えた。
すぐにシャワーを浴び終えたマキさんは、葛城三佐の服を着て慌ただしく出て行った。じゃあね、と手を振って。
マキさんの眠っていた部屋には、昨日マキさんが着て来た服と、眠るときに着ていた服がしっかりと残されていた。
その服を手に取る。女の人の匂いがする、と思った。
まだ洗う必要のないものと洗えないものはそのままたたみ、洗うべきものはネットに入れて、自分たちの服も一緒にして洗濯機を回した。洗濯機を使えないものは手で洗う。自分の分はともかく、他人の服など洗濯する必要はないと思う。でもそれは苦痛じゃないし、嫌でもない。少し不思議な気持ち。
ベランダと葛城三佐の部屋に洗濯物を干すと、することがなくなった。
音を立てないように気をつけて、私は碇くんの部屋に入る。彼は静かに眠っていた。その寝顔を少しだけ見つめ、それから引き出しを開いて下着を一枚取り出した。マキさんがやって見せてくれたように、丸くたたんでみる。こういうのを、可愛いというのかもしれないと思う。
一度引き出しから全部出し、たたみ直してきちんと並べた。意味があるとは思えないけれど、少し楽しかった。
ベッドの方を見て碇くんがぐっすり眠っていることを確認し、ひとつ上の引き出しを開ける。
碇くんのパンツ。少しドキドキするのはどうしてだろう。
丁寧にたたんであったけれど、私の下着と同じように全部丸くたたんで並べ直した。
きれいに並んだそれを眺めていると、不意に碇くんの声がした。
「綾波……なに、してるの?」
身体が硬直した。心臓の鼓動が爆発寸前にまで高まる。
ゆっくりと振り返る。碇くんはベッドに横になったままだ。目もほとんど閉じられていて、まだ半分以上は夢の中にいるように思える。もしかしたら寝言だったのかもしれない。
大丈夫、と私は思い、彼の言葉には返事をせずに、黙ったままベッドに歩いて毛布の中にもぐりこんだ。
「ん……」
彼は小さく呻いて、私の肩を抱く。そのまま私を押すようにして、上半身だけ私に身体を預けて来た。
こんなふうになるのは二回目、と私は思う。あの時と同じなのは、碇くんが意識していないこと。あの時は事故のようなものだったし、今はたぶん寝ぼけている。
違うのは、私が碇くんの重さを心地よいと感じていること。
碇くんの匂いがする。下から手を回して、彼の背中につかまった。何も考えたくなかった。私は目を閉じる。このまま碇くんの中で眠って、目が覚めなければいいと思う。