傷口を縫ってくれた先生は、痛み止めと消毒の処方箋を出し、もう帰っても大丈夫だと言ってくれた。先生とマキさんは気安く話をしていて、知り合いのようだった。次の予約をして、綾波を起こして――なかなか起きてくれなかったけれど――薬局で薬をもらってから、僕たちはマキさんの車に乗って部屋に戻った。僕の怪我に気を遣ってくれたのか、運転はとても丁寧だった。
「お腹、すきませんか?」
部屋着に着替え、私がみんなにお茶をいれて一息ついた時、碇くんはそう言った。私たちもそうだし、たぶんマキさんも晩ごはんなんて食べていないはずだった。碇くんも部屋に帰ってきて少しほっとしたのかもしれない。
「そうね……」
マキさんが私を見る。
「レイちゃん、おなかはどお?」
「……少し」
私はお腹なんか少しも減っていなかったけれど、そう答えた。
「じゃあ何か簡単なものを」
碇くんがそう言って立ち上がる。私も立ち上がった。
あたし、作ります。簡単なものなら、あたしひとりでもできるから。碇くんは座っていて――。
そう言いたかった。でも言えなかった。ひとりでは何もできないから。
「じゃあ綾波は」
碇くんが私にエプロンを渡しながら言う。
「目玉焼き、作ってよ」
「……うん」
ほんの少しだけ、救われた気分になった。
料理なんて、作る必要があったから作っていただけで――。
立ち上がりかけた僕を制して、ひとりで洗い物をする綾波の後ろ姿を眺めながら思う。僕も料理をすることは嫌いではないけれど、上手になりたいとか美味しく作りたいとか、あまり思ったことはなかった。
でも綾波はそうじゃないみたいだった。目玉焼きは文句なく美味しいし、レタスサラダも素敵だった。大根を目の前にして途方に暮れていたのがすごく昔のことのように思える。それは彼女が女の子だということなのかもしれないし、自惚れた言い方をすれば僕に作ってあげたいという気持ちなのかもしれない。
たぶん綾波は、素敵な、いい奥さんになるだろう。僕は綾波に、僕の奥さんになって欲しいと思っている。だから僕は、ちゃんと彼女を守ってあげられるような、彼女にふさわしい人間になりたかった。
綾波は洗い物を終えると僕たちにお茶を出してくれた。とてもくつろいだ気分になった。「ありがとう、レイ。君もこっちに来て少し休みなよ」なんて言ってみたくなる。もちろん実際には言わないけれど。
「ねぇ、レイちゃん」
マキさんは綾波のいれたお茶をすすり、僕をいたずらっぽい目で見ながら言う。嫌な予感がした。
「はい」
「シンジ君ね、怪我しちゃったから、しばらくお風呂に入れないの」
「はい」
「でもさ、ほら、やっぱり汗かいたりするでしょ。だからさ、夜寝る前に、シンジ君の身体、拭いてあげてくれる?」
「わかりました」
僕は思わずのけぞった。くつろいだ気分が一瞬で吹っ飛んだ
「なななななに言ってるんですか。自分でやりますよ。身体拭くくらい」
「手の届くところは自分でやりなさい。でも背中とかは自分じゃ拭きにくいでしょ?」
「か、乾布摩擦の要領で――」
「わけわかんないこと言ってないで、レイちゃんに甘えればいいの。怪我してる時くらい。ねぇレイちゃん、シンジ君の身体、拭きたいでしょ?」
「拭きたいです」
「い、いや、だから自分で」
「往生際が悪いわねぇ。おとなしく拭かれなさい。男の子でしょ?」
