僕はキッチンのテーブルに座っていた。そこはいつも綾波が座っていた場所だった。
何もせず、ただ座っていた。
することなんて何もなかった。涙はもうとっくに涸れていたし、どんなに大声で叫んでも綾波は帰って来ない。それはわかっていた。事実としてわかっていた。でもそれを信じることができない。諦めるなんてできるはずがない。現実を受け止めることができない。
僕には何もできなかったし、何もしたくなかった。悲しむことさえも。
人の気配に顔を上げると、目の前にマキさんが立っていた。
「あ、マキさん。おはようございます」
「……おはよう」
「カギ、締まってませんでしたか?」
「開けたわ。インターホン押したけど、返事がなかったから」
「そうですか。気がつかなくてすいませんでした」
「……」
「いませんよ、綾波は。どこかに行っちゃいました」
「……知ってるわ。あたしのところにも来たから」
「そうでしたね。お別れをして来たって、言ってました」
「……そう」
「朝ごはん、すぐ作ります。まだ、ですよね?」
僕はマキさんにそう言った。食欲なんて少しもなかったけれど、他にすることもない。これが今の僕にできる唯一のことだ。何かできることがあるなら、その方がいい。何もせずにただじっと座っていることには、もうこれ以上耐えられそうになかった。
……耐えられなくなったらどうなるのだろう。
もしも狂ってしまうなら。いっそこのまま狂ってしまえればどんなに楽だろう。じっと座っていれば狂ってしまえるというのなら、僕はそうするだろう。でもきっと、いずれお腹が減って、喉が渇いて、トイレに行きたくなる。生きている自分を嫌悪するだけだ。
それならば、誰かのために何かをしたかった。自分の価値を見つけたい。それが食事を作るというようなことでも。たとえ自己満足でも、欺瞞でも、それは生きているということなんだと思う。
――生きている?
僕は本当に生きているのだろうか。自分の価値なんか見つけて、それが何だというのだろう。
どうして僕はここにいるのだろう。綾波がいないのに。僕の居場所なんてないのに。
僕の大好きだった綾波は、もう――。
黙っているマキさんの返事を待たず、僕はキッチンに立った。
大根を目の前にして途方に暮れている綾波の姿や、真剣にお米をといでいる姿が思い出され、もう涸れたと思っていた涙がまたあふれた。まだ僕にも悲しむことくらいはできるんだと、それでわかった。涙を流すことが悲しむということだとすれば。でもそれが何になるんだろう。僕は自分を嘲った。何の意味もないことだ。頭を空っぽにして、ただ手だけを動かし続けた。
無意識のうちに作ったのは目玉焼きだった。綾波の得意な料理。綾波の得意だった料理。
「……いただきます」
僕はテーブルに並べたその目玉焼きを口に運んだ。
「綾波……美味しくないよ……」
涙があふれて止まらなかった。
「味が濃すぎるんだ。もっとお塩を控えめにしなきゃ……卵の味がわからないよ……」
どうしたいのか、自分でもわからなかった。
「ねえ綾波、もう一回、僕のために……」
「シンジ君……」
マキさんの悲しげな目が苦痛だった。
長い沈黙の後、僕は口を開いた。
「綾波は……自分は幻だって、そう言ってました。現実じゃない、夢だって」
「……」
「僕は綾波の幻を見ていたんでしょうか。僕の好きだった綾波は――」
「あたしは、レイちゃんが幻だったとは思わないわ」
マキさんは僕を遮るように言った。
「サードインパクトの中で……人々がLCLに溶けて自我を失っていたとき、あなたとレイちゃんと、そしてカヲルという少年は自己を保っていた……」
静かに、まるで独り言のようにマキさんが呟く。
「あなたはみんなのいる世界を望み、レイちゃんがそれを叶えた」
「……綾波が叶えたのかどうかは、良くわかりません。でも……そうなんだろうと思います」
「あなたたちと本部で初めて会ったとき」
「……」
「マギが警報を鳴らしたこと、覚えてる?」
