「いつかは……」
私の言葉を聞いてうつむいてしまったマキさんは、もう涙声だった。
私のために泣いてくれる人がいる。私のために悲しんでくれる人が、ここにもいる。
気持ちが揺れる。悲しんで欲しくない。悲しませたくない。
それでも私は――。
「いつかはこういう日が来るってわかってたし、覚悟もしてたけど……」
「……」
「心を通わせたりせずに、仕事だって割り切って、事務的に接するべきなんじゃないかって、考えたこともあったわ。でも、そうしなくて良かったって思ってる。あなたたちがかわいそうだなんて思ったことは一度もないし、大人としての責任を感じるなんて綺麗事も言わないわ。ただ放ってはおけなかった。それはあたし自身が許さなかっただけ。あたしがそうしたかっただけなの。だから……だからあなたが決めたなら、それはあなたのしたいようにするべきなんだと思う。……でもね」
私は目を伏せた。泣いてはいけない。悲しいことなんてないんだから。でも、こらえ切れなかった。
マキさんは立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「いいじゃない! 今じゃなくても!」
「……」
「マギなんてポンコツコンピュータがあなたのこと見えないくらい何よ。全然関係ないわ。あたしにもシンジ君にもちゃんと見えるんだから。前にも言ったじゃない。あなたが厳密な意味で人間かどうかなんて関係ないの。ここにいるって信じればそれでいいの。あたしやシンジ君には、見えるし、触れるし、こうして抱きしめることだってできるのよ。ここにいるってことじゃない」
マキさんの涙が私の髪を濡らす。
「想いだけの存在でもいいの。ここにいればいいの。歳なんか取らなくても関係ないわよ。女にとってはうらやましい話じゃないの。シンジ君だって喜ぶわ。奥さんがずっと十四歳なんだもの。子供なんて産めなくていい。それだけが女の幸せじゃないわ。世の中には自分で子供を産まないことを選択した女たちだって、たくさんいるじゃない。そうだ、シンジ君と二人でさ、あたしの老後の面倒、見てよ。あなたたちが自立するまで、あたしが面倒見るから。シンジ君と相談して、暮らしやすそうなとこ探してさ。北海道でもいいし。大丈夫よ、同居しようなんて言わないから。二人っきりになりたいときもあるだろうしね。それでさ、何十年かしてシンジ君が死んじゃってから、シンジ君のところに行けばいいよ。あたしはもっと先に死んじゃうからさ。ね、そうしよ。焦ってもいいことなんかないよ。もっと楽しくさ、自分のために生きようよ。ねぇ、そうしようよ。一緒にいようよ。三人でさ!」
迸るようなマキさんの言葉は、もう叫び声に近かった。
「なんであなただけこんな辛い目にあわないといけないのよ! もう十分よ。あなたはもう十分に苦労したわ。もういいのよ!」
「……」
「いてくれるだけでいい。ただここにいてくれるだけでいいの。……ね、ずっとここにいてよ。手を伸ばせば届くところに……」
私はこう言うしかなかった。
「ごめんなさい……」
「…………謝らなくていいわ。あなたが考えて、自分で決めたんだから。そうでしょ」
「……はい」
「ごめんね。下らないこと言って。……ね、レイちゃん」
「……」
「あたしたち、友達よね?」
「はい」
「友達のあたしに、一つだけ約束して。また……会えるわよね?」
「……はい」
「わかった。信じてるから」
「……」
「元気でね。再会を楽しみにしてるわ」
「マキさん」
「……」
「いろいろ、ありがとうございました」
「……貸しにしとくわ。次に会ったときには、たっぷりあなたにお世話になるから。その時のあなたが……綾波レイじゃなくてもね」
私は涙を拭いて、無理に作った笑顔でマキさんの言葉にうなずいた。
「失礼します」
「またね」
私を見つめる涙に濡れたマキさんの瞳をまぶたの奥に焼き付け、部屋を出た。
忘れない。絶対に。
扉の向こうから堰を切ったようにマキさんのわめき声がこぼれ、何かが割れるような音が何度も響いた。
ごめんなさい。自分勝手で――。
