離れていても、どこにいても

第拾参話
Written by tamb

 どれを買えばいいんだろう……。

 女の子用のパジャマ売り場で、僕は洪水のようなパジャマを目の前にして途方に暮れていた。こんなにたくさんのパジャマが置いてあるなんて、思いもしなかった。

 綾波に選んでもらうのもいいかもしれないけど、たぶんどれでもいいって言うだろう。それに、あんまり可愛いのを選んでもらっても困る。僕がなるべく妙な気持ちを起こさないようにするのが主な目的だからだ。
 本当はジャージかなんかを着てくれればいいのかもしれないけれど、それじゃあんまりだとも思う。つまり綾波には可愛くいて欲しいという気持ちもあるということで、それで僕は困っている。

 今の綾波は膝丈のベージュのスカートにグレーのシャツで、もちろんすごく可愛いけれど、無闇に刺激的ではない。こういう適度な可愛さがいいと思う。この服もマキさんと一緒に買ったはずだけど、部屋着もこういうタイプにしてくれればよかったのにと思う。それとも女の子の部屋着っていうのはああいうものなのだろうか。そういえばアスカもミサトさんもそうだった。もうその姿を見ることはできないのかもしれないけど……。

 僕は頭を強く振って、思考が暗く沈んで行くのを断ち切った。今は綾波のパジャマを選ばないといけない。

 ピンク色の、ひらひらが付いたようなパジャマを見て、こういうのを着てくれたらきっと可愛いんだろうなと思う。でもそんなのは問題外だ。考えただけでも可愛すぎる。適度に可愛いっていうのがこんなに難しいとは思わなかった。
 ひたすら探し続ける僕の後ろを、綾波は黙ってついて来る。その横顔は、心なしか楽しそうだった。

 困り果てている僕の目に、そのパジャマが映った。牛模様のつなぎのパジャマ――しっぽが生えていて、角の付いた帽子までセットになっている。綾波がこのパジャマを着ているところを想像すると、笑ってしまうほど愛くるしい。でも、さすがに妙な気分になるとは思えなかったし、ちょっと見てみたい気もした。

 牛柄のパジャマを着て困った顔をしている綾波と、必死に笑いをこらえているマキさん――。

 だから僕は、冗談半分に聞いてみた。
 
「これ、どうかな。きっと可愛いよ」
「うん」
 
 いくらなんでも嫌がるかなと思ったけれど、彼女はあっさりとうなずいた。少し拍子抜けした。本当に何でもいいのかもしれない。
 
「じ、じゃあ、これにする?」
「うん……」
 
 僕は、彼女が何か言いたそうにしていることに気づいた。
 
「どうしたの?」
「あの……」
「あ。やっぱり嫌だよね、こんなんじゃ。いや、可愛いとは思うんだけど」
「……」
「ご、ごめん。冗談だったんだ。でも綾波が、うんって言うから……」
「そうじゃないの……」
「?」
「碇くんの分も、買って欲しいの……」
「……え?」
「お揃いがいいの。碇くんと」
「……」
「……」
「そ、そう……」
「うん……」
 
 そういう話になるとは思わなかった。つまり本当に何でもいいということではなくて、僕とお揃いなら何でもいいということなんだ。彼女のことをたまらなく愛しいと思った次の瞬間、僕は自分が牛柄のパジャマを着ているところを想像して、あわててかき消した。悪寒がする。マキさんの爆笑が聞こえたような気がした。

 お揃いにすること自体に抵抗はなかったけれど、それなら女の子用のパジャマから選ぶわけにはいかない。マキさんの笑いものになるだけだ。男子用の中から選ぶしかない。つまりそんなに可愛いパジャマはないということで、本来の意味を考えればそれはそれで好都合だけど、少し残念だなとも思う。
 ……自分でもどうしたいのか良くわからない。

