「手を……かして……」
ベッドの中で、綾波が小さな声で言う。彼女は僕の差し出した左腕を取って腕枕にする。額を押しつけるようにして、僕の胸に顔を埋める。
彼女は本当にここにいるのかと、僕は不意に思った。――静かな呼吸音と甘い匂い。腕に感じる重さ。それは彼女の存在の証だ。彼女がここにいないなんてことは絶対にあり得ない。それは僕がここにいるのと同じくらい確かなことだ。
いくらそう思い込もうとしても、不安感は消えはしなかった。腕枕をしたままそっと肩を抱き、その細い髪をなでる。間違いなく、彼女は僕の腕の中にいる。こんなにもそばにいる。でも、もっと彼女を感じたかった。
裸になって、抱き締めて、口づけて、触れて、その声を聞くことができれば……。そうすればもっと彼女を近くに感じられる。きっとこんな無意味な不安感なんて消えてしまうだろう。
そうかもしれない。
でも僕にはできない。彼女が望んでいるとも思えない、そんな自分勝手なことは。
彼女を見つめていたい。細くて、儚くて、見つめていなければ本当に消えてしまいそうで……。でもそれは、見つめてさえいれば消えはしないということにはならない。でも僕にできることは他にはない。見つめて、抱き締めることしか。
腕に少しだけ力を込め、僕は彼女の存在を確かめた。
綾波は、ここにいる。
電話のベルに気づいて、私は目を開いた。時計を見ると、明け方の四時半だった。碇くんは私に腕枕をしたまま静かに眠っている。まだ彼から離れたくなかったけれど、ベルはいつまでも鳴り止まない。そっとベッドを離れ、受話器を取った。
「なにを迷ってるの?」
それは私の憧れで、そして憎しみと嫉妬の対象でもあった人の声。惣流・アスカ・ラングレー。
――夢?
――そう、夢……。あんた…見たこと、ないの……?
数少なかった彼女との会話を思い出す。夢を見ているのだと、そう思った。彼女はここにはいないのだから。
「先のことばっかり、悪い方に悪い方に考えててもしょうがないじゃん」
彼女はいつも思ったことをそのまま言う。そんな真っすぐな彼女が、今は嬉しかった。
「そこにいられるんなら、いられる内はいればいいじゃない。だめになったらその時に考えれば?」
「……」
黙っている私に、彼女は小さくため息をついた。
「まぁこっちも思ったより悪くないけどね。あんたは神様みたいなもんだし、神様の考えることは良くわかんないわ」
「……」
「ちょっと。口はあるんでしょ? 何とか言ったらどうなのよ」
ちょっと貸しなさい、という声が遠くに聞こえた。葛城三佐の声。
「レイ、久しぶりね。元気にしてる?」
「……はい」
「そう、良かった。安心したわ」
小さな、優しい笑い声が聞こえた。
「アスカも言ってたけど」
「……」
「急いで答えを出さなくてもいいと思うわ。それに」
「……」
「どうせいつかはここに来ることになるんだから。そうでしょ? その時は、もうあたしたちはいないかもしれないけど……」
「……」
「ここにいると、いろんなものが見えるわ。そっちにいた時には見えなかった、色々なものがね。文字通り見えるはずのない、あなたの想いや迷い、シンちゃんや、マキの気持ちも」
そんなややこしい話はいいからちょっと替わんなさいよ。惣流さんの声が聞こえる。ちょっと待ちなさい、と受話器を塞いだ葛城三佐のくぐもった声。
「マキも言ってたと思うけど」
「……」
「結局、あなたが自分で決めるしかない。あなたのしたいことを、自分のことをしっかり考えて決めなさい。あなたには、あなた自身の道を自分で決める権利があるんだから」
「……」
「どの道を選んでも、平坦ではないかもしれない。でも後悔なんてしてる暇はないわよ。必死にならないと、待っているだけじゃ幸せなんて来ないんだから。いいわね?」
「……はい」
もぉ〜ミサト長いぃ〜。惣流さんが苛立っている。
「アスカが話したいみたいだから、替わるわね。シンちゃんによろしく言っておいて。あんまりぐずぐずしてるようなら、ぶん殴ってやるといいわよ」
冗談とわかる言葉。だから私はほんの少しだけ考えて、「はい」と答えた。葛城三佐も少しだけ笑ってくれた。
