離れていても、どこにいても

第拾弐話
Written by tamb

 碇くんを起こさないように気をつけながら、私は彼の腕の中からするりと抜け出した。ベッドの下に隠しておいた、昨日マキさんに買ってもらったお料理の本を持って静かにリビングに入る。もう完全に朝だった。

 顔を洗って歯を磨いて髪をとかし、碇くんに見られても恥ずかしくない姿になった。
 Yシャツの上からそのままエプロンを付け、本を開いて朝ごはんのメニューを考える。ご飯とお味噌汁は昨日の残りがまだあるから、それを先に食べた方がいい。
 まず絶対に作らなければならないのは大根サラダ。いつかの復讐で、これは外せない。少なくともあと一品、何かおかずを考えないといけない。
 最初から難しいことができないのはわかっている。朝からあまり時間をかけるわけにもいかない。この本には調理の難易度によってマークがついているから、簡単なお料理を中心にページをめくる。それでも、どれもすごく難しいように思えた。火加減を調節なんて、私にできるとは思えない。味見にも自信がない。やっぱり碇くんは特別なのかもしれない。
 
 碇くんは特別。
 
 その言葉は、すごく説得力があるように思えた。マキさんだってお料理はできないようだし、こうも言っていた。シンジ君の腕は尋常じゃない……。
 私はくじけてしまいそうな自分を必死に奮い立たせた。碇くんのように上手じゃなくてもいい。私にも何かできることはあるはず。
 でも、私にも作れそうなお料理はなかなか見つからなかった。そもそもお米の炊き方だってそんなに簡単じゃない。表面のうま味を落とさないように慎重にとぐなんて、気が遠くなる。それから水加減がとても大事。前に私がご飯を炊いたときも、碇くんもマキさんも美味しいとは言ってくれなかった。あんまり上手にできなかったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、私はページをめくり続ける。次々と。
 ……最後まで来てしまった。泣きたくなる。気を取り直して最初のページに戻る。
 少しでも簡単そうなメニューを探し続けて、いりたまごというお料理に行き当たった。これなら私にもできそうな気がする。でもこれは、少し前に碇くんが作ってくれたから、できれば別のものにしたい。一応記憶にとどめておいて、他のメニューを探す。
 結局、いりたまご以外で一番なんとかなりそうなのは、目玉焼きだった。
 サニーサイドアップとターンオーバーという種類があるらしい。途中で引っ繰り返すなんてできるわけがないから、サニーサイドアップにする。ターンオーバーは、こんど碇くんに作って見せてもらおう。
 簡単そうな目玉焼きにしても、私にしてみればわからないことがたくさんある。フライパンから余分な油を捨てると書いてあるけれど、必要な量というのはどのくらいなのだろう。卵を容器に割り入れて、新鮮かどうかを確かめる必要があるらしい。どうだったら新鮮で、どうだったら新鮮でないのだろうか。つけ合わせに、ツナと種を抜いた乱切りのトマトをさっと炒め、軽く塩こしょうをするらしい。乱切りとはなんだろう。種はどうやって抜くのだろう。さっと炒めるってどうやってやるのだろう。軽く塩こしょうって、どのくらいだろう……。
 わからないことばかりだった。家庭科の時間に習ったような気もするけれど、何も覚えてはいなかった。でも、考えていても仕方がない。とにかくやってみるしかない。
 私は無言で気合を入れ、立ち上がって顔を上げた。
 
 笑顔の碇くんがいた。
 
「目玉焼き、作ってくれるの?」
 
 心臓が止まるかと思った。



 エプロンをした綾波は、あまりにも真剣な表情で本を見ていたから、僕は声をかけられなかった。何を作ろうか悩んでいるんだと思うけれど、ページをいったりきたりしながら真剣に考え込んでいる綾波はかわいらしくて、僕は黙ったまま悩める彼女を眺めていた。
 嬉しかった。僕はもう綾波が何か作ってくれるものだと決めつけていた。外食以外で、誰かが僕のために料理をしてくれるなんて、いつ以来だろう。記憶になかった。
 ページをめくる手がいりたまごのところで止まった。少し考える風にして、結局またページをめくりはじめた。どうしたのかなと思いながら見ていると、次に目玉焼きのところで手が止まった。彼女の目がひときわ真剣さを増す。いつまで見てるんだろうと思い始めた頃、よし、という小さいけれど気合の入った声を出して彼女が立ち上がった。
 目が合った。
 だから僕は話しかけた。実際、話がしたくて仕方がなかった。
 
 目玉焼き、作ってくれるの?
 