「こ、こんなの男も女もないんじゃ」
「あら。じゃあレイちゃんが怪我したとき、シンジ君は恥ずかしがるレイちゃんの背中を無理やり拭くとでも言うの?」
「そ、それとこれとは話が――」
「同じよ。うるさいわねえ、もお。ぶつぶつ言わないの」
「あ、綾波に背中なんか拭かれたら、その、どきどきして傷口が――」
「開かないわよ。ばっちり縫ってあるんだから。乾布摩擦なんかしてたらその方が開くわ。ぱっくりと」
「……」
全然理屈は通ってないけど、いつものように丸め込まれた。仕方がない。後で綾波にはっきりと言おう。背中くらい自分で拭くからって。
「あたし、ちょっと仕事に戻るけど」
「え、こんな時間からですか?」
時計を見ると、もう十時に近かった。
「ちょっとやる事があるのよ。そんなことより、いい? 明日、レイちゃんに背中拭かせてあげたかどうかきっちり確認するから、そのつもりでいてね」
「な、なんですかそれは」
「じゃ、また明日ね。レイちゃん、しっかりね」
「はい」
「ちょ、ちょっと待ってくだ――」
「忙しいの。じゃあね〜」
マキさんはそう言って、手を振って出て行った。相変わらず勝手な人だ。でも腹は立たなかった。ちょっと悪ふざけが好きなだけだし、もちろん悪気もないってわかっているから。
「マキさんて、なんでこんなに冗談が好きなんだろうね。ほんと、困っちゃうよ」
僕はそう言って綾波に笑いかけ、そのまま凍りついた。彼女は絞った濡れタオルを持って立っていた。真剣な目で。
「背中……」
「いや、自分で拭くから。ほんとに」
「かんぷまさつみたいなことをすると傷口が――」
「開かないって。大丈夫だよ」
「……」
彼女はあからさまにがっかりした顔をした。
かわいい。
僕はつい笑顔になった。綾波の不機嫌な顔もかわいかったけれど、がっかりしてる顔もいい。時々はがっかりもさせてみようかな、なんて思ったりする。でもすぐに顔を引き締めた。それはそれ、これはこれだ。背中なんか拭いてもらうわけにはいかないんだ。
僕は厳しい表情を作って彼女を見た。
果てしなくがっかりしている。
少しかわいそうになった。
部屋の中で、上だけ脱いで拭いてもらうなら、別に問題ないかもしれないな……。
でも僕は即座にその考えを打ち消した。だめだ。すぐにエスカレートするに決まってる。抜糸まで少なくともあと数日はかかるだろう。甘い顔をしていると、ふと気づいた時には全裸で大の字になって全身をくまなく拭いてもらっていた、なんてことにもなりかねない。
「さ、先にお風呂……身体、拭いてくるから」
「……」
僕は彼女の返事を待たず、着替えを持ってバスルームに駆け込んだ。さっさと済ませてしまうしかない。思い詰めた綾波が、あらぬ行動に出る前に。
ちょっと考えてから、裸になった。服が濡れないように注意しながらよりは裸になった方が早い。浴槽に頭を向け、傷口を覆っているガーゼを濡らさないように注意しながら頭を洗う。
洗い終わってから気づいた。タオルを持って入るのを忘れた。軽くでも拭いておかないと、髪の毛から垂れた滴が傷口を濡らしてしまうかもしれない。とりあえず手で髪を絞った。タオルは脱衣所にあるのだから、濡らさないように注意して取ればいい。ちょっとくらい濡れても、どうせすぐにガーゼを替えるんだから大丈夫だと思うし。
――かちゃ。
かちゃ?