「マキにもよろしく。じゃ、アスカに替わるから。元気でね」
葛城三佐も、と私は心の中で言った。
「あんた、もしここに来るんなら立場は対等よ。わかってる?」
「……」
「ちょっと、聞いてるの?」
「聞いてるわ」
「だからもし来る気なら、それなりの覚悟をして来なさいよ。いいわね」
「わかってる」
「じゃ、切るから。……元気でね」
最後にそう言った彼女の声は、びっくりするほど優しかった。私は少し迷って、結局こう答えた。
「……アスカも」
くすり、という笑い声がかすかに聞こえて、ラインは切れた。
部屋に戻ると、碇くんはまだぐっすりと眠っていた。ベッドに座って、しばらくその寝顔を見つめる。こらえ切れず、ブランケットの中にもぐり込み、彼の手を取って頬に当てた。夢の中でもその手はとても暖かだった。涙がこぼれそうになる。
碇くん、あたし、ここにいたい――。
心の中でそうささやく。碇くんのそばにいたい。
そっと口づけ、彼の手のひらを自分の胸にあてた。私も碇くんも、ここにいる。夢の中だけれど、確かにいる。体温が少しだけ上がったような気がした。
「あや……なみ……」
不意に彼がそうつぶやき、私は抱きすくめられた。碇くんの手のひらが、強く胸に押し当てられる。でもその呼吸は、眠っている人のそれだった。
夢はいつか覚める。心地のいい場所だけれど、いつまでもここにはいられない。
私は碇くんの腕の中で、現実に向かって目を閉じた。
下半身の冷たさに目を覚ました。見ていた夢と同じように、腕の中に綾波がいた。僕は彼女を起こさないようにそっと腕を抜き、新しい下着を持って洗面所に向かった。
汚れた下着をゴミ箱の奥に捨て、絞ったタオルで下半身を拭う。情けなくて涙が出る。右手に残る柔らかな感触はあまりにもリアルで、夢の中の出来事とは思えなかった。やり切れない。
ちくしょう――!
口の中でそう吐き捨てた。
僕は彼女が好きで、彼女を大事に思っているはずだ。なのに、なんでこんな夢を……。
水を一口飲んで部屋に戻り、ベッドに入る。どんなに自分を嫌悪しても、彼女に背中を向けることはできなかった。どんなに僕が汚れていても、どんなに嫌らしい夢を見たとしても、僕が綾波を好きだという気持ちに変わりはない。そう思うしかなかった。それに、ずっと綾波のそばにいるって、僕は約束したんだ。
「ん……」
彼女が眠ったまま小さな声を出して、僕の手を求めてきた。
僕はその手を握り、目を閉じた。朝まではまだ時間がある――。
「おっはよー!」
「おはようございます」
「……ねぇ、今朝も目玉焼きなの?」
「しょうがないじゃないですか。他にレパートリーがないんだから」
マキさんの飽きれたような言葉に、僕は小声で答えた。
「それにしてもねぇ」
「しっ。綾波に聞こえますよ。もっと小さな声で喋って下さい。綾波が拗ねるとほんとに扱いにくいんですから。……でも美味しいんだからいいじゃないですか。それに今朝はベーコンエッグですよ。綾波がベーコンを食べるって自分から言ったんです。凄いと思いませんか?」
「それはきょーいてきなことね」
マキさんは棒読みでそう言いながらキッチンに歩く。僕は笑いをこらえ、でもマキさんがうんざりするのも無理もないかなとは思う。毎朝の目玉焼きは、もう今日で何日目だろう。でも、今の綾波の作る目玉焼きはほとんど完成の域に達していた。火の通り具合、絶妙な味付け、形と、どれを取っても完璧だった。とてもじゃないけど僕にはできない。本当に美味しいし、凄いと思う。本人も、目玉焼きを作る時だけは自信に満ちあふれた表情をしている。マキさんだってとても美味しそうに食べる。
でもそれだけに、毎朝目玉焼きを作るのはそろそろやめてもいいかなという気もする。
例えば彼女は、魚を焼いたりみそ汁を作ったり、野菜を炒めたりもする。このあいだは――おっかなびっくりだったけど――ひき肉もこねた。僕に言わせれば、もう僕なんかがアドバイスする必要なんて全然ないのだけれど、彼女はまだ不安なようだ。
碇くん、手伝って――。
おたまにお味噌をすくったまま不意に僕の方を振り向き、瞳に涙を浮かべ、不安で一杯の顔で訴えたりする。