 僕はそう言った。笑顔になっていたと思う。別におかしなセリフじゃないはずだ。本当に嬉しかった。綾波の作ってくれる目玉焼きが食べたかった。
 けれど彼女は、まるで雷に打たれたみたいに――僕は雷に打たれた人を見たことはないけれど――硬直した。
 僕がいることに気づいていないみたいだったから、驚かせてみようという気も少しはあった。でも、彼女がこんな反応をするなんて、思いもしなかった。
 目を大きく見開いて、固まったままじっと僕を見つめている。僕もこんなに驚いている綾波を見るのは初めてで、どうしたらいいかわからなかった。ただ笑顔を張り付かせたまま、見つめ返すしかなかった。

 やがて彼女は、じわりと瞳をうるませた。
 
「あの……びっくりした?」
 
 彼女はこくりとうなずいて言った。
 
「いるならいるって……言ってくれないと……」
「ご、ごめん。そんなに驚くとは思わなかったんだ」
「……」
「ほ、ほんとにごめん」
「……」
 
 綾波は何も言ってくれない。僕は困り果てた。



 私はすぐに立ち直って、拗ねてみようかな、と思った。こういう時は、拗ねるのが可愛いのかもしれない。何かの時に弐号機パイロットが、ヒカリったらすぐ拗ねるんだから、と言っていたことがあった。その時の洞木さんを見て、私は確かに可愛らしいと思った。
 その時の彼女の表情を思い出し、私は少し頬を膨らませて、椅子に腰掛けて横を向いた。
 
「あ、綾波ぃ……」
「……」
 
 碇くんが困っている。何か悪いことをしたわけでもないのに、私が拗ねているから困っている。もっともっとかまって欲しくて、私はずっと黙っていた。
 
「よ、羊羹でも食べる?」
 
 そんなことではごまかされない。碇くんが私の機嫌を取ろうとしてくれるのが嬉しくて、それは、碇くんを困らせてしまうのはいけないこと、という気持ちよりも大きかった。だから私は、頬が緩んで笑顔になってしまいそうなのを我慢して、そっぽを向き続けた。
 
「ねえ、ご機嫌直してよ。朝ごはん作るの、手伝うからさ……」



 まるで助け舟のように電話のベルが鳴った。マキさんだろうか。こんなに電話のベルを嬉しいと思ったのは初めてだ。僕は心の中でマキさんに感謝しながら受話器を取った。
 
「はい。……あ、シンジです。おはようございます」
 
 思った通りマキさんだった。
 
「……そうですか。はい、分かりました。……そうですね。綾波と相談してみます」
 
 マキさんは今日は一日会議らしい。だから二人でどこかに遊びにいってらっしゃいと、いたずらっぽい声で言った。それから、ほんの少し早口で付け加えた。朝ごはんだけ、食べに行きたいんだけど――。
 
「……え? 朝ごはんだけ食べに来るんですか?」
 
 そのセリフは綾波に聞かせるつもりで、僕は彼女の方を見ながら言った。
 彼女はそっぽを向いたままだったけれど、かすかにうなずいてくれた。
 
「ええ。それはかまいませんけど……。十分くらいですか。分かりました。あ、ちょっと待って下さい……」
 
 電話を保留にして、綾波が開いている本のページをのぞき込んだ。冷蔵庫の中身を思い出しながら受話器を取る。
 
「あ、すいません。どこかでトマトを買って来てもらえますか。……いえ、できればコンビニじゃなくて八百屋で買って来て欲しいんですけど。あとついでに適当に野菜を買って来て下さい。……分からない。何がですか? ……店頭に並んでいるの、適当にでいいです。マキさんが食べたいと思う物で。……はい。じゃあお願いします」
 
 電話を切って振り返ると、彼女はじっと宙を見据えていた。何かに集中してるみたいで、とても声をかけられる雰囲気じゃなかった。僕はその雰囲気を乱さないように、とりあえずじっとしていた。やがて彼女はゆっくりと立ち上がり、キッチンに向かった。

 僕は思わずのけぞった。

 ――頼むから、とりあえず着替えてくれないかな。マキさんも来るし、白いYシャツにエプロンっていうのはどうかと思うんだ。ちょっとだけなんだけど、その、透けてるんだよね。後ろから見ると……。

 そう言いたかったけれど、彼女はそれさえも受け付けないような雰囲気を醸し出していた。
 綾波はフライパンを取り出してじっと見つめる。
 ネルフが停電したとき、行き止まりになったダクトの中で、鉄パイプの具合を確かめていた彼女の姿を不意に思い出した。