タオルを取ろうと立ち上がりかけたとき、不穏な音と共にバスルームのドアが開いた。
「碇くん……」
「あーっ!ちょちょちょちょ」
僕は意味不明な声を上げた。人間、本当に驚いた時はまともに声など出せないものだと、実感としてわかった。
でも今はそんなことに感心してる場合じゃない。僕は全裸なんだ。あわてて綾波に背中を向け、前屈みになって両手で前を隠した。
「あああ、あの、綾波さ」
「……」
「たた、タオル、取ってくれる?」
「……うん」
僕は背中越しに受け取ったタオルで腰を覆った。とりあえず最悪の状況は脱したと信じたい。
「髪の毛、拭くわ。傷口が濡れるといけないから」
「あ、うん……」
もう諦めよう、と僕は思った。しばらく恥ずかしいのを我慢すれば済む。こんな状況で反応するはずもないし、十何年かして僕たちの子供に聞かせるには面白い話になるかもしれない。綾波に頭を拭いてもらう心地よさに身を任せながらそんなことを思い、ふと昼間の返事をまだもらっていないことに気づいた。
明日にするか、ベッドの中で聞くか。それとも今ここで聞くべきか。
明日にするのは潔くないような気がする。それに、もう一度勇気を振り絞って今日と同じことを告げるのは辛い。かと言って、ベッドの中で聞くのは危険すぎる。「碇くん、好きよ」なんて言われたら、どうなっても責任は持てない。
じゃあ今聞くか。そんなの問題外だ。僕は全裸なんだ。もしいい返事なんてもらったら有頂天になることは間違いないし、そうなれば自分がどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。最悪だ。
いったい何を考えてるんだ、僕は……。明日にしよう……。
そっとため息をつく。そして次の瞬間、突然あることに気づき、戦慄した。
綾波はどんな格好をしてるんだ。まさか裸だなんてことは……。
常識で考えればあり得ない。でも綾波のことだ。万が一ということもある。「こんなことに男も女もない。怪我はしてないけど、あたしも碇くんに背中を拭いて欲しい」なんて考えていたとしたら。
僕の心臓は跳ね上がった。でも振り向いて確認することは絶対にできない。ならばどうするか。いったいどうしろというのか。
「碇くん……背中……」
「……え?」
「背中……拭いてもいい?」
綾波が、細い、すがるような声で言った。その声で僕は正気に戻った。
「あ、うん……。じゃ、お願いしようかな」
「うん」
どうしようもない。流れに身を任せるしかなかった。
綾波は黙って僕の背中を拭き始める。気持ちいい、と思った。ふと下を見ると、視界の隅に綾波のつま先が見えた。素足だった。それは当然だろう。でも、もう綾波が裸でもかまわないと思った。僕は綾波が好きなんだから、自分を抑えることができなきゃいけない。彼女のためにも、自分のためにも。それができないなら、僕には彼女を好きになる資格なんかない。
そう思うと、僕の気持ちは落ち着いた。
不意に、静かな嗚咽が聞こえた。
「綾波……?」
「碇くん……」
その声ははっきりと涙声だった。
「ごめんね、碇くん。ごめんね……」
絞り出すようにそう言って、彼女は僕の背中にすがりついた。胸の膨らみが押し付けられた背中に、熱い雫が落ちた。
「どうして謝るの?」
「あたしのせいで……こんな怪我して……」
「綾波のせいじゃないよ」
僕はなるべく明るい声で言った。綾波は悪くない。
「色々理由はあると思うんだけど……あの人だって思い詰めてたんだろうし、たぶん誰のせいでもないんだ」
「……」
「僕さ、マキさんも言ってたんだけど、何か格闘技でも習おうかと思うんだ」
彼女の嗚咽は止まらなかった。
「中途半端な技術で、変な自信を持ったりするとかえって危ないのかもしれないけど、僕なら性格的に大丈夫だと思うし、過剰防衛みたいなことにもならないと思うんだ」
「……」
「綾波のこと、守りたいし、僕も怪我しないようにするよ。だからさ、泣かないで」
