離れていても、どこにいても

第拾壱話
Written by tamb

「ただいまー! 帰って来たわよー!」
「ただいま……」
「あ、お帰りなさい。早かったですね」

 いつものようにマキさんが大声でただいまを言って、碇くんがそれに答える。その声はいつもと同じで、変わったところはなかった。

 スーパーの袋を持ってキッチンに入ると、碇くんはお米をとぎ終わって手を洗っているところだった。

「お帰り。なに買って来たの?」

 手を拭きながら碇くんが言う。普通に話をしているように思える。でも私と目を合わせようとはしない。やっぱりマキさんの言うとおりなのだろうか。

「お菓子をたくさんと……」
「またお菓子買って来たの?」
「いーじゃない。ちょっとくらい」

 着替え終わったマキさんがキッチンに入って来た。また葛城三佐の服を着ている。

「それと、ひき肉をね」
「え? 肉ですか?」
「炒めて、チャーハンにでも入れてみようかと思って。これならレイちゃんにも食べられるような気がしない?」
「僕に聞かれても……」

 碇くんが心配そうに私を見る。買い物から帰って来てから、初めて私の目を見てくれた。私を気遣う目。
 私はスーパーでマキさんに聞かれた時と同じように答えた。

「食べてみる」
「そう。それがいいね。でも、美味しくないと思ったら、無理して食べることないから」
「うん」

 碇くんが笑顔で言った。彼には笑顔がよく似合う。

「さ、レイちゃんも着替えて来なさい。手を洗って、うがいもちゃんとするのよ」
「はい」

 肉は嫌いだけど。

 私は着替えながら考える。

 お腹は減る。お菓子を美味しいと思う。心臓はどきどきする。喉が渇く。顔が赤くなる。息をする。汗もかくし、お手洗いにも行く。
 それは私の身体が機能しているということで、私がココにいることの証しでもある。

 ――碇くんが呼んでくれて、私はココにいたいという意志を持っていて、だからココにいることができる。

 そして、私が食べたものは私の身体の一部になる。これから食べる物も。そうとしか思えない。

 肉は血の味がする。だから嫌いだった。エヴァに乗るようになってからは、その匂いを嗅ぐだけで吐き気を催すようになった。
 私が何を言ったわけでもないのに、碇司令も赤木博士も、私と食事をする時は肉を口にしないようになった。司令が私に気を遣ってくれたのは、たぶんこのことだけだったと思う。打算だったのかもしれないけれど、どちらでも違いはなかった。少なくとも、あの時の私にとっては。
 ……こんな風に司令のことを思い出すのは、碇くんに呼ばれてココに還って来てからは初めてかもしれない。遠い昔の出来事のような気がした。でも、あの時あそこにいたのも、間違いなく私だった。

 手を洗って、鏡を見る。そこには私がいた。



「肉入りチャーハンはあたしが作るから」
「……本気ですか?」
「何よぉ。言わなかった? 料理は得意だって」
「でも」
「デモもストライキもないの。長門家に伝わる秘伝のチャーハン、シンジ君にも作り方を教えてあげる。特別よ」
「……マキさんの家では代々チャーハンの作り方を伝えてるんですか?」
「いけないかしら?」
「いえ、別に」

 作り方を教えてくれるということは、つまり僕が作ることになるのだということは簡単に想像がついた。僕は軽くため息をつく。

 着替えを終えて洗面所に向かう綾波の姿が、視界の隅をよぎった。今日買って来たのだろうか、見たことのない服だった。それはほとんど水着かと思うほど身体にぴったりした白いショートパンツで、そんな彼女の姿を――はっきりと言えば彼女の白い脚を――見ていたら、罪悪感で死にたくなる。それなら料理でもしていた方が何倍もいい。

「なに考えてんの?」

 マキさんの声で我に返った。

「あたしの料理の腕を疑ってるのかもしれないけど」
「い、いや、そんなことは――」
「あたしも子供のころは嫌いだったのよね。お肉」
「そうなんですか……」
「世の中にはベジタリアンなんて掃いて捨てるほどいるし、肉なんて食べなくてもどうだってことはないんだけど」

 マキさんは頭をぽりぽりとかきながら言った。

「自分でもしょーもない話だなとは思うんだけど、あたしがあなたたちくらいの頃に好きだった男の子がね、お肉が大好きで、本当に美味しそうに食べてたのよね」
「はぁ」
「……下らないわね。やめるわ。まぁレイちゃんがどうだってこともないんだけど、ステーキとかはともかく、ひき肉くらいは食べられた方が毎日の献立に困らないでしょ。シンジ君だって、たまには家でお肉食べたくない?」
「そうですね……」

