離れていても、どこにいても

第拾話
Written by tamb

 何か柔らかいものの上に乗っているような感じがした。すごくいい気持ちだ。夢を見ているんだなと思う。僕は文字通り夢心地で、それを抱き締めている腕に少しだけ力を込めた。僕も下から抱き締められているみたいだった。

 すごくいい匂いがする。それが綾波の匂いだと気づくのに、さほど時間はかからなかった。夢なんて見てない。現実だ。僕は跳ね起きようとして、できなかった。綾波が僕につかまっていたから。

「どうしたの?」

 綾波の上でじたばたしている僕に向かって、彼女は不思議そうにそう問いかける。

「あ、そ、その、重くない?」

 間の抜けた答えだなと、自分でも思う。彼女は平気と答えたけれど、僕は肘をついて綾波に体重がかからないようにした。

「……」

 彼女はその行動が不満だったようで、僕につかまったまま離れない。かといって、このまま上に乗ったままでいるわけにもいかない。僕は鋼鉄の意志で無理やり綾波の腕をほどき、起き上がった。彼女も起き上がる。すごく不満そうな、少しふくれた顔で。綾波の不機嫌な顔も可愛いなと思い、少し笑ってしまう。

「なに?」

 彼女のご機嫌斜めな声を聞き流し、時々は怒らせてみようかななどと思う。
 でも、どうやって機嫌を直してもらったらいいんだろう。そう考えて、それはやめた。とりあえず今はどうしたらいいのか。

 たっぷり一分は考えて、結局僕はこう言った。

「よ、羊羹でも食べようか?」
「……食べる」

 彼女は不機嫌そうな顔のまま、それでも少しだけ笑顔になった。意外に簡単だなと思う。時計を見ると、ちょうどおやつの時間だった。



 碇くんと一緒に羊羹を食べて、買い物に行って、洗濯物を取り込んで、晩ごはんを作って、一緒に食べた。幸せっていうのは、こんな小さなところにあるのだと思う。

 何も考えたくないし、何もわかりたくなかった。わかってしまえば、やらなければならない。
 本当はわかっている。わかっていて、気づかないふりをしているだけ。そんなことをしていても、辛くなるだけなのもわかっている。碇くんをもっともっと傷つけることになることも。
 でもわかりたくなかった。考えたくなかった。碇くんと離れたくない……。

 夕食の片付けを終えると、碇くんは教科書とノートパソコンを持って来て、テーブルに向かって開いた。

「僕たち、中学生だからさ」

 私は何も言っていないのに、碇くんはそう話し出した。

「勉強が仕事だと思うんだ。もうすぐ学校も始まるはずだし、僕たちはあんまり学校行ってなかったからさ。今のうちに遅れを取り戻しておかないと。受験もあるしね」

 何かしないではいられない不安感。碇くんはそれに押し潰されまいと必死になっている。
 本部に行くこともできない。それは私のせい。マキさんと碇くんだけで本部に行くことはできるけれど、マキさんは私を一人にしたがらない。その想いが日毎に強くなって行くのが、私にはわかる。碇くんにもマキさんにも迷惑をかけているだけ。自分勝手な私。私の居場所はここにはない。そして私は、ここにいない。
 わかってる。でも碇くんと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。

 私は努めてさりげなく、彼に言った。

「お風呂、先に入るね」
「あ、うん」

 彼が答える。私が涙ぐんでいたことは、悟られなかったようだった。



 風呂上がりの、頬を少し上気させた綾波を横目で見て、僕も風呂に入ろうと思う。
 学校が再開されてないからしょうがないけれど、本当に毎日食べているだけだ。教科書なんて開いても、気は紛れはしない。何をしたらいいのか。すごく不安になる。何もないことが必ずしも平和なことなんじゃないんだなと、本当にそう思う。でも今は、やっぱりマキさんに頼っているしかないのだろうか。マキさんは僕たちを守ってくれると言った。でも保護者じゃないとも言った。友達だと。それなら僕もマキさんの力になりたいと思う。友達なら。
 結局、どうして本部に呼ばれないのか良くわからなかった。行ってもすることがないのかもしれない。行っても意味がないと。……僕はマキさんの力にはなれないのだろうか。

 マキさんの力になりたい。綾波のために何かしたい。僕はそう思う。でもそれは、僕を助けて欲しいという気持ちの裏返しだということもわかっている。死んでるみたいには生きたくない。だから僕を助けて欲しい。

 こんなことを考えていても意味はないのかもしれない。僕は僕でしかないし、綾波のためになりたいと思う僕の気持ちも、嘘じゃない。それが見返りを期待してのものだとしても。だったらもっと素直にならなければいけないのかもしれない。でも、僕を助けてって叫んで、もし拒絶されたら。あの時のように。綾波には僕を助ける義務などない。
 ……考えても意味のないこと。でも考えずにはいられない。それが生きているということなのだろうか。どうして僕は生きているのだろう。
 とめどない思考の波に流されてしまいそうになり、僕は口唇をかみしめた。