僕は振り向いて彼女に言った。背中にすがりつかれた時に、服を着ているのはわかっていた。
「僕さ、綾波の笑顔が好きなんだ」
うつむいて、静かに涙を流している彼女の頭をそっとなでながら、僕は言った。
「笑顔、見せてよ」
「キス……して……」
彼女はうつむいたままそう言った。僕は彼女の頬に触れ、そっと口づけた。涙の味のするキス。もう何度目だろう。甘い蜂蜜やレモンの味のキスより、しょっぱい涙の味のするキスの方が多いような気がする。綾波の柔らかな口唇を感じながら、そんなことを考えるくらい何度も口づけていることに気づいた。
綾波の手が、ためらいがちに僕の肩に触れる。同時に彼女の舌がおずおずと僕の口唇を割った。舌と舌が触れ合い、僕たちの身体が同時に震える。綾波の口唇が甘くなる。彼女の高い体温が伝わってくる。僕の心臓も爆発寸前だった。
しばらくの間、僕たちは舌先を触れ合わせていた。優しく髪の毛をなでながらそっと舌先を動かすと、そのたびに彼女の身体が小さく跳ねた。もっと大胆に絡め合いたかったけれど、まだ僕にそんな勇気はなかった。
少し息が苦しくなったのだろうか、やがて綾波は甘い吐息を漏らしながら僕から離れた。切なかった。ずっとこうしていたかった。
綾波が濡れた瞳で優しく微笑む。僕も彼女を見つめた。彼女は静かに視線を落とし、そしてすぐに顔を上げた。
真っ赤になっていた。
自分がどうなっているか、僕もその時ようやく意識した。全裸で、腰にタオルを乗せているだけ。それでこんなに甘いキスをしていたのだから、僕がどうなっていたとしてもそれは仕方のないことだし、むしろ正常なんだと思う。でも正常だからどうだという話にもならない。
僕はうろたえた。
「あ、いや、その、こ、これは……」
「じ、自分で手の届くところは、自分で、ふ、拭いてね」
彼女は平静を装って、でも真っ赤な顔でしどろもどろにそう言うと、僕にタオルを渡して逃げるようにバスルームから出て行った。
まぁいいや、と僕は思う。
平然とされてても困るもんな……。
僕は自分の下半身を見下ろしながら、そう思った。
手早く身体を拭き終えてバスルームを出ると、綾波は消毒液と軟膏とガーゼと綿棒を用意して待っていた。
「ガーゼ、替えないと……」
「それくらいは自分でも――」
「あたし、慣れてるから」
彼女は自信たっぷりにそう言った。それは事実のような気がする。
「じ、じゃあ、お願いしようかな……」
「うん」
「……」
「……」
「あの、どうすれば……」
「服を脱いで、横になって」
やっぱりそういうことになるんだよな。僕は一瞬ためらう。でもすぐに覚悟を決めた。妙な具合にエスカレートしないように気をつければいいだけだ。明日はガーゼを替えてから身体を拭こう。
僕はおとなしくシャツを脱いで横になった。綾波が慎重にテープをはがし、ガーゼを取った。
そう言えば、傷口を見てなかったな――。
僕は肘をついて頭を起こし、傷口を見た。
なんてことなかった。拍子抜けした。確かに縫ってあるけど、これはほんとにかすり傷だ。
この程度で失神するようじゃ、男として情けないよな。本当に何か格闘技を習おう。精神から鍛えなきゃ、そのうち綾波に嫌われちゃうよ……。
丁寧に消毒し、綿棒に軟膏を付けて傷口に塗ってくれる綾波の横顔を見つめながら、そんなことを思った。
彼女はガーゼの形を整えて傷口に乗せると、テープで止めてくれた。
「ありがとう」
「ううん」
僕がお礼を言いながらシャツを着ると、彼女はそう言って首を振った。確かに慣れてるのかもしれないけど、それにしても丁寧だし、手際はいいし、的確で素早い。才能があるのかもしれない。
「綾波、看護婦さんとか、向いてるかもしれないね」
「……看護婦さん?」
「正しくは看護師さん、って言うのかな……」
「向いてる……?」