私は心の中で謝り、目を閉じた。
深呼吸をして目を開く。碇くんはまだ眠っていて、少しだけ安心した。
彼を見つめながら制服を脱ぎ、パジャマに着替えた。碇くんに買ってもらった、碇くんとお揃いのパジャマ。
それからA.T.フィールドの中に――二人だけの空間に入り、碇くんの腕の中にもぐりこんだ。
暖かだった。ずっとこうしていたかった。そのために決意したのに、このまま死んでしまいたいとさえ思う。このまま死んでしまえば、碇くんは私のために悲しんでくれて、やがて私は思い出に変わって行くだろう。そうすれば綾波レイという私はずっと彼の中にいられる。碇くんは私の分まで生きてくれるだろう。
でも、私は決めたんだ。碇くんと一緒に生きるって。
たとえ同じ明日を見るのが、綾波レイという名の私ではなかったとしても。
「綾波……?」
彼が目を開いてつぶやく。私は黙ったまま彼の胸に額をこすりつけた。
「良かった……。ちゃんといるんだね」
「……」
「嫌な夢を見たんだ。綾波が、僕の手の届かない、どこか遠いところへ行っちゃうんだ」
その存在を確かめるために、僕は彼女をしっかりと抱きしめた。そして、彼女の身体がかすかに震えていることに気づいた。
「綾波……?」
腕をほどき、その瞳を見つめる。彼女は泣いていた。
「綾波……どうしたの……?」
「怖いの……」
「どうしたの? 大丈夫だよ。怖いことなんて、何もないよ」
綾波が何を恐れているのかはわからなかったけれど、僕は彼女をしっかりと抱き直して言った。
「僕がそばにいるから。だから大丈夫だよ。そ、そりゃあちょっと頼りないかもしれないけどさ。ははは……」
僕の冗談に、綾波は笑ってくれなかった。
「マキさんだって、いてくれるし――」
「ね、碇くん」
彼女は僕の言葉を遮った。
「碇くん、あたしのこと……抱きたいと思う?」
「綾波……どうしたんだよ……」
「抱いても、いい。あたしのこと、碇くんの好きなようにして欲しいの」
「どうしたんだよ。急に……」
「……」
彼女は何も答えない。
「綾波」
僕はもう一度彼女を強く抱きしめて言う。
「綾波のこと、抱きたいと思うよ。でも、今はまだできないんだ」
「……」
「もっと綾波にふさわしい男になって――」
「あなたは、あなたが自分で思っているより、ずっと素敵な人よ」
彼女は僕の言葉を最後まで聞かずにそう言うと、そっと僕の腕をほどいて立ち上がった。
「綾波……」
彼女は僕を真っすぐに見つめ、パジャマのボタンを外し始めた。
「綾波……何を……」
彼女は下着も取り去り、裸になった。
息を飲む僕を悲しげな瞳で見つめながら、彼女は口を開いた。
「碇くん、あたし……かわいい?」
「綾波……」
「お風呂場で、鏡に自分の姿を映してみた。でも、あたしにはわからなかった」
「……」
「でもね碇くん。あたしは碇くんにかわいいって思ってもらえれば、それでいいの」
「……」
「ね、碇くん。あたし、きれいかな。かわいいかな……」
「きれいだよ、綾波。すごくかわいいよ」
「よかった……」
「……」
「この身体は、碇くんとあたしの想いだから」
彼女は目を閉じ、大粒の涙をこぼした。
「マキさんには、お別れをしてきたの」
「……なんだって?」
「碇くん。あたしね、あたし……ここにはいないの」
「いないって……綾波、あんまり面白い冗談じゃないよ」
僕は無理に笑って見せた。でも彼女が冗談を言っているとも思えなかった。
心臓が鼓動を早める。嫌な予感がした。彼女は何を言いたいのだろう。何も聞きたくなかった。ただ僕の隣にいてくれさえすれば、他には何も望まないのに。
僕は目を伏せて言った。
「服を…着てよ……」
なるべく明るく言ったつもりだったけれど、声が震えるのを抑えることはできなかった。
「碇くん……」
彼女は僕の手を取り、そして胸の膨らみに導いた。
手のひらに伝わる溶けてしまいそうなほど柔らかな感覚。僕は目を閉じることすらできなかった。
「碇くん……あたしは……」
彼女はそう言うと目を閉じた。