 僕はとりあえず、綾波の手を引いて男子用のパジャマ売り場に向かった。こうなってくれば何でも同じだから、ごく普通の、水色と白のチェックのパジャマと、色違いで桜色のを選んだ。僕が水色で綾波が桜色のを着ればいいかなと思う。二着ずつ買って、時には交換してもいいし、同じのを着てもいい。
 僕が着るには少し可愛いかもしれないけど、そんなに変じゃないと思う。綾波が着ても、たぶん普通だろう。
 
「これ、どうかな。なんだか普通だけど」
「……いいと思う」
「じゃあこれにしようか」
「うん」
 
 二人でレジの列に並んで、僕は財布を開いた。マキさんから預かったカードと一万円が、そのまま入っている。商店街の八百屋さんとかだと現金しか使えないことが多いから、使えるところではカードを使いたい。マキさん名義のカードだけれど、僕のサインで使えるようにしてくれているはずだ。
 順番が来て、僕は祈るような気持ちでパジャマとカードを出した。レジの人はディスプレイの表示を確認し、ちらりと僕たちを見た。またかと思い、少し緊張した。でもレジの人は伝票を差し出し、サインと電話番号を、とだけ言った。

 お小遣いが欲しいと思う。生活費にマキさんのカードを使うのは仕方がないにしても、これじゃあ僕が綾波に買ってあげたことにならない。少し落ち着いたらアルバイトでも探してみよう。



 碇くんが伝票にサインをしている間に、私は袋に入ったパジャマを受け取った。
 
「あ、僕が持つよ」
「ううん」
 
 私は紙袋を胸に抱いて首を振った。
 
「そう?」
「うん」
 
 少し子供っぽいかな、と思う。碇くんが微笑んだような気がした。
 
「お昼にはまだちょっと早いし、屋上でも行ってみない?」
 
 彼がそう言って、私はうなずいた。
 屋上に人影は多くはなかったけれど、それでも何組かの親子連れや子供たちが小さな遊園地の乗り物で遊んでいた。

 少し風が吹いていて、私はスカートを押さえた。
 碇くんが金網に近寄って外を眺める。私も彼の隣に立った。そこから見える街並は以前と何の変わりもなく、もしそう言われても、何かあったとは信じられない。今が現実で、あの出来事は全部夢だったら良かったのにと思う。でも、全部本当のこと。私たちはそれを知っている。
 
「急に思い出したんだけど」
 
 碇くんが金網から離れながら、不意に話し出した。振り向くと、彼は私を見つめていた。黒髪が風に揺れて、私の心も揺れた。
 
「高いところ、ダメなんだよね。僕」
 
 声の明るさをわざとらしく感じた。
 変わらない街並を見て、たぶん彼も私と同じようなことを感じたのだろう。私の横顔を見て、私も同じことを考えていると思ったのかもしれない。だから無理に関係のない話をしている。
 だから私も、なるべく普通に言った。
 
「……ダメって?」
「高所恐怖症って言うのかな。何ていうか、高いところから下を見ると、心臓がドキドキして、すごく緊張して、つまり怖いんだ」
「……そうなの?」
「うん」
「……」
「エヴァに乗っているときは平気だったんだよ。たぶん、夢中だったから何とも思わなかったんだと思うんだ。ま、まあ、別の意味では怖かったんだけど」
 
 彼は照れ笑いをしながら言う。私も笑顔を作った。彼の言葉を聞いて、私たちはもうエヴァに乗ることはないんだなと思った。
 
「もしかすると、もう怖くなくなったかなって思ったんだけど、やっぱり怖いものは怖いね。はは……」
 
 私は考えた末にこう言った。
 
「遊園地に行けばいいわ」
「……え?」
「遊園地でジェットコースターに何回か乗れば、高いところなんかすぐ平気になると思う」
「……綾波はジェットコースターって、乗ったことあるの?」
「ない。でも私は平気だと思う」
「そ、そんなぁ……」
 