 自分でも気のない返事だなと思う。僕は別に、どうしても肉が食べたいとか思ったことはない。もっとはっきり言えば、お腹がすかないならそれに越したことはないと思っている。料理をするのは必要に迫られてだし、なるべく美味しく作ろうと思うのは喜んでくれる人がいるからだ。誰かが喜んでくれている姿を見るのは気持ちがいい。たとえ僕が作らなくても、代りの何かがあるとわかっていても。
 でもそれは、必要とされているということとは違う。
 僕は今、誰かに必要とされているのだろうか。僕なんかいない方がいいんじゃないだろうか……。



 碇くんとマキさんが一緒に料理をしているのを見ていると、少しだけ胸が苦しかった。二人の中に入りたいと思う。だから私にもできることを、少しだけ手伝った。

 生のひき肉を見ても吐き気はしなかったし、肉入りチャーハンも普通に食べられた。肉を食べているという感じもしなかった。碇くんもマキさんもとても喜んでくれたけれど、こんなことで喜んでもらえるなら、いつでも食べようと思う。

 食事を終え、食後のお菓子を食べながらしばらくお喋りをして、また明日、と言ってマキさんは帰って行った。碇くんはノートパソコンを広げて勉強を始める。昨日と同じように。私も隣に座って教科書を開いた。
 毎日が同じことの繰り返し。でもそれは嫌じゃない。
 明日も碇くんと一緒に同じことを、でも今日とも昨日ともほんの少しだけ違うことを一緒に繰り返して日々を過ごせていけたら、それは素敵なことだと思う。それが成長するということなんだろうと思う。

 私は明日のことを考えている。こんなことを想うのは何回目だろう。一歩踏み出す勇気が、どうして出ないのだろう。それが碇くんのためでもあって、そして私自身のためでもあるのに。
 もうすぐ学校も始まるはず。気の合う友達や可愛くて快活な女の子に囲まれて、チルドレンではない普通の中学生としての日常の中で、碇くんの中の私も少しずつ薄れて行くだろう。その方がいい。私を大事に思って苦しむなんて、意味のないことだから。碇くんを苦しめるだけの私なんて、忘れてくれた方がいい。碇くんが幸せなら、私なんてどうでもいい。

 ……でも、それを嫌だと感じるわがままな自分がいる。碇くんと一緒に、私も幸せになりたい。

 碇くんはなぜ私を呼んだのだろう。どうして私に会いたいと思ったのだろう。どうして私は、碇くんに会いたいと思ったのだろう……。
 隣にいる彼が、とても遠い存在のように思えた。



 昇華、という言葉がある。ありていに言えば、勉強やスポーツで邪念を発散させることだ。でも、そんなの嘘だと思う。もしかするともっと集中すればいいのかもしれないけれど、少なくとも僕には無理だ。勉強やスポーツと、欲望とは関係がない。ノーベル賞を取るような人やオリンピックの金メダリストだって、女の子に興味がないなんてことはないと思う。

 綾波のことが気になる。隣で教科書を開いている綾波。昼間のこともあって、いつもより余計に気になる。僕が綾波のことを想ってした行為を彼女に知られたら、きっと軽蔑されるだろう。
 嫌われたくない。一緒にいたい。好きになってほしい。守りたい。……抱き締めたい。

「お風呂、先に入るよ」

 僕は彼女の目を見ずにそう言った。彼女の後に入って、そこに残っている綾波の匂いを感じたら、気が狂ってしまうかもしれない。
 彼女はいつものように、うん、とだけ答えた。



 お湯を浴びている音を聞きながら、私はアイスティーをいれる。私にできることなんて何もない。せめて冷たい飲み物でも用意しておこうと思う。
 碇くんにどう接したらいいのかわからない。碇くんのして欲しいようにしたい。何かの本で読んだように、お風呂場に入って背中でも流してあげればいいのかもしれない。髪も洗ってあげたい。でも多分、彼はそういうのは好きじゃないと思う。
 マキさんは、あなたがどうしたいのかを考えなさい、と言った。私は碇くんの力になりたい。碇くんを、もっと近くに感じたい。
 お風呂に入る準備を整える。彼がお風呂から上がったら、すぐに入れるように。



「アイスティー、冷蔵庫に入れてあるから」
「あ、ほんと。ありがとう」
「お風呂、入るね」
「うん」

 綾波はすぐにバスルームに向かった。やっぱり彼女に先に入ってもらった方が良かったのかな、と思う。僕が先に入らなくても、しばらく時間を開ければ済むことだ。僕は自分の勝手さに少し腹を立てた。

 彼女のいれてくれたアイスティーは、ほんのりと甘かった。


 見るともなく教科書を眺めていると、彼女が風呂から上がって来た。いつも長湯の彼女にしては珍しく早い。
 座って髪の毛の雫をぬぐう彼女が、嫌でも目に入ってくる。いつもと同じように、パジャマ替わりの、僕のYシャツを着ている。今の僕にはあまりにも目の毒だった。身体の中にどす黒い衝動が沸き上がって来る。


