離れていても、どこにいても

第拾伍話
Written by tamb

「夕陽がこんなにきれいだなんて、今まで少しも気づかなかったよ」
 
 高台にある公園のベンチで、碇くんがそう言った。ここは彼のお気に入りの場所。私たちのお気に入りの場所。
 
「北海道さ……」
 
 碇くんが夕陽を見つめたまま言葉を続ける。
 
「許可が出て、一緒に行けるといいよね」
「……うん」
「僕も行ったことないからよくわからないけど、た、たぶんこの夕陽より、もっとずっと大きくて、き、きれいだと思うんだ」
「……」
「そ、それでさ」
 
 碇くんの様子がおかしい。私は彼を見つめた。彼は私の方ではなく、まっすぐに夕陽を見つめ続けている。頬が赤いのは、夕陽に照らされているせいだろうか。
 
「そ、そのさ。前に綾波は、ずっとそばにいてって、僕に言ってくれたじゃないか」
「……うん」
「僕も、ずっと綾波のそばにいるって、約束したよね」
 
 私は黙ったまま頷いた。彼が何を言いたいのか、私にもはっきりとわかった。
 
「僕たち、まだ子供だから」
「……」
「本当はこんなこと言ったらいけないのかもしれないけど」
 
 私はうつむいた。どんな顔で、なんて答えたらいいのかわからなかった。
 
「十何年か後に、ぼ、僕たちの子供と一緒に、こんな風にきれいな夕陽を見たいなって、思うんだ」
「……」
「僕はあれだけどさ、あ、綾波の子供なら、綾波に似れば、絶対かわいいし」
「……」
「僕たちの子供は、すごく愛してあげて、思いっきり甘やかしたいなって、そう思うんだ」
「……」
「あ、綾波。僕は綾波のこと、好きなんだ。綾波を僕のものにしたい。誰にも渡したくないんだ。ずっと、いつか死ぬまで……死んでからもずっと一緒にいたい。一緒にいて欲しいんだ」
 
 私は口唇を噛んで涙をこらえた。彼の言葉は嬉しかった。嬉しいときにも涙は出る。でもこれは嬉しい涙じゃない。彼の気持ちに応えられない、応えたいのにそれができない、悔しい涙。
 ずっと一緒にいられなくても、いられるうちだけでも一緒にいればいいのかもしれない。でも、碇くんの子供を産むことはできない。

 碇くんが振り向いて私を見ている。私の言葉を待っている。

 碇くんが好き。私は碇くんが好き。ずっとずっと一緒にいたい。その気持ちは嘘じゃない。
 だったらそのための努力をしよう。いつまでも一緒にいられるための努力を。
 だから私は口を開いた。
 
「あたしも、碇くんと……」



「よぉ、シンジ。久しぶりだなぁ。お、綾波も一緒かぁ」
 
 声が聞こえた。
 なんだよ、と僕は思う。せっかく勇気を振り絞って告白して、綾波の返事が聞けるところだったのに。返事が聞ければ、もし今はいい返事がもらえなくても、少しでも明日が見えれば自分の欲望に惑わされずに済むと思ったのに。

 誰だよ、いったい。
 僕は多少の怒りを込めて、声のした方を振り向いた。僕らよりは少し年上、高校生くらいの人がゆっくりと歩いてくる。知らない顔だった。まさかとは思ったけれど、綾波を振り向いて目で尋ねる。彼女は小さく首を振った。少し怯えた顔で。

 まずい。

 もっと早く気づくべきだった。僕のことを「よぉシンジ」なんて気安く呼ぶような人は、もうこの街にはいないことに。
 僕は緊張した。
 人気のない公園だから、ガードの人も僕たちに気を遣って近くにはいない。
 その人は僕たちから数歩離れたところで立ち止まった。まるで絵に描いたような、冷たい笑顔を浮かべている。僕は立ち上がって、綾波を隠すようした。
 返事はまだもらってないけど、たった今、僕は決めた。この娘は僕のもんだ。誰にも、指一本でも触れさせるもんか。

 立ち塞がったまま、ちらりと周囲を見る。気がつかなかったけれど、ガードの人たちはその人が公園に入って来た時にはもう警戒していたようだった。でもその人がまだ子供だったから、危険かどうかの判断がつかなかったのだろう。その人の気安い様子から、先生のところに預けられていた時の知り合いとでも考えたのかもしれない。でも、立ち上がった僕の様子を見て、一斉に駆け寄って来た。