同時に、僕の手が綾波の身体の中に沈み込んだ。まるで、ここにいるはずの彼女が幻であるかのように。
「やめてよ……」
僕は手を引き、すぐに彼女を抱きしめた。抱きしめることができた。
「やめてよ綾波! こんなことやめてよ!」
「ごめんなさい……」
「夢だよね。ねぇ綾波。そうだろ? そうなんだろ? 夢なんだろ?」
「……」
「お願いだよ! 夢だって言ってよ! 嘘だって言ってよ!」
「あたしは……」
「……」
「あたしの存在は、碇くんの夢とあたしの想いだったの」
「……」
「でも夢は現実の続きだから……だから希望が夢の中にあるなら、それは現実になるわ」
「綾波……綾波が何を言っているのか――」
「今のあたしは、あなたの夢なの。現実じゃないの」
「そんな……」
「魂を持っていない者には、夢を見ることのできない存在にはあたしを認識できない。だからマギにはあたしが見えなかった」
「……」
「あなたの願いとあたしの想いが、不安定なあたしを作り出した。本当はここにいることのできない、幻の綾波レイを。だからあたしは、あたしのいるべき所に還る。もう一度ここに来るために。碇くんと、本当に会うために。それが、あたしが綾波レイではなくなるということだとしても」
「綾波レイじゃなくなるって……どういう意味だよ……」
「……」
「綾波、綾波がどこかに行くなら僕も一緒に――」
「碇くんには待っていて欲しいの。あなたはここにいるのだから」
「嫌だよ綾波! 離れるのは嫌だよ!」
「碇くん」
彼女は僕に強くしがみついた。
「碇くん、好きよ。好き。好きなの。あたしね、あたしのことなんて、忘れてくれた方がいいんだと思ってた。ずっとそう思ってた。でも今は違うの。忘れないで。あたしのこと、憶えていて。ずっとずっと、好きでいて。碇くん、男の子だから、待てるよね」
「……」
「あなたのこと、好きになって良かった。碇くんを好きになって良かった。あたしは碇くんを好きになった自分を、碇くんが好きになってくれた自分のことを誇りに思うわ」
何もわからない。ただ、綾波が僕に別れを告げようとしている。
「約束したじゃないか……」
「……」
「約束したじゃないか! ずっとそばにいるって! 絶対離れないって!」
「あたしはヒトになるの。普通の、ここにいることのできる、ずっと碇くんのそばにいられる女の子に」
その時、ようやく僕は気づいた。僕たちを微かな光が包み込んでいることに。
A.T.フィールドが発する淡い光だった。
それが綾波の展開するA.T.フィールドだということが、僕には確かにわかった。
「今のあたしはヒトじゃない。あたしはヒトになりたいの。碇くんと一緒に歳をとって、一緒に死んでいけるヒトに」
「綾波はヒトだよ。普通の女の子だよ! つまんないこと言うなよ! A.T.フィールドくらい何だよ!」
「碇くん……」
「離すもんか。絶対離さないよ。綾波、好きなんだ。綾波じゃなきゃだめなんだよ! 綾波がヒトかどうかなんて関係ないんだ! 僕のそばにいてよ!」
「碇くん。あたしは、綾波レイであることをやめても、ずっとあたしであり続けるわ」
「綾波! 待って!」
「碇くん、信じてる。待っててね」
彼女は力一杯抱きしめている僕の腕の中からするりと抜け出した。
「綾波!」
「このパジャマ……」
彼女は脱ぎ捨てたパジャマを拾い上げ、そっと抱きしめた。
「持って行くわ。碇くんにもらったプレゼントだから」
「……」
「碇くん……」
僕は彼女を抱きしめ、むさぼるように口づけた。そのままベッドに押し倒す。口の中に涙の味が広がる。それは僕の涙だろうか。それとも綾波の涙か。
碇くん、ごめんね――。
彼女の想いが、僕の心の中に響いた。
「綾波――!」
そして彼女は、僕の腕の中からかき消えた。
僕はゆっくりと身体を起こした。
「綾波……」
あたりを見回す。彼女の姿はどこにもなかった。
「嘘だろ……」
僕たちを包んでいたA.T.フィールドも、もうなかった。
「あや……なみ……」
何か耳障りな音が聞こえる。それが僕の絶叫だと気づいたのは、夜が明けてからだった。