「覚えてます。綾波は……マギには魂がないから認識できないって、そう言ってました」
「あたしたちがここにいるのは」
「……」
「結局、自分の姿をイメージできたということ、自分がLCLに溶けていた事実を信じなかったということだと思うの。あなたが願ったということ以外にね」
「……よく、わかりません」
「死んだことを理解しなかった、とも言えるかもしれない。自分は死んだんだと納得してしまえば、もう生きている自分をイメージできないわ。だからネルフの人たちは還ってこなかったんだと思うの。肉体を失えば魂の宿る場所はないのだから、それは死と呼んでも間違いではないわ」
「……」
「でもね、レイちゃんは違うわ。あの娘は自らのA.T.フィールドをコントロールすることによって、自分の意志で肉体を捨てた。自ら死を選んだの。あなたに呼ばれて、その願いを叶えるために」
「……」
「そのまま消えていくつもりだったんだと思う。それが解放だって、自由になることだって信じていたから。……でもあの娘は還って来たわ。幻の身体を創り出してまで。あなたがあの娘に会うことを願って、そして何よりも彼女自身があなたに会いたかったからよ。たとえ幻の身体でも、ここにいることができるのなら、会うことができるなら、その存在そのものは幻ではないわ」
「もう……どうでもいいですよ……」
僕は自分の声を遠くに聞いていた。僕の目は何も見ていなかった。何も考えたくなかった。幻だろうとそうでなかろうと、綾波が今ここにいないという事実に変わりはない。何もかも、もうどうでもいいことだ。狂ってしまえるんだという気がした。そう思うと、嬉しくて笑いが込み上げてきた。もうすぐ苦しみは消える。
「綾波はもう行っちゃったんです。僕を置き去りにして、僕の手の届かないところに行っちゃったんですよ」
「シンジ君……」
「すいません、少し独りにしておいて――」
バシン、という湿った音が響き、痛みが走った。頬を打たれたことに気づいた。目の前に、涙を流しているマキさんがいた。
「そんな悲しいこと、言わないでよ……」
「……」
「レイちゃんね、あたしにさよならは言わなかったわ」
「……僕には……待っててねって……」
僕の目からまた涙があふれ出し、マキさんの姿が滲んで見えた。
「あの娘はね、生きている自分をイメージしたまま、ガフの部屋に還ったはずよ。それはあなたと生きたかったから、あなたと死にたかったからよ。あなたに会いたかったからよ。あなたは彼女に会いたくないの?」
会いたい。僕は綾波にもう一度会いたかった。
「自分の願ったことに責任を持てなんて言わない。でもあたしはあの娘を信じるわ。あなたが信じてあげなくてどうするの?」
僕は……僕は綾波を……。
「しっかり生きましょう。レイちゃんも、きっとそれを……」
マキさんはそこまで言うと、声を詰まらせてバスルームに駆け込んだ。
だからあたしは、あたしのいるべき所に還る。もう一度ここに来るために。
碇くんと、本当に会うために――。
そうだよね、と僕は思う。綾波は嘘なんかつかない。僕は信じて待っていればいい。いつかきっと会えるだろう。それが、もし僕が死んでからだとしても。
でも僕は待てるのだろうか。僕から会いに行っては、なぜいけないのだろうか。
待っていて欲しい、と彼女はそう言った。だから僕は彼女を信じて待っていればいい。
でも僕は待てそうになかった。
僕から会いに行って、綾波と一緒に還ってくればそれでもいいじゃないか。
バスルームからはマキさんの嗚咽が響く。
僕の想像が当たっていれば、綾波に会うのはそんなに難しいことじゃない。綾波と同じようにすればいいはずだ。つまり、肉体を捨てればいい。狂う必要なんかない。簡単なことだ。
そこまで考えたとき、人の気配を感じた。すぐそばから伝わってくる、よく知っている気配。
「綾波……?」
姿も見えないし、返事もない。でもそれは、間違いなく綾波だった。
「綾波! どこにいるの!? 姿を見せて! 返事をしてよ!」