 僕が周囲に目を向けたのがいけなかったのかもしれない。あるいはもっと早くに合図でも出せば良かったのかもしれない。その人はガードの人たちが駆け寄って来るのに気づいて、ポケットからナイフを取り出した。そして、何のためらいもなく、一気に間合いを詰めてきた。ガードの人たちは間に合わない。

「お前らが――!」

 大声を出して、ナイフを突き出してきた。僕の後ろには綾波がいる。避けるわけにはいかない。
 
「綾波! 逃げて!」
 
 僕はそう叫んで、突き出されてくるナイフを見つめた。時間の流れが引き伸ばされたように感じる。最初の一撃さえかわせば、すぐにガードの人たちが来てくれる。ほんの数秒だけ、時間を稼げばいい。僕はナイフを持った手を目がけて蹴りを放った。つもりだった。僕の足は空を切った。

 うまくいかないもんだな――。

 そんなことを思った次の瞬間、激痛が走った。腹にナイフが突き刺さっていた。
 
「――っ!」
 
 声にならない悲鳴が漏れる。
 
「碇くん!」
 
 綾波の声がすぐ近くに聞こえた。何やってんだよ、逃げろって言ったのに。僕は渾身の力でナイフを持った相手の手をつかんだ。綾波がそばにいる。こいつを離すわけにはいかない。
 いつのまにか横に回っていた綾波が、土くれを持った手を相手の目に擦り込んだ。
 
「うわあっ」
 
 情けない悲鳴が上がる。ガードの人はもうすぐそこだ。綾波がすぐにそいつから離れたのを確認して、僕は手を離した。そいつは棒立ちのまま激しく目をこする。次の瞬間、ガードの人のタックルをまともに浴び、そいつは吹っ飛んだ。
 間に合った。僕は取り押さえられるそいつから目を離し、腹を見下ろした。ナイフは抜けていて、おびただしく血が流れていた。力が抜けた。
 
「碇くん! しっかりして!」
 
 綾波もこんな大声を出せるんだなと思いながら、僕は顔を上げた。
 
「碇くん!」
「綾波……怪我はない?」
「あたしは大丈夫だから……だからしっかりして!」
 
 そうか。良かった。僕でも少しは彼女の役に立てたかな。
 でも……。
 
「綾波……おれ、もう死んじゃうんだ」
「しっかりして! 死なないで! 死んじゃだめ!」
 
 綾波はそう叫んで手を握ってくれた。
 
 救急車を、早く――!
 
 ガードの人が携帯で話をしているのが聞こえる。
 綾波がハンカチを出して、傷口を押さえてくれる。いいんだ、もうそんなことしなくても。手が血で汚れるよ。
 
「綾波……僕は……」
 
 意識が途切れた。







 気が付くと知らない天井だった。またか、と僕は思う。死後の世界ってのも、意外と変わり映えしないもんなんだな……。
 首を向けると、隣のベッドに綾波が横になっていた。綾波も死んだのか。僕は彼女を守れなかったのか……。
 
「なんだよ……」
 
 僕は声に出してそう言った。涙があふれて止まらなかった。
 
「なんだよ! 死ぬのは僕だけでいいよ! なんで綾波まで死ななくちゃならないんだよ!」
「別に死んでないけど。あなたもレイちゃんも」
「……え?」
 
 この声には聞き覚えがある。……マキさんだ!
 僕は慌てて涙を拭き、体を起こした。
 
「おはよ」
「お、おはようございます」
「どお? 生きてるってのは」
「あ。えーとその。やっぱりいいもんですね。ははは……いててて」
「我慢なさい、ちょっとくらい。男の子でしょ。……全くおおげさなのよ。二針縫う程度のケガでさ」
「二針?」
「そうよ」
「でも……ナイフがぐさって刺さって、血がどばーって」
「ぐさっともどばーっともなってないの。先っぽがちょっと刺さって、ちょっぴり出血しただけ。かすり傷よ。つばでも付けとけば直るわ」
「そ、そうですか……」
 
 僕はその程度で失神したのか……。
 
「まぁレイちゃんに何もなくて良かったって、安心したんでしょ。シンジ君は良くやったって、みんな言ってたわ。ナイフに立ち向かうなんて、そうそうできることじゃないから。きっと鍛え甲斐があるだろうって」
「……」
「レイちゃんも冷静で良かったって。とっさに土を目に擦り付けるなんて、なかなか思いつくもんじゃないし。いいタッグチームだって言ってたわ」
「……」
「ま、何か打撃系格闘技でもやっといた方がいいかもね。愛しの彼女のために」
「……綾波は」