 碇くんの引きつった笑顔を見ながら、私は奇妙な視線を感じていた。見世物を見るような、悪意と好奇心に満ちた視線……。

 碇くんも同じ視線を感じたのか、さりげなく周囲を見渡した。すぐに視線を戻し、私の手を取って言った。
 
「……帰ろうか」
「うん」
 
 私たちは足早に屋上を離れた。私が目立つからいけないんだ、と思う。

 デパートを出ると、視線は感じなくなった。碇くんは足を緩めたけれど、私は彼の手を離さなかった。
 
「綾波、お腹すかない?」
「……少し」
「三十分くらい歩くとさ、美味しいって評判のラーメン屋さんがあるんだけど、どうかな。ゆっくり散歩でもしながら行くと、ちょうどお腹もすくかなと思うんだ」
「うん」
「じゃ、行こうか」
 
 気のせいかもしれないけれど、碇くんは私の手を握り直してくれた。


「ね、ねえ、綾波」
「なに?」
「ジェットコースターの話なんだけどさ……」
「うん」
「どういうんだか、ちゃんと知ってるの?」
「知ってる」
「こうさ、ぐるっと一回転したり、きりもみしたりするんだよ?」
 
 碇くんの手が汗ばんできて、本当に怖いんだなと思う。
 
「知ってるわ」
「何かあって落っこちたらさ、死んじゃうんだよ?」
「大丈夫。そう簡単には落ちないように出来てるから」
「そうかなぁ……。でも走ってる時ってすごい音してるし、レールとか車両とか、かなり摩耗してると思うんだよね」
「毎日点検してるはず。統計的にも、こうして歩いていて急に車に轢かれたりする確率より低いわ」 
「そうかなぁ」
「……」
「あ、あのさ、観覧車くらいで勘弁してくれないかな。僕さ、実は、あれでも気絶しそうになるんだ……」
「だめ」
「……どうしても?」
「だめなの」
「そうだ。お化け屋敷はどうかな。あれなら自信あるんだけど」
「お化け屋敷と高所恐怖症は関係ないわ」
「そ、そりゃそうだよね。はは……」
 
 本当は無理にジェットコースターなんて乗らなくてもいいと思う。でも、こうして話をしているのは楽しかった。
 
「そ、そもそもさ、人間は空を飛ぶようには出来てないんだよ。水に浮かないのとおんなじでさ」
「ジェットコースターに乗るのは、空を飛んでいるのとは違うわ」
「い、いや、でもさ、ほら、地に足がつかないって言うだろ? あれは良くない状態のことだからさ、やっぱりしっかり大地を踏み締めているべきだと思うんだよね」
 
 碇くんが良くわからない理屈をこねる。
 
「あんまり関係ないと思う」
「で、でもさ……」



 何としてもジェットコースターだけは避けたかった。大声で叫んでしまうだろうし、涙さえ流してしまうかもしれない。だいたい僕は、歩道橋だって下を見ないようにして渡るような奴なんだ。綾波にみっともない姿を見られて、軽蔑されるのは嫌だった。いろいろ理由を並べ立ててみたけれど、完全に聞き流されてしまった。
 土下座して許してもらうよりは、まだジェットコースターの上で泣き叫んだ方がみっともなくないだろうか。観覧車でダメなら、せめてコーヒーカップくらいにならないだろうか。あれでも十分怖いと思うんだけど。
 本当に遊園地に行かなければならなくなった時に、何とかごまかそう。綾波には内緒でマキさんに土下座して、急用を作ってもらってもいいかもしれない。

 そんな下らないことを考えながら、ほとんど意味のない会話を綾波と交わしているのは楽しかった。変わらない街並や奇妙な視線に悩んでいるよりは、たとえ意味のない会話でも前向きだと思う。
 綾波とこんな風に普通に話ができるようになったのはいつからだろう。いつまでもこうして、ずっと一緒に歩いて行けたらいいと思う。



「あそこだよ」
 
 碇くんの指さす先に、ラーメン屋さんの看板が見えた。
 
「いらっしゃい」
 
 店の人がお冷やを出してくれた。中年の男の人が一人でやっている、カウンターだけの小さな店。私たちの他には、男の人と女の人が並んで座っているだけだった。
 
「綾波は、何にする?」
 
 碇くんがメニューを私に向けながら言う。
 
「碇くんは?」
「そうだなぁ。みそラーメンにしようかな」
「あたしも、それにする」
「そう?」
「うん」
「すいません、みそラーメンを二つ、お願いします」
「みそ二つね」
 