「いや、なんとなくなんだけど。今ガーゼ替えてくれたのだって、すごく丁寧で手際も良かったし。それにほら、白衣の天使とかって言うじゃないか。イメージ的にはぴったりかなって」
「……」
「……」
「……よく、わからない……」
「あ、いいんだ。別に。深い意味があって言ったわけじゃないから」
「……お風呂、入ってくるね」
「あ、うん」
気分を害しちゃったかな、と僕は思う。看護婦さんて、重労働らしいし。
「い、碇くん。碇くん怪我してるし、疲れてると思うから、べ、ベッドで寝て待ってて」
綾波は僕とお揃いのパジャマを持ってきて、うつむき加減にそう言った。
「え? あ……うん、わかった」
彼女は僕の返事を聞くと、そのままバスルームに消えた。
ベッドで寝て待ってて――。
その言葉の意味を考える。
ただ僕の身体を気遣ってくれているだけだ。アイスティーなんかいれなくていいから休んでいて――。それ以上の意味なんてあるはずがない。わかってる。ちゃんとわかっている。それでも僕は考えてしまう。さっきはあんなに甘いキスもしたんだし、昼間の返事を、言葉じゃない形で聞かせてくれるつもりなのかもしれない……。
僕は強く首を振った。焦る必要なんかない。僕たちには時間がある。彼女にふさわしい強い自分になって、その時に返事をもらおう。言葉による返事と、言葉ではない返事を。急がずに、ゆっくりと歩いて行けばいいんだ。
そう思うと、僕は急激に眠気を覚えた。やっぱり疲れているんだろう。長湯の綾波がお風呂から上がるには一時間以上かかる。どっちにしても、少し眠っておこう。
僕も綾波とお揃いのパジャマに着替え、ベッドにもぐりこんだ。すぐに起き上がった。歯を磨いておくべきだ。
僕は脱衣所の外から大声で綾波に声をかけた。
「あ、あやなみー!」
「はい」
彼女の声が近くに聞こえる。まだ脱衣所にいるみたいだった。
「その、歯を磨きたいんだけど」
「ちょっと待って」
「う、うん」
僕は思わず生唾を飲んだ。
この扉の向こうで、綾波が、服を脱いで、今にも裸に……。
――僕は救いがたいほどのバカなのかもしれない。
一瞬、真剣に悩んだ。
他に考えることはないのか――?
僕が悶絶していると、バスルームのドアを開く音がした。
「いいわ」
「あ、ありがとう」
返事が妙に上ずってしまう。
脱いだ服とパジャマが、きちんとたたんで置いてある。一番上は、シャツだ。
綾波がお湯を浴びている音が聞こえる。振り向くと、曇りガラス越しに彼女のシルエットが見えた。
僕はあわてて歯ブラシに歯磨きをつけ、脱衣所を飛び出した。気が狂うんじゃないかと思う。
頭のてっぺんからつま先まで、念入りに身体を洗いながら私は考える。
エヴァに乗っているとき、看護婦さんにはお世話になった。お医者さんと看護婦さんがいなければ、私は今ここでこうしていることもないだろう。理由はどうあれ、それは感謝するべきことなんだと思う。あの頃は、誰かにお世話になったとか感謝するとかいう気持ちは持っていなかったけれど。
将来何になるかなんて、考えたことはなかった。看護婦さんになりたいと、初めて思った。誰かに感謝されたいわけじゃない。でも、碇くんにもらった元気を少しでも他の人にわけてあげられたら、それは素敵なことなんだと思う。
今の私には、するべきことがある。でも、目標を持つのは悪いことじゃない。
身体中をぴかぴかにして、お湯に浸かって念入りに歯を磨きながら、そんなことを思った。
お風呂から上がって髪を拭き、鏡に映る自分の姿を見つめた。深呼吸を、ひとつ。
パジャマを着て碇くんのところに行くと、彼は眠っていた。
私は微笑んだ。
碇くん、ベッドで待っててっていうあたしの言葉の意味、考えなかったのかな。
すごく勇気出して、言ったのに――。
でも、彼らしいと思う。
優しくて、気弱で、決して強くはないかもしれないけど、でも強い心を持ちたいと願っていて、そして私を大事に想ってくれて――。
私は、そんな碇くんのそばにいたい。