 愛しの彼女。
 僕はその言葉を聞いて、綾波を振り向いて言った。僕は綾波に助けられた。彼女は小さく寝返りを打って、僕に背中を向けた。

「綾波は、どうしてここで眠ってるんですか」
「すごくうるさかったの」
「うるさい?」
「そう。碇くん死んじゃだめ死なないでって、泣きながら大声で。いつものレイちゃんからは想像できないくらい取り乱して。この程度の怪我で死ぬ奴はいないから大丈夫って言ってもダメなの。だから、あなたの治療が終わってちょっと落ち着いたみたいだったから、鎮静剤を打たせてもらったわ。そしたらパタンて寝ちゃった」
「……」
「まぁ今回の件に関しては何か考えないとダメよね。とりあえず警備態勢は練り直してもらうわ。ほんとは暴漢なんてあなたが打撃系格闘技でぶっ倒してくれるのがレイちゃん的には嬉しいんだと思うんだけど。あ、護身術で寝技やってる暇はないからね」
「……」
「そ、それはともかく、とりあえず催涙スプレーでも持ち歩いて。用意しておくから。ケブラー繊維とかで服を作るっていうのもありなんだけど、デートの時のお洋服くらいは好きなの着たいだろうし。あと、警備に連絡の取れる発信機はすぐに準備するわ。危ないときにスイッチ入れればガードがすっ飛んでくるって寸法で。やたらと押しちゃだめよ」
「わかってますよ」
「でもやっぱり女の子としては彼氏がびしっと打撃で――」
「やけに打撃が好きですね」
「相手がもし複数だった場合、悠長に寝技なんかやってる隙に――」



 私は静かに寝返りを打って、そっと膝を抱えた。碇くんとマキさんが話をしているのを、背中を向けたまま、眠った振りをしながら聞いていた。碇くんの顔を見れば、感情の波を堪え切れず、彼にしがみついて泣いてしまうだろう。それは彼の傷に障る。だからこうしているしかなかった。

 あの時、なぜ私はA.T.フィールドを展開しなかったのだろう。碇くんが私を守って死んでしまうかもしれなかったのに。
 自分でもわからなかった。A.T.フィールドを展開して私がヒトではないと知られるのが怖かったのかもしれないし、もっと自分勝手に、碇くんに守って欲しかったからかもしれない。まるで、どこにでもいる普通の女の子みたいに。
 私はヒトじゃないし、ましてや普通の女の子なんかじゃないのに。
 私が碇くんを守れるのに。

「立ち関節だって同じことよ。関節取るのに手間取ってたら、愛しの彼女が危険だわ」
「そうですね……」
「言っておくけど、たとえ相手が一人でもチョークスリーパーは危険よ。サミングって手があるもの。競技じゃないんだから。それに、寝技でトップポジションを取ったにしても、インサイドガードかなんかで膠着したらどうするの? ブレイクはないのよ」
「いや、技術的なことは良くわかりませんけど……」
「相手がタックルに来たら、膝を合わせるか切るかの決断を即座にするべきなんだけど、基本的には膝を合わせるべきね。万一かわされたら、慌てずにガードポジションに移行すること。その後の展開を考えると、最低限スイープとパウンドの練習はしておくべきね。できればTKシザースも」
「あの、用語がさっぱりわからないんですけど……」
「勉強しなさい」
「マジですか?」

 マキさんが意味のない話を続けている。とにかく喋って、碇くんの気を紛らわそうとしている。
 私が目を開いたら、マキさんはきっとこんな風に言うだろう。

 ――レイちゃん、シンジ君に守ってもらえて良かったわね。二人とも大きな怪我はなかったし、とにかくシンジ君ってばかっこ良かったよね。綾波、逃げて、なんか言っちゃってさ。キックが空振りだったのはちょっとかっこ悪かったけど、フォームはなかなか良かったみたいだし、少なくとも時間稼ぎって意味では有効だったんだしね。相手はためらったんだから。それにさ、自分が刺されてるのに相手を捕まえておくなんて、そうそう出来ることじゃないんだから。レイちゃん、愛されてるのよ。うらやましーなー。

 碇くんが怪我をして、私は自分でも信じられないくらい動揺した。
 彼が死んで、私だけが生き残る。それは想像すらしたくないことだった。
 ……愛されているのかもしれない。彼は私のことを好きだと言ってくれた。それでも私は、持てる全ての力で彼を守ろうとはしなかった。A.T.フィールドを、展開はしなかった。
 彼に嫌われたくなかったから。彼に守って欲しかったから。……自分勝手だから。

 ――今の私には、碇くんの隣にいる資格がない。

 簡単な結論だった。涙は出なかった。前からわかっていたことだった。

 ただ、悲しかった。そんな結論を出さなければならない自分の存在が、悲しかった。


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