 店の人はそう答えたけれど、私たちを見つめたまま動かなかった。
 
「お兄ちゃんたち、前にもこの店に良く来てくれてたかな?」
「いえ……。綾波は?」
 
 私は黙って首を振った。
 
「そうか……。いや、どこかで会ったような気がしたもんでね。気のせいかな……」
 
 独り言のようにそうつぶやいて、ラーメンを作り始めた。

 碇くんが緊張している。

 もしかするとこの人は、溶けていたときのことを覚えてるのかもしれない。

 もしも覚えていて、そして私たちに悪意を持っているのならば、私が碇くんを守らないといけない。
 こんなことが続くのなら、もう人込みには出られないし、遊園地なんかにも行けない……。
 
「思い出したよ」
 
 その人はラーメンをカウンターに置いて言った。
 
「碇シンジ君に、綾波レイちゃん、だよね」
「は、はい」
 
 碇くんの声が硬い。私も身体を硬くした。でも、その人は笑顔だった。
 
「世話になったね、って言っていいのかどうか良くわからんけど」
 
 そう言って手を差し出し、握手を求めて来た。
 
「君たちは、うまく生きて行けそうかい?」
「え? ええ……」
 
 碇くんが戸惑いながらもその手を握る。次いで、私にも握手を求めて来た。
 
「大丈夫。これでも料理人だからね。手は奇麗だよ」
 
 ためらっている私に、そう言って笑いかけた。少し恥ずかしくなって、差し出された手をそっと握った。碇くんとは違う、節くれ立った手だった。
 
「俺みたいなおっさんが若い君たちに何か言うことはないんだけど」
「……」
「君たちのような子がいてくれると、人間って奴も捨てたもんじゃないなって、そう思うよ」
「はぁ……」
 
 答えに困っている碇くんを見て、その人は破顔した。
 
「まあいいさ。のびちまうからラーメン食べて。美味いよ」
「あ、はい……」
 
 先にいた二人連れが立ち上がって、ごちそうさま、と言った。店の人はそちらに歩いて行く。
 
「……食べようか」
「うん」
 
 碇くんは割り箸を手渡してくれた。
 
「チャーシュー抜きって言うの、忘れてたね」
「食べてみようと、思って」
 
 私は首を振ってそう答えた。碇くんと同じものを食べたいという、それだけの理由だった。
 チャーシューは二枚入っていて、それを見ても以前のように吐き気はしなかった。お箸で摘んで、口元に運ぶ。匂いも嫌じゃなかった。少しだけ噛ってみる。あまり美味しくはなかった。でも、食べることはできる。もしかすると美味しく感じるようになれるかもしれない、と思いながら、もう少し食べた。でも今は、少しつらかった。
 
「無理しなくていいよ」
 
 碇くんが心配そうに見ている。つらい気持ちが顔に出たのかもしれない。
 
「大丈夫。でも」
 
 私は半分だけ食べたチャーシューと、残りの一枚を碇くんの丼に移した。
 
「あげる」
「あ、ありがとう」
 
 碇くんはそう言って、少し赤くなった。

 ラーメンはとても美味しくて、また来ようね、と碇くんは言った。


「悪いんだけどさ、サインを貰えないかな」
 
 お金を払おうとすると、店の人はどこからかスケッチブックを出して来て言った。
 
「店に飾ったりはしないよ。大事にしまっておくから。俺は君たちより先は短いけどさ、それでもしばらくはこうして生きていけるのかもしれないって、君たちを見てて思ってね。その記念っていうかな」
 