別に泣くことなんて何もないのにと思うし、おたまにお味噌をすくった状態で手伝ってなんて言われても困るんだけど、涙ぐんでいる綾波はやたらと可愛い。うん、手伝うよ、と言って頭をなでてあげたくなる。でもそれはしない。必ずと言っていいほど、満面の笑みを浮かべたマキさんが思いっきり見ているからだ。
だから僕は、うん、とだけ言って綾波のサポートをする。ただ、それくらいでいいよ、と言って、味見をして、大丈夫、美味しいよ、と言ってあげるだけだ。本当に美味しいのだけれど。
――そんな時だけ、僕は僕の中にある薄汚い欲望を忘れることができる。
私の一生懸命に作った料理を、碇くんが食べる。それは彼の身体の一部になる。私の気持ちが、彼になる。
美味しく食べて欲しいと思う。私には時間がない。早くちゃんとした美味しい料理をひとりで作れるようになって、碇くんに美味しいって言って欲しいのに、少しも上達しない。
うん、美味しいよ、と彼は言う。そう言いながら、私の作った料理の味に合わせて、彼が他の料理の味を加減する。私が碇くんの手伝いをする時と、碇くんが私の手伝いをしてくれる時では、明らかに碇くんが作ったときのごはんの方が美味しい。
碇くんは特別。
結局、結論はそれしかないのかもしれない。
でも、目玉焼きだけは自信がある。碇くんも誉めてくれた。一生懸命に、心を込めて作って行けば、きっと少しずつでも上達する。それでもいいのかもしれない。
でも私は、いくつの料理を覚えることができるのだろう……。
涙をこらえて笑顔を作り、私は碇くんを振り返って言った。
碇くん、手伝って――。
不安で一杯の、悲しい顔になっていなければいいなと思う。
週の半分以上は、部屋でマキさんと話をする。その話は少しずつ雑談とは呼べないような内容になり、聞かれることはどんどん細かくなっていた。ただ、聞かれたくないことや話したくないこと、でもいつかは話さなければならないと知っていることには、マキさんはまだ触れなかった。避けているのかもしれないと思う。
マキさんが昼間来ない時、勉強に飽きると僕たちは散歩をした。お弁当を作り、なるべく人の少ないところを選んで。人込みには出たくなかった。ガードをしてくれる人たちに迷惑をかけることにもなるし、他の人――もしかすると僕たちのことを覚えているかもしれない人――には接したくなかった。
買い物をして、部屋に戻って、私はいつものように料理を作る碇くんの手伝いをする。手元をじっと見つめ、神経を集中して味見をする。その味を、碇くんの作ったお料理の味を、身体に染み込ませたい。
「……美味しい?」
そんな私を見て、碇くんが心配そうな顔で聞く。そんなこと決まってる。本当は味見をしてるんじゃなくて、この味を覚えたいだけだから。だから私は「うん」とだけ答えた。
夕食の間中、マキさんはいつにも増して饒舌だった。そして私たちが洗い物を終えると唐突に言った。
「学校、始まることになったわ。来月からですって」
「あ、ほんとですか」
碇くんが嬉しそうに微笑んで私を見た。
「勉強、ちゃんとしなきゃね。部活は何をしようか」
もう一つの日常が始まろうとしている。
それは、夢の終わりの始まり――。
「行く中学校が決まったらしいから、一応伝えておくわ。シンジ君は第二東京で、レイちゃんは京都」
「そんな……」
「あなたたちの保護者役は、どっかの国のなんだかってNPOだかNGOだかが手を挙げたらしいわ。部屋もセキュリティとかのしっかりした素敵なのが準備されるはずよ。……で、やっぱり嫌かしら?」
「嫌ですよ。当たり前じゃないですか」
「そうよね〜。やっぱその年で遠距離恋愛は辛いわよね〜」
嫌かどうかと言われれば、間違いなく嫌だった。でも、その方が碇くんにとってはいいのかもしれないとも思う。
私のことなんて忘れた方がいい。そうすれば私も迷わなくてすむ。でもそれを嫌だと思う私。結論は出ているのに、何度も何度も繰り返し考えてしまう切ない想い。
あなたがどうしたいのかを考えなさい――。
いつかマキさんが、そして葛城三佐が言ってくれた言葉。
――碇くんと離れるのは嫌です。