 風呂は命の洗濯よ。

 急にミサトさんの言葉を思いだし、僕は涙をこらえた。風呂に入ろう。


 着替えを取りに部屋に入る。引き出しを開けて、すぐに閉めた。見慣れない下着が入っていたからだ。間違えて綾波が使っている引き出しを開けたと思った。ぼーっとしながら行動するからこういうことになるんだ。綾波に悪いな、と思う。彼女も僕なんかに下着を見られたくはないだろう。もしかすると気にもしないのかも知れないけれど。

 今度は慎重に、下から二番目の引き出しを開く。閉める。
 おかしい。
 念の為に一番下の引き出しを開けてみる。……閉める。これは明らかに違う。もう一度、ひとつ上の引き出しを開けた。よく見れば、それは間違いなく僕のパンツだった。でもこんな風にたたんだ覚えはない。というより、こんなたたみ方は知らない。

 マキさんか綾波。どちらかしかいない。綾波の下着も同じようにたたんであった。ということは、マキさんが綾波にたたみ方を教えて、綾波がたたんだというところか。

 着替えを持って部屋を出る。

「綾波?」
「……なに?」
「ううん、なんでもない。お風呂、入るよ」
「うん」

 雑誌をめくっていた彼女は、僕の目を見なかった。頬がほんのりと紅かったのは、たぶん風呂上りのせいだけじゃない。僕は自分の想像が当たっているんだなと思う。
 湯船に浸かりながら、風呂って本当に命の洗濯なんだなと、僕はそう思った。
 単純すぎて涙が出る。でも、これも僕だ。



 翌日。お昼近くになって、マキさんが元気に現れた。

「おはよー。今日も来たわよ」
「おはようございます。……今日はやけに元気ですね」

 碇くんが毒気に当てられたように言う。

「元気でいられるのは素敵なことよ。シンジ君は元気ないの?」
「普通です」
「あら。そっけないわねぇ」
「いつもと一緒ですよ」

 碇くんも少しあきれているみたいだ。マキさんはにこやかな笑みを絶やさずに言った。

「ごはん食べたら、レイちゃん借りていくから。お買い物。シンジ君はお留守番ね」
「仕事はいいんですか?」

 碇くんは、またかという顔で言った。

「やぁねえ。今日は日曜日よ」
「……」

 日曜日。お休みの日。そんな日があることを私はすっかり忘れていた。学校に行かなくなってからは。
 でも私は買い物なんて行きたくなかった。欲しい物なんて何もないし、それより碇くんと一緒にいたかった。

「私は別に……」
「そんなこと言わないでさ、ちょっと付き合ってよ」

 マキさんは私の言葉を遮って言う。

「行っておいでよ。僕は部屋の掃除をしておくから。ついでに晩ごはんの買い物もしてきてくれると助かるよ。お米がそろそろ切れるんだ」

 碇くんがあきらめたような顔で言う。確かに重いものを買うときは、車で行けると楽には違いない。でも歩いて行っても買えないことはないと思う。


 お昼を食べてから、マキさんはまだ納得できないでいる私を半ば強引に連れ出した。碇くんに、帰る時は電話を入れるから、と告げて。


「……どこに行くんですか」

 車が走り出し、しばらくしてから私は聞いた。

「とりあえず、あたしの部屋かしら」
「……?」

 何を言っているんだろう。

「買い物なんてどうでもいいの。はっきり言えば」
「……どういうことですか」

 それならどうして私を連れ出したのか。

「あたしも女だから、ちょっとうかつだったんだけど」

 マキさんは言葉を切る。

「あのくらいの歳の男の子ってね、週に一回か二回くらいは、独りにしてあげないといけないのよ。彼、あなたのことをすごく大事に思ってるから、なおさら」
「……良くわかりません」
「そうね……。部屋でゆっくり話ししましょう」

 私は納得できないままに黙り込んだ。



 丁寧に掃除機をかけ、さして溜まってもいない洗濯物を片付けると、すぐにすることはなくなった。教科書を開く気にもなれない。今日は日曜日だ。買い物に行く必要もないし、昼寝でもするかと思う。そう思うと、少し眠くなった。

 服を替えてベッドに入る。このベッドで独りで眠るのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。隣に綾波がいないのは、少し寂しい。そう思うと、ベッドに残る綾波の匂いがいつもより濃厚に感じられた。眠るとき、僕は右側に寝る。綾波が左側。いつもの場所で横になっていた僕は、普段は綾波が横になっている場所に移動した。

 ……綾波の匂い。

 そして――。


 僕は低くうめき、歯を食いしばって掛け布団を撥ね除けた。
 幻の綾波を抱き締めながら放ったおびただしい量の白濁した液体。それは僕の下腹部を汚し、そして綾波を穢した。
 右手で握ったそれは、最後の一滴まで吐き出したいと訴えているかのように、なおも震えている。

 僕は絶望した。


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