 戸惑っている私たちを見て、その人は少し照れたように言った。

 碇くんはスケッチブックとマジックを受け取って、困った顔でしばらく考えてから、隅の方に小さめの字で名前を書いた。
 
 碇シンジ。

 私もその下に、それより少しだけ小さく自分の名前を書いた。
 
 綾波レイ。


 ひどく安いお金を払い、よかったらまた来てよ、という声に送られて私たちは店を出た。

 碇くんが考え込んでいる。

 あの人は自分の奥さんや子供が還って来なかったのかもしれないと、ふと思った。
 でも、いま私たちにできることは、何もない。

 私は碇くんの手を取る。彼はそっと握り返してくれた。


「すいません、ちょっといいですか」
 
 黙って歩く私たちに、男の人が声をかけて来た。
 
「碇シンジ君と、綾波レイちゃんだよね?」
 
 急に馴れ馴れしい口調になる。
 この人は信用できない。私は直感的にそう思った。
 
「……なんですか?」
 
 碇くんはそう言いながら一歩前に出て、私をかばうようにした。
 
「ぼくは第三新東京新聞の者だけど、ちょっと話を聞かせてもらいたいんだけどな」
「別に、僕たちは何も――」
「申し訳ないですが」
 
 碇くんが何か言いかけたとき、走り寄って来た男の人が間に割り込むように立って言った。ラーメン屋さんにいた人だった。
 
「ネルフ関係者への取材は、日本政府の広報を通して欲しいんです。社の方にはそのように通達が行っているはずですが」
「なんだね、君は」
「政府の者です」
「取材の自由は守られているはずだ。それに、公式には何も明らかにされていないが、たった二人の生き残りなんだろう? あんな一方的な通達に拘束力は――」
「ない、とおっしゃる?」
 
 その気迫に、記者の人はたじろいだ。
 
「さ、行きましょう」
 
 男の人と一緒にラーメン屋さんにいた女の人が、私たちの肩を抱くようにして言った。
 
「……すいません」
「いいの。気にしないで」
 
 碇くんがうつむいて言うと、女の人は笑顔でそう答えた。
 
「しばらくはこういうことが続くかもしれないけど」
「……」
「世の中なんて忘れっぽいものだから。すぐに普通に暮らせるようになるわ。それまでは私たちがあなたたちのことを見てて」
「……」
「ちょっと窮屈かもしれないけど、我慢してね」
「……はい」
 
 女の人はちらりと振り向いて、まだ男の人たちが押し問答をしている方を見た。
 
「じゃあ、気をつけてね」
 
 女の人は笑顔で手を振った。
 
「……行こうか、綾波」
 
 碇くんは女の人に小さく頭を下げてから、私に手を伸ばしてそう言った。
 
「うん」
 
 私も挨拶をしてからうなずいて、差し出された手を握った。女の人が目を細めているのが見えた。


「……なんだか人気あるよね。僕たち」
「……」
「もしかして、タレントとかなれるんじゃないかな」
 
 碇くんは冗談とも本気ともつかない口調で話し続ける。
 
「綾波は可愛いからさ、きっとすごく人気が出ると思うよ。僕もいまのうちにサインでも貰っておいた方がいいかな……」
 
 彼は乾いた声で笑って、それきり口をつぐんだ。



 僕たちは一言もしゃべらずに歩き続けた。僕たちが何をしてきたのかなんて、考え込んでいても仕方がないのはわかっている。意味のない話でいい、何か違う話をして綾波を元気にしてあげたいと思う。でも、どうしようもなかった。


 綾波に言われて、夕食の買い物に寄った。僕に色々聞きながら、彼女が選んだ。僕は上の空で答えながら、それでも綾波が僕を元気づけてくれようとしているのはわかった。僕がしないといけないのに。


 部屋に戻ると、玄関の前でマキさんが退屈そうに立っていた。
 
「おかえりー。待ってたわよー。もぉ退屈で寂しくて死んじゃうかと思ったわ。お腹は減るし足は疲れるし」
 
 僕が何か言うより早く、マキさんは本当に嬉しそうに言った。
 
「マキさん……会議はもう終わりですか?」
 
 今日は一日会議だと言っていたはずで、今はまだ夕方だった。
 
「んー、終わってないけど。めんどくさいからぶっちぎって来ちゃった」
「……クビになりますよ」
「いいんじゃない?」
「あ、そうですか……」
「仕事なんか辞めてもさ、あたしの老後の面倒は、シンジ君とレイちゃんで見てくれるんでしょ?」
「老後の面倒って……それは構いませんけど……マキさんはまだそんな心配をするような歳じゃ……」
 