バスルームから漏れてくる声が止まる。マキさんは、僕が正気を失ったと思うかもしれない。そう思われても構わなかった。事実そうなのかもしれない。綾波に会えるなら、そんなことはどうでもいいことだ。
僕は立ち上がって、文字通り狂ったようにあたりを見回した。何も見えなかった。
「綾波! 綾波、どこにいるの! 迎えに来てくれたんだろ? 今すぐそこに行くよ!」
叫び続ける僕を、何かが優しく包み込んだ。綾波の匂い。間違いなく彼女だった。でも姿は見えなかった。
手を伸ばそうとしてとして、動けないことに気づいた。声も出せなかった。僕は綾波に抱きしめられているわけではなかった。ただ包み込まれていた。
立ちすくむ僕の口唇が柔らかな感触に塞がれ、同時に手のひらに何かを渡されたような気がした。次の瞬間、綾波の気配は消えた。
手の中には、わずか数本の細い空色の糸があった。綾波の髪の毛だった。
「ずるいよ……」
僕は座り込んだ。
「ずるいよ、綾波……こんなことして……こんなもの渡して……僕は……」
渡された髪の毛を投げ捨てようかと思った。でも、できるはずはなかった。それは彼女が本当に僕のそばにいたという証し、幻なんかじゃなかったという徴だった。
「綾波……」
――碇くん、信じてる。待っててね。
綾波の声が聞こえたような気がした。
綾波が僕に死ぬことも狂うことも許してくれないなら。
会いに行くことを許してくれないなら。
生きていくしかない。
マキさんの言う通り、しっかりと。
でも、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。
どうやってその術を見つければいいのかもわからなかった。
何もわからない。
長い時間がかかるだろうと思う。それは十年か、二十年か。
あるいは死ぬまでか――。
僕の隣に、彼女はいないのに。
口づけの感触しかないのに。
綾波……ずるいよ……
「先生がお見えよ!」
「はぁい!」
ママの声に、私は大声で返事をした。鏡に自分の姿を映し、何度も見直した髪の毛の乱れをもう一度直した。部屋の中はゴミなんてひとつも落ちていないし、ベッドの上にはパジャマもきちんと畳んで置いてある。
看護婦さんになりたいから、いい学校に行きたい。だから家庭教師をつけて欲しい――。
十四歳の誕生日を前にした私がそう言うと、パパもママもびっくりしていたけれど、近くに住んでいる大学教授の長門さん――マキおばさんというと怒られるから、マキさんと呼んでいる――に頼んでくれた。マキさんは私と話をして、教え子だった人を紹介してくれることになった。今日は先生が初めて来る日だった。
リビングに行くと、先生はソファに座っていた。
「この子なんです。あんまり出来は良くないんですけど、よろしくお願いします」
ママがそう言って頭を下げる。
私はとびっきりの笑顔で言った。
「はじめまして!」
先生は呆然と私を見つめたまま固まっている。
「何か……ついてますか?」
「あ、いや、すいません。なんだか、あや……いや、あんまり可愛いんで、ちょっとぼーっとしちゃって。ははは……。こ、こちらこそよろしくお願いします」
先生は慌てたようにそう言って、私とママに頭を下げた。
今の私は、髪も黒いし、瞳も紅くなんかない。でも先生はちゃんと気づいてる。そう思うと涙が出そうになった。
先生が胸に小さなペンダントをつけていることに気づいた。透明なそれの中に、空色の細い糸が見える。
私はもうあふれる涙を隠そうともせず、一心に先生の姿を見つめ続けた。十四年間の想いを込めて。
先生。ううん、碇くん……。
今の私は綾波レイじゃないかもしれないけど。でも私は私だよ。
碇くんは、まだ私のこと、好きでいてくれてるのかな。
遠くに離れていても、私は碇くんのこと、ずっと好きでいたよ。
碇くんがどこにいても、ずっとずっと好きでいたよ……。
長い間、ごめんね。でも――。
でも碇くん。また、会えたね……。