「おっはよー!」
「おはようございます。あの、すいません、もう少し小さな声で……」
「なんで? まさか二日酔いかなんか?」
「違いますよ。そうじゃありません。綾波が、その……」
「レイちゃん? どうかしたの?」
 
 マキさんは顔色を変えた。
 
「いや、どうかっていうか……」
「どこにいるの?」
「キッチンです」
 
 マキさんは靴を脱ぎ捨て、キッチンに駆け込んだ。
 
「……どうしちゃったの? この娘もゼンマイ切れちゃったの?」
 
 フライパンを見つめて固まっている綾波の脈と呼吸を確かめて、マキさんがため息交じりに言った。……この娘もっていうのは、どういう意味だろう。
 
「綾波が朝ごはんを作ってくれるみたいなんです」
「ふうん。それで?」
 
 僕は買ってきてもらったトマトや他の野菜を受け取りながら、マキさんから電話がかかってくるまでの出来事を説明した。
 
「たぶん、イメージトレーニングをしてて、上手に作れるイメージが浮かばないんじゃないかなと思うんですけど」
「イメージトレーニングねぇ……。何を作るつもりなのかしら」
「目玉焼きだと思います」
「……あれはそんなに簡単じゃないものね」
 
 そうかなと僕は思ったけれど、こんなことで波風を立てても仕方がない。
 
「どうしますか?」
「どうしますって、待ってるよりほかにないわね」
「会議はいいんですか?」
「あと一時間くらいは大丈夫。それでもまだレイちゃんのイメージトレーニングが終わらないようなら、会議を遅らせるわ」
「……いいんですか?」
「しょーもない会議なんかよりレイちゃんの目玉焼きの方が大事よ。当たり前でしょ。食べないで会議なんかに行ったら一生後悔することになるわ」
「また今度作ってもらえば――」
「甘いわね」
 
 マキさんはビシッと人差し指を突き出して言った。
 
「また今度にすればいいとか、そういう問題の先送りが死を招くのよ」
「いや、死って……」
「今できることは今やらなければならないの。私たちが今するべきことは、レイちゃんを待つことよ」
「はぁ」
 
 巧妙に問題のすり替えをしているような気もしたけど、マキさんの剣幕に圧倒されて何も言えなかった。
 
「じゃ、待ちましょう」
「……はい」
 
 僕とマキさんは椅子に座って綾波が帰ってくるのを待った。
 
「それにしてもレイちゃん、相変わらずセクシーな格好よね」
「そ、そうですね……」
「特に後ろから眺めてると、なんかこう、こみ上げてくるものがあるわよね」
「……」
「ねえ、そう思わない?」
「……」
 
 思います、なんて言えるわけがない。こうして綾波の後ろ姿を目蓋に焼き付けているのもどうかと思う。僕は無理やり視線を引きはがした。マキさんがくすりと笑ったような気がした。

 半ば動揺をごまかすつもりで、綾波が見ていた料理の本を眺めてみた。横からマキさんも覗き込んでくる。
 僕も最初はこういう本を見ながら料理をしていた。そんなに昔の話じゃない。やっぱり基本は大事だから、時にはこういう本を見た方がいいかなと思う。レパートリーも広がるし。
 
「目玉焼きって、こんな風にして作るの?」
 
 マキさんが不思議そうに言った。
 その本には、『白身がやや固まったら小さじ1の水を入れ、ふたをして蒸し焼き状態にする。』と書いてある。
 
「別に変なところはないと思いますけど……。マキさんはどうやって作ってるんですか?」
「蒸し焼き状態に、なんてしたことないわ」
「僕はこうするものだって思ってましたけど……別に蒸し焼きにしないといけないってこともないと思いますよ」
「……あたし、間違ってたのかもしれないわ」
「いや、だから別に――」
「碇くん……」
「え?」
 
 目玉焼きの作り方について噛み合わない議論をしていると、急に彼女の声が聞こえた。
 僕たちは驚いて顔を上げた。
 綾波がこっちを見ている。フライパンを握り締め、瞳をうるませて。
 
「必要な油の量がわからないの……」
 
 まだそこなのか、と思ったけれど、そんなことを言ってはいけないんだってことは、僕にもわかっている。
 
「教えてあげるよ。一回やってみればそんなに難しくないから、一緒に作ろうか」
「……うん。……あ。お、おはようございます」
 
 綾波が目を丸くして、それからぺこりと頭を下げた。
 
「いくらなんでも気づくのが遅いような気がするけど」
 
 マキさんが苦笑いしながら言う。
 
「まぁいいわ。そのかわり、美味しい目玉焼きをよろしくね」
「……はい」



 つまりフライパンが油で湿っていればいいらしい。少し多めに入れて、熱して馴染ませたらオイルポットに戻す。卵が新鮮かどうかは、黄身が割れていなければ、買った日付を覚えておけばあんまり気にしなくてもいいらしい。だから碇くんは、買った日付をパックに書いている。味付けはお塩とこしょう。これは好みだけど、一つまみくらいでいい。
 碇くんに見られながら、指示に従って一つ作った。
 