自分の気持ちに正直に、こう言えればいいんだと思う。
そう言えれば、きっとマキさんも正直でいいわねって言ってくれる。碇くんも笑顔を見せてくれるだろう。
でも、私には言えなかった。
「実際、あなたたちを引き離す意味は良くわからないのよね。警護の意味ではくっつけといた方が楽なはずだし、何か心配なら京都と第二東京なんて中途半端な離し方しても意味ないし」
私のことを静かに見つめながら、マキさんが続ける。
「考えられるのは、受け入れ側の自治体か学校側が何らかの理由で難色を示したか、あるいは」
「……」
「東京と京都で取り合いをしたって所かしらね。ちょっと探りを入れてみるつもりだけど」
「取り合い……ですか?」
「そう、取り合い。エヴァとシンクロできた人間で、今この世に残ってるのはあなたたちだけなんだから、色々調べたいこともあるんでしょう」
「実験材料、ってことですか……」
「あからさまに言えばそういうことになるわね。調査結果は全部オープンにしてるんだし、子供たちを調べても何もないってわかりそうなもんだけど。そんなに信用がないのかしらね。出来損ないのエヴァの残骸は残ってるんだし、それを調べるなりマギの細かいデータサルベージするなりしてた方が、時間潰しにはいいのにね」
「……」
「最悪、世界中の研究機関をたらい回しかもよ」
「……綾波と一緒だったら、タダで世界旅行っていうのも悪くないんですけどね」
「あ、いいわね。引率としておねーさんも付いて行くわ」
「……」
「まぁ冗談はともかく、訳のわからない所で実験台っていうのは、少なくともしばらくは避けたいと思ってるの。PTSDとか何とか適当に言っておけば何とかなるんじゃないかと思うのよね」
「そう…ですか……」
「大丈夫よ。みんなあなたたちのファンだから。あなたたちのためになると思えば、みんな診断書の偽造でもデータ捏造でも何でも喜んでするから」
「……ファン?」
「そう、ファン。ほとんどアイドルなみ。男どもはレイちゃんに夢中。シンジ君がいるってこともあって、とりあえず遠くから見守れっていうか、直接口説くなって紳士協定が出来てるみたいだけど、何とか写真集でも出せないかって真剣に企画してるバカもいるわ。写真集ならまだまともな方で、腕時計とかマグカップ、抱き枕あたりからイメージビデオまで考えてるアホもいるわ」
「はぁ……まぁでも綾波の写真集はちょっと欲しいかも――」
「誰もあたしのことなんて振り向きもしないの。マキちゃんだって十分可愛いのにさ。それにあたしはレイちゃんと違ってフリーなのよ? 確かにレイちゃんに比べればほんのちょっと年は取ってるかもしんないけど」
「ほんのちょっと?」
「なによ」
「いえ、なんでもないです」
「女だってシンジ君にきゃーきゃー言っちゃってさ。いい年して瞳にお星様なんかキラキラさせちゃって、ほとんどみんなショタコンばっかり。中にはレイちゃんのおねーさんになりたいなんてのもいたりするんだけど」
「……なんて言っていいか」
「いまんとこシンジ君のおにーさんになりたいなんて屈強なバカが出て来てないのが不幸中の幸いだけど、やっぱり抱き枕とかトレーディングカードとか写真集とか添い寝シーツとか企画が進んでるのよ。なんなのよ、シンちゃん添い寝シーツってのは!」
「いや僕に言われても……」
「こないだあたしも聞かれたわよ。何とか写真の一枚でも撮れないかって」
「……」
「世界中とは言わないけど、ここにはあらゆる分野における国内有数の頭脳が結集してると言っても過言じゃないのに、今やほとんどそのモチベーションはあなたたちのアイドル性だけなのよ。ここはファンクラブかっつーの」
「……まぁ確かに綾波はかわいいですけど」
「あなたもかわいいわよ」
「そ、そりゃどうも」
「碇くんの写真集……欲しい……」
「……」
「……」
「……」
「えーと……何の話だっけ?」
「……私と碇くんが、第二東京と京都に別れなければならないかもしれない、という話です」
私は脳裏に浮かぶ碇くんの写真集の幻影を振り払って、努めて冷静にそう言った。
「そ、そうだったわね」
「……」