 そうか。

 奥歯をぎりぎりと噛み締めながら、僕は突然気づいた。全部綾波のせいなんだ。
 まてよ。もしかするとマキさんのせいかも。
 ……いや、違う。やっぱり綾波のせいだ。根本的に綾波が悪い。何もかも綾波のせいだ。僕は何も悪くないんだ。

 立ち上がって彼女に近寄る。もう目は逸らさない。
 彼女の目を見つめ、なるべく声を低めて、精一杯ドスをきかせて決然と言った。

「あ、あ、あやなみひぃ……」

 そのつもりだった。が、どもった上に声が裏返った。情けない。

「なに?」
「あ、あのさ。近い内に、パジャマを買いに行こうよ。ぼ、僕が選んであげるからさ」

 綾波が手の動きを止め、僕を見つめる。いそがしげな瞬き。やっぱり唐突だっただろうか。



 碇くんが頬を赤くして私を見ている。急にそんなことを言われるとびっくりする。でも、嬉しいと思う。嬉しいという気持ちになる。

 たくさんわがまま言って、いっぱい甘えなさい。彼は受け止めてくれる。

 いつかマキさんの言ってくれた言葉を思い出した。
 わがままを言って、甘える……。

「うん」

 私はうなずいた。たぶん、少しだけ笑顔になっていたと思う。

 碇くんとお揃いがいい。

 もしかするとわがままなのかもしれないその言葉は、買いに連れて行ってもらえるその時まで、大切にとって置こう。


 気がつくと、私はベッドで毛布にくるまっていた。碇くんの隣に座って、パジャマのことを考えていたのは覚えている。でも、ベッドに来た記憶はない。また眠ってしまって、碇くんが運んでくれたのだろうか。
 疲れやすくなっているのかもしれない……。

 目を向けると、碇くんも隣で横になっていた。でもそばにはいない。手を伸ばせばすぐ届くほど近くにいるのに、すごく遠く感じる。

 男の子は、週に一回か二回くらい、独りにしてあげないといけない。彼はあなたのことを大事に思っているから、なおさら――。

 マキさんの説明は良くわかった。私にも知識はある。
 でも、頭で理屈はわかっても、心では認めたくなかった。大事になんてしなくていい。私のことなんてどんな風にしてもいいから、そばにいたい。隣にいて欲しい。
 でもそれは、許されない願いなんだろうと思う。

 何をしても何を言っても、彼を傷つけることにしかならない。だからそっとしておいてあげた方がいい。男の子なら誰でも乗り越えなければならなくて、必ず乗り越えることができて、そして彼は男の子だから。

 マキさんの声が頭の中をよぎり、私は伸ばしかけた手を止めた。怖かった。彼に嫌われるのがいやだった。はしたない、自分勝手な女だと思われたくなかった。
 だから私は、おずおずと手を伸ばして彼の小指の先にそっと触れた。
 これくらいなら、許してくれるよね。
 自分勝手じゃないよね。
 嫌いにならないで……。

 碇くんのことが好きなんだなと思う。涙があふれそうになって、必死にこらえた。泣いてはいけない。

 碇くんが大きく息をして、私の方を向いた。少し乱暴に肩をつかんで私を引き寄せ、頬に手をあてて口唇を吸った。私も彼の腕につかまって、彼のされるがままに、そして精一杯彼に応えた。
 最初は少し乱暴で、すぐに優しくなったその長いキスは、ほんのりと甘かった。
 口唇が離れ、碇くんは私を思いっきり抱き締めた。息が苦しくなるほど。
 彼は私の求めるままに脚を絡めてくれた。その重さが心地いい。頬を寄せた彼の胸が熱い。
 抱きすくめられ、髪の毛を優しくなでられながら、このまま息ができなくなって彼の腕の中で死んでしまってもいいと思った。



 小指の先に綾波を感じて、僕は彼女を引き寄せて思いっきり口づけ、力いっぱい抱き締めた。こうするしかなかった。こうしていないと僕は、僕の手は彼女を傷つける。
 綾波の柔らかな髪が、細い身体が、白い脚が、そして壊れそうな心が、僕を苦しめる。
 だからこうするしかなかった。綾波を傷つけ、嫌われるのが怖かった。

 でも本当は、ただ綾波を抱き締めたかっただけなのかもしれない。

 僕の腕の中で、彼女が身じろぎをした。力いっぱい抱き締め続けていたことに気づいて、僕はあわてて力を抜いた。これじゃ息も満足にできなかっただろう。
 彼女は僕の腕の中で顔を上げて、僕の目を見た。

「碇くん……」

 柔らかな、優しい表情だった。

「笑顔、見せて……」

 僕は笑顔を作った。上手く笑えなかったけれど、彼女は微笑んでくれた。この部屋に窓があったらいいと思う。こんな常夜灯の人工的な明かりじゃなくて、月明かりに照らされた彼女の笑顔が見たかった。
 僕はもう一度口づける。それから、今度は優しく抱き締めた。絡めた脚の重さと腕の中の暖かさを感じながら、朝までずっとこうしていようと思った。


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