「ばっちり。上手だよ」
 
 恐る恐る彼を見ると、笑顔でそう言ってくれた。嬉しかった。これは碇くんに食べてもらおうと思う。私が生まれて初めて作った目玉焼き。
 マキさんの分と自分の分も同じように作っていると、碇くんはあっという間につけ合わせのトマトとツナを炒めたものを作ってしまっていた。乱切りの仕方も、種の抜き方もわからなかった。
 
「大根サラダも出そうかな……」
 
 碇くんが塩ジャケを焼きながらひとりごとを言う。
 
「それは私が――」
「それ、そろそろいいと思うよ」
 
 私はあわてて蓋を取り、フライ返しを使って、出来上がったらしい目玉焼きを慎重にお皿に移した。振り向くと、もう碇くんは塩ジャケを焼き終え、大根サラダをお皿に盛り付けている。私は目を見張った。碇くんは魔法でも使っているのだろうか。
 
「早すぎる……」
「え? 何が?」
「大根サラダ……」
「こないだ作った残りだけど?」
 
 お味噌汁をかきまぜながら、さらりと言う。なんだかだまされたような気分だった。
 
「さ、食べましょうよ」
 
 ご飯をよそっていたマキさんが言う。眼の輝きが異様すぎる。らんらんと輝くというのは、こういう状態のことを言うのかもしれない。
 
「お腹ぺこぺこよ。もう」
「冷めないうちに食べようよ」
「……うん」
 
 碇くんに促され、私も席に着いた。碇くんとマキさんは同時にいただきますを言って、真っ先に目玉焼きにお箸をつけ、口に運んだ。二人とも目を閉じている。
 
 そんなに味わって食べなくてもいい。
 
 私はどうしようもない居心地の悪さを感じ、身体を硬くした。
 
「……美味しいわね」
「うん、美味しい」
 
 碇くんの言うとおりに作ったのだから美味しいのは当たり前で、わざわざ当たり前のことを言う必要はない。でも、嬉しいと思った。誉められているのかもしれない。ほんの少しだけ心地よかった。全部自分で考えて作って、それでも美味しくて、碇くんやマキさんに喜んでもらえるなら、もっと気持ちがいいのかもしれないと思う。

 自分でも食べてみる。碇くんのいつも作る料理に比べると、少し味が濃いような気がした。

「少し濃いめかもしれないけど」
 
 私が思ったことを言うと、マキさんは首を振って答えた。
 
「濃くてだめってことはないわ。つけ合わせや塩ジャケとはバランスが取れてるし。ご飯がすすむわ」
「味が濃いとかいうより、この黄身の半熟具合がすごくいいよね。こういうのって、センスだと思うんだ」
 
 碇くんが笑顔で言った。
 
「それ。あたしも言おうと思ってた」
 
 たぶん碇くんは、私のお塩とこしょうの入れ具合を見て、それに合わせてくれたんだと思う。少し恥ずかしかった。
 
「で、あなたたち、今日はどうするの?」
 
 マキさんがお味噌汁をすすりながら言う。
 
「……部屋で勉強でもしようかと思ってるんですけど」
「なにいってんの?」
 
 マキさんが呆れた口調で言う。今日の聞き取り調査はないということが、それでわかった。
 
「学校に行ってないのはあなたたちだけじゃないのよ。学校そのものが始まってないんだから」
「はぁ……」
「今年は入試がないみたいだから、中三の子たちなんて、まるで狂ったように遊んでるわ」
「……」
「学校が始まったら嫌でも勉強しないといけないんだから、それまでは自由に羽根伸ばしたらいいんじゃないの?」
「でも、僕たちは今までもほとんど学校なんて行ってなかったし、遅れを取り戻しておかないと……」
「大丈夫。心配しなくてもばっちり補習が組まれるはずよ」
「そう……ですか……」
「だいたい家でなんとなく教科書なんて開いてたって、身につくわけないんだから。一回誰かに教わってればともかく」
「はぁ……」
「ねえレイちゃん。どう思う?」
「パジャマを……」
「え?」
「パジャマを買ってくれるって、碇くんが言ってくれました」
「あら。素敵ねぇ」
 
 マキさんが悪戯っぽい笑顔で碇くんを見る。
 
「連れて行って……欲しいです」


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