「仲間を弁護するわけじゃないけど、あの時に何が起きたのか、つまりサードインパクトそのものの解明は、正直デッドロックなのよね。不毛な作業に近くなってるっていうか、ノーヒントでクロスワードパズルやってるみたいっていうか」
「……」
「結局サードインパクトって、エヴァの何たるかがわからないと完全にはわからないんだけど、要するにブラックボックスなのよね。エヴァって」
「ブラックボックス?」
「そう。拾って来たものを真似して作ったら何となく動いたってとこかしらね」
「はぁ……」
「赤木博士の仕事は大体トレースできてて、それはかなり刺激的な内容で博士の才能を感じるんだけど、彼女も完全に解明したたわけじゃないのよね。もちろん使徒のこともほとんどわかっていなかった、ということもわかってきたわ」
確かに僕は、エヴァが何なのかほとんど全くと言っていいほど知らない。使徒のことだってわからない。アスカが言っていたように、襲ってくる敵、という以上のことは。リツコさんが知らないなら、たぶん綾波も知らないだろう。彼女を横目で見ても、表情に変化はなかった。
マキさんが気を取り直すようにして話を続ける。
「それでもセカンドインパクトからサードインパクトへの流れは大体わかって来たんだけど、最終的にサードインパクトが回避されたプロセスっていうと、これはまさに奇跡と呼ぶにふさわしいのよね」
「奇跡、ですか」
「そう。これはあなたたちの仕事だったんだけど」
「僕たちの?」
「そうよ。だって、シンジ君が願って、レイちゃんが徴を示して、自分のことをイメージできたみんながここにいるんでしょ?」
「……」
「セカンドインパクトもこれに近いものがあるんだけど、およそあらゆる物理法則が完全に無視されてるの。物理学者がニヒルになるのも無理もないわ。時間の断裂を疑ってる人もいるくらいだけど、こうなると哲学者の領分だと思うのよね」
「……あんまり良くわかりませんけど」
「簡単に言えば、誰かが光りあれ〜とか言ったら光が出てきて、その誰かが光と闇とを分けて昼と夜を作ったとか、言葉に命を吹き込んだのは誰かとか、そういう世界なのよね」
「……眠くなってきました」
「とりあえず哲学者と宗教学者の主だった連中は呼んできたんだけど、まぁ意味不明な議論を熱くやってるわ」
「……」
「なーんかさ、奇跡は奇跡でいいんじゃないかなって気になるのよね。まぁ確かに同じ轍を踏まないためにも事実は解明されなければならないし、それを歴史に留めておく必要もあるってわかってて、だからみんな必死にやってるんだけど」
「……」
「起きてる?」
「あ、はい。起きてます」
「レイちゃんは? 起きてるの?」
「……」
「寝てるわね?」
「え? あ、お、起きてます」
綾波が目をこする。マキさんはそれを見て少し笑った。
「まぁいいわ。大した話じゃないし。で、ものは相談なんだけど」
「……はい」
「あたし、この仕事から離れてもいいかなって思ってるの。ギャラも安いし」
「え、そうなんですか……」
「もちろんあなたたちと離れるのは嫌だし、元の職場にも戻れないんだけど……まぁそんなに未練もないしね」
「……」
「で、友達がね、北海道で牧場をやってるの」
「牧場?」
「そう、牧場。で、あたしも一緒にって話なんだけど、あなたたちに来る気があるなら大歓迎するわよって言ってくれてるの。信用できる人よ」
「はぁ……」
「手順としてはね、まずチルドレンは人口の少ない場所で何らかのアジャストプログラムが必要とかなんとか適当な理由をでっちあげて、京都とか第二東京とかの都会はしばらく無理だってことにするの。じゃあどうするって話になるから、また適当にこじつけて、その牧場が最適って推薦するの」
「……」
「認められればあなたたちはお引っ越し。でも私の仕事はマギのお世話だから、そのままじゃついていけないわね。だから仕事辞めちゃって、私も偶然にもその牧場に行くの。で、みんなで楽しく酪農生活って感じ」
「……」
「どお? もーちゃんのお世話をして暮らすっていうのは。朝は早いし辛いことも多いと思うけど、涼しいし、何より人口密度が低いっていうのがすごくいいと思うのよね」