 絶句した僕に、マキさんは笑いながら言った。
 
「とりあえずさ、部屋に入らない?」
「そうですね……」
 
 僕は部屋のロックを外しながら思う。たぶんマキさんは、連絡を受けて飛んで来たんだろう。それで、冗談なんか言って、僕たちを元気づけようとしてくれている。

 僕はみんなに迷惑をかけてばかりだ。マキさんにも、綾波にも。
 なんで僕はいつでもこうなんだろう。自分が嫌になる。自己嫌悪。

 ……自分を憎んでいれば、憎まれている方の自分は傷つかない。でもそうやって自分を慰めて、それでどうにかなるものでもないってことも知っている。
 僕は綾波のそばにいたくて、彼女に好かれたい。でも、僕は僕のことが嫌いで――。

「ねえねえ、買って来たんでしょ? パジャマ」
「え? あ、はい」
 
 部屋に入るなりマキさんが言った。
 
「レイちゃん、ちょっと着て見せてよ」
「……はい」
 
 綾波は素直にそう返事をして部屋に入った。

 マキさんも綾波も、僕に気を遣っている。

 自分でも進歩がないなと思う。悩むなら一人で勝手に悩めばいい。誰かを巻き添えにしても迷惑なだけだ。
 だから僕は、何も気にしていないふりをした。実際に、気にしていても仕方のないことなんだ。気にして落ち込んで考え込んで、何かが解決するわけじゃない。


「そうだ。カードの予備がありますから、持ってて下さい」
 
 僕はお茶を入れる用意をしながらそう言った。
 
「カードって、この部屋の?」
「はい」
「ありがとう。でもいいわ。気持ちだけで」
「どうしてですか?」
「引っ越して来ちゃうわよ?」
「いいじゃないですか」
「二人でいる時間、大事にすればいいのに」
「……」
「十四歳の男の子と女の子が一つ屋根の下で暮らすなんてそうそうあることじゃないんだから、その幸運を存分に堪能すればいいじゃない?」
 
 マキさんはからかうように笑って言った。
 僕は、このまま綾波とずっと一緒に暮らして行くつもりだった自分の気持ちに気づいた。
 僕は綾波のことが好きだ。一緒にいたい。離れたくない――。
 
「あらぁ〜」
 
 マキさんの声に、僕は顔を上げた。
 
「かぁわいいわねぇ〜。良く似合ってるわ」
 
 パジャマを着た綾波が立っていた。
 その姿を見た僕は絶句し、思わず頭を抱えた。

 しまった。
 可愛い。
 可愛すぎる。
 これじゃ逆効果だ。

 何を着せても可愛いものは可愛いんだ。僕の意志とは関係なく、身体が無駄に熱くなる。もしかすると、例えば思いっきり野暮ったいジャージとか着せてもめちゃめちゃ可愛いんじゃないだろうか? やっぱり牛柄のパジャマにしておくべきだった。いや、それでもダメかもしれない。
 
「ねえシンジ君、どう思う?」
「え? いや、その、似合ってますよね。はは」
「それだけ?」
「え?」
「前にも言ったけどさ、こういう時には言ってあげるべき言葉があるんじゃないの?」
「あ。えーと、その、か、かわいいよ。すごく」
「あ、ありがと……」
「ちょっとパジャマが大きいところがまた可愛いのよねぇ」
「そ、そうですね」
「ねえねえ。シンジ君はさ、こういうやたらと可愛いレイちゃん見てて、むらむらしない?」
「な……し、しませんよ!」
「そう? おっかしいなぁ。あたしはけっこう来てるんだけど」
「……はい?」
「シンジ君がむらむらしないんなら、あたしが押し倒しちゃおっかなー」
「僕に許可を求められても困るんですけど……」
「誰の許可を得ればいいの?」
「さあ」
 