人を好きになるのに理由はない。理由なんかいらない。碇くんを好きになって良かったと、心からそう思った。
でも今の私には、朝ごはんを作って、ガーゼを替えて、背中を拭くくらいしかできない。
だから私は――。
「綾波……」
彼が寝言を言った。
私は彼の穏やかな寝顔を見つめながら、パジャマを脱いで制服に着替えた。
ほんの少しだけ迷った。本当にこれでいいのだろうか……。
それでも私は能力を解放した。そして、A.T.フィールドを球状に展開して碇くんを包み込んだ。しばらくの間、静かにぐっすりと眠っていられるように。碇くんを私のものにするために。私が碇くんのものになるために。
もう後戻りも先送りもしない。A.T.フィールドはその決意だった。
「綾波……行かないで……」
碇くんが急に表情を歪めた。A.T.フィールドを通り抜けて、彼の声が直接頭の中に響く。うなされているようだった。嫌な夢でも見ているのかもしれない。私の決意に気づいたのかもしれない。
気持ちが揺れる。今日は彼のそばにいたい。私のために怪我をして、こんなにうなされている彼のそばを離れたくない。
でも、そうやって一日延ばしにしていてはいけない。碇くんのそばにいるために。碇くんを悲しませないために。そして、私自身のために。
碇くんならきっとわかってくれる。私の碇くんなら、私の好きな碇くんなら、きっとわかってくれる。
――少しだけ待ってて。すぐに帰ってくるから。
心の中で彼にそう告げる。
そして私は目を閉じた。もう元には戻れない。元には、戻らない。
深呼吸をしてから目を開き、ドアをノックした。
「開いてるわよ」
ドア越しに、少し疲れたようなマキさんの声が聞こえた。
「失礼します」
「あら、レイちゃん」
マキさんは驚いた顔をした。
「どうしたの、こんな夜中に。……誰かとすれ違わなかった?」
「誰にも会わないように、来ました」
マキさんは察したようだった。緊張した顔になり、ディスプレイに向き直って何かチェックをしている。ゲートの通過記録か、館内モニタだろうか。
それから内線を取って、どこかを呼び出した。
「長門です。マギの館内モニタとセルフモニタを切って欲しいの。確認したらメンテナンスモードに入れてもらえる? そう。……イエローシグナル? そんなの強制解除しちゃっていいわ。それの絡みもちょっとあって。……大丈夫よ。あたしを信用して。長い時間はかからないはずだから。……写真ですって? あなたは誰派だったっけ。……二人でラヴラヴしてるやつ? はいはい、わかったわよ。それは何とかするから。じゃ、頼むわよ」
最後の方は呆れたような声でそう言って、マキさんは受話器を置いた。
私の方を向いてにっこりと笑い、口唇に人差し指をあてて、静かに、の仕草をした。引き出しからハサミを取り出して、椅子の上に立ち上がる。そして、館内モニタカメラの露出しているコードを切った。
「念のために、ね」
マキさんはハサミをしまって手をぱんぱんとはたき、ディスプレイを見た。
「大丈夫。ちゃんとやってくれたみたい。メンテナンスモードに入ってるわ。これでマギは大騒ぎしないから、ゆっくり話できるわよ」
「……」
「だいたいさぁ、スタッフの個人の部屋にまでモニタカメラがあるなんて、プライバシーの侵害も甚だしいのよね。トイレにも隠しカメラがあるんじゃないか、なんて思っちゃうわ」
マキさんの冗談に、私は小さく笑った。いい人だな、と思う。少し悲しくなった。でも涙は見せたくなかった。
「それで? どうしたの? こんな夜中に。シンジ君と喧嘩でもしたの? 背中、拭かせてもらえなかった?」
そう言うマキさんの笑顔が硬い。そんな理由で来たのではないことは、マキさんもわかっているはず。そんな他愛もない理由ならどんなに良かっただろう。
それでも私は前に進まなければならない。そう決めたのは、他の誰でもない自分自身だから。
真っすぐに前を見て、私は口を開いた。
「お別れを、言いに来ました」