「急に言われても……」
碇くんがそう言って私を見る。私は考え込んだ。北海道の牧場……。
もーちゃんというのは牛のことだろうか? 牛の世話をして暮らす。よくわからないけれど、碇くんと一緒なら何でもできると思う。学校も、たぶん生徒は少ないだろう。クラスに十人くらいかもしれない。もしそうなら、惣流さんのような可愛い女の子のいる確率も低いかもしれない。……それは碇くんにとっていいことではない。
でも……でも私は、その方がいい。私は少しの間だけ目を閉じた。
私はどうしたいのか。それははっきりしている。碇くんのそばにいたい。碇くんに好かれていたい。それならば、私がどうなるにしても、第二東京と京都に離れ離れになることに同意するという選択肢はあり得ない。碇くんは悲しむだろうし、嫌われてしまうかもしれない。
碇くんのそばにいたい。そして碇くんに幸せに暮らして欲しい。私が碇くんのそばにいることが彼の幸せなら、それが一番いい。でも、いつまでも一緒にいることはできない。
いられるうちは、そこにいればいいじゃん――。
そうかもしれない。でもそれは、碇くんにとって本当にいいことなのだろうか。いつまでも一緒にいられないとわかっていて、それでもいられるうちは一緒にいる。私はそれでもいい。でもそれは碇くんにとって幸せなのだろうか。
彼には、私なんかよりずっとかわいくて、いつまでも彼と一緒にいられる女の子がふさわしいって、わかってる。わかっているなら、結論はひとつしかない。でもそれを受け入れられない自分がいる。
「別に北海道じゃないとだめって話でもないんだけど」
黙っている私を見て、マキさんが話を続ける。
「さっきも言ったけど、問題は政府側がどうしてあなたたちを引き離そうと思うのかがわからないってことなのよね」
「……」
「あたしもちょっと読み切れないんだけど、もし社会への影響を考えてるなら、人里離れたところなら一緒にいてもいいのかもしれないって思って。もっとも」
マキさんが頭をかきながら続けた。
「一人なら都会でもいいのかっていうのはよくわからないんだけど。まぁ北海道の件はアドバルーンみたいなものね。うまく許可が出てあなたたちに異存がなければ、ほんとに引っ越すけど」
「……僕、行きますよ。綾波と一緒なら、北海道でもどこでも」
碇くんが決意したように言う。
「でも、マキさんはいいんですか?」
「あたしは前からチャンスがあったら行きたいと思ってたの。ちょっと決心がつかなかったんだけど、これもいい機会だから。レイちゃんも、シンジ君と相談しながらゆっくり考えておいてくれる?」
わからない。決められない。でもそれは判断がつかないんじゃない。判断したくないだけ。
「…………あたしも、行きます」
それでも私は結局そう言った。碇くんと離れるという決断は、私にはどうしてもできなかった。
「一年間、機械に囲まれて暮らしてきましたから、少しは自然の多いところで暮らしてみたいです」
碇くんがほっとしたような顔で私を見ながら言う。私は目を伏せた。
「じゃあとりあえず非公式に打診してみるわ。うまく行くといいけど。でもね、酪農をなめちゃだめよ。やっぱやめたってんでも構わないから、もう少し二人でよく考えてみて」
「酪農って……具体的にはどんなことをするんでしょうか」
「ん〜、あたしも良く知らないんだけど」
「……」
「やっぱ酪農って言うくらいだから、もーちゃんのおっぱい搾ってお乳とって牛乳やらバターやらチーズやらソフトクリームやら作るんじゃないかしら?」
「もーちゃんの……おっぱい?」
私は顔を上げた。
「どうしたの?」
私の少し高い声に、碇くんが驚いたように言う。
「おっぱいを……しぼるの?」
「そうよ。どうして?」
マキさんが怪訝な顔で聞き返す。
「手で、ですか?」
「まさか。仕事なんだから機械搾乳でしょ、いくらなんでも。でも、どうして?」
「……いえ。なんでもありません」
それならいいかな、と私は思った。
碇くんもマキさんも不思議そうな顔をしている。
たとえ牛でも、碇くんが他の誰かのおっぱいに触れるのが嫌だと思った、とは言えなかった。