 マキさんと不毛な押し問答をしていると、綾波が僕の腕をつついた。つんつんと。
 
「……碇くんも」
「え?」
「パジャマ……」
 
 綾波は、手に水色の方のパジャマを持っていた。
 
「僕も着るの?」
 
 彼女はこくりとうなずいた。
 
「あら、お揃い? いいわねぇ。着て見せてよ」
「ぼ、僕はいいですよ。男のパジャマ姿なんか見ても面白くないでしょう?」
「そんなことないわ。あたしは見たいもの。レイちゃんだって見たいでしょ?」
「はい」
「あ、綾波は夜になったら見れるじゃないか」
「どーしてあたしには見せてくれないのよぉ」
「いやだから僕のパジャマ姿なんて」
「つべこべ言ってないで着替えてらっしゃい」
「でも」
「いーから早く」
 
 押し切られた。困る。僕は押し込まれた部屋の中でひたすらうろたえていた。場を盛り上げようとしてくれる気持ちは嬉しいけれど、今パジャマを着るのはまずい。ジーンズならともかく、パジャマはダメだ。綾波は怪訝な顔をするだけかもしれないけど、マキさんの目はごまかせない。一生言われ続けることになる。
 
 静まれ――!
 
 心の中で叫んでみても、効果などあるわけがない。僕は進退窮まった。

 とりあえずブリーフを五枚ほど履いてみる。……これならなんとか目立たないかもしれない。少しごわごわするけど、我慢するしかない。
 
「シンジ君まだぁ?」
「い、いま行きます」
 
 パジャマを着てからもう一度慎重に位置を整え、それとわからない程度に前屈みになって部屋を出た。綾波の横に立つ。
 マキさんは僕を上から下までなめるように見た。
 
「ふーん」
 
 やはりごまかせないのか。マキさんが満面の笑みを浮かべるのを見て、僕は身を縮めた。
 
「シンジ君さ」
「は、はい」
「とっても可愛いわよ。レイちゃんと同じくらい」
「そ、そうですか」
 
 ありがとうございます、と言う気分にはなれなかった。
 
「萌え死ぬわ」
「……なんですか?」
「なんでもないの。ねえレイちゃん」
「はい」
「シンジ君のこと、押し倒してもいいかしら?」
「ダメです」
「ほら。レイちゃんはわかってるじゃないの。シンジ君もこう答えなきゃだめなのよ」
「いやでもマキさんは女の人だし」
「甘いわね」
「……はあ」
「女だから安全とは限らないわ。世の中いろんな趣味の人がいるのよ」
「……いろんなって、レズとかショタコンとかそういうことですか?」
「ショタコンって……良くそんな言葉を知ってるわね。誰がショタコンですって?」
「いえ、別に誰がどうってことはないんですけど」
「かわいくないわね」
「男ですから」



 マキさんと碇くんが軽口を叩き合う。マキさんは、すぐに考え込んでしまう私たちを元気づけようとしてくれている。碇くんもそれがわかっているから、少し無理をしている。僕は大丈夫だから綾波も元気だしなよって、私に言ってくれている。

 私がここでこうしていることで、みんなに迷惑をかけている。碇くんにも、マキさんにも。
 でも、碇くんに可愛いって言ってもらえて、嬉しいと思った。

 碇くんに見られていたい。
 碇くんにかまって欲しい。
 碇くんに可愛いって思われたい。

 そう思っているのは私。つのる想いが彼を傷つける。私を見つめてくれる彼の優しい目が、私を傷つける。
 碇くんが気を遣ってくれるのは嬉しかったし、彼を想っていたかった。彼のためになりたかった。それが彼を傷つけるのだとわかっていても。
 自分の気持ちを抑えることができない。

 わがままな私。

 不意に視界が滲む。私はうつむいた。涙がこぼれそうになるのを、碇くんに悟られないように。

 私がいるからいけない。
 こんな髪で。
 こんな瞳で。
 私がいるから。
 だから私は――。

 何度考えても、結論は同じ。気づいているのだから、いつまでもこうしていることはできない。

 でも。


 でも、もう少